序.偽教師が現れる

主日礼拝では、旧約聖書と新約聖書では福音書と書簡を取り上げることにしていますが、今年に入って、書簡ではペトロの手紙二から御言葉を聴いております。これまでにも話していることですが、この手紙が書かれた目的は、教会の中に偽教師と呼ばれる人が現れて、キリストの再臨などないと主張したために、退廃的な生活をする人が出て来たので、改めて再臨の約束を信じるように勧めるためであります。今日与えられている第2章は、その中で、小見出しにもあるように、「偽教師についての警告」を発している部分であります。
 
1節の前半を読みます。かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。――ここでは、まだ偽教師が現れていなくて、将来現れるにちがいないという書き方をしていますが、これは既に亡くなったペトロが書き残した手紙であるという設定で書かれているからで、実はこの手紙の宛先の教会は現に偽教師によって掻き回されていたのであります。
 
では、偽教師が現れたことによって、教会の中でどんなことが起こっていたのでしょうか。1節後半以降を読みます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。1b3a)――これを読んで皆様はどのようにお感じになったでしょうか。恐らく、今の自分の問題や今のこの教会の問題とは、あまり関係のない、2000年前の特定の教会の問題だと受け取られたのではないかと思います。確かに、問題の現れ方は私たちとはあまり関係がないように思われることが起こっているのであります。でも、異端的なものが持ち込まれたり、道徳的に乱れたことが行われたり、真理の道が軽んじられるということは、どの時代の教会にもあったことで、現代の教会でも、しばしばそういうことが起こって、教会が混乱することが起こるのであります。 
 あまり他の教会の問題を話したくありませんが、米子のある教会では、新しく赴任した牧師が、伝統的な信仰とは異なる神学的な立場を強調して、半年後に教会が分裂するという出来事がありました。中国地区のある伝道所では、ここで「みだらな楽しみ」と言われているような、十戒の第7戒の姦淫の罪を牧師が犯したということで、戒規を受ける出来事が起こってしまいました。また、この米子伝道所でも、開設から間もなくの時期に、牧師に対する扱いをめぐって信徒の中に対立が生じて、分裂するという事態が生じました。これは異端の問題ではなくて、人間的な感情のもつれが原因であったように思われますが、ここで「真理の道がそしられる」と言われていることに当たる事、つまり人々に躓きを与える出来事ではなかったかと思います。こうしたことは、今のこの伝道所にも起こらないとは限りませんし、牧師が突然、偽教師に変身することだってあり得ないわけではありません。
 
米国の牧会学の先生が書いた「リーダーシップのダークサイド」という本があって、牧師の心の中にも闇の部分があって、それが突然爆発することがあるということを自分の経験を踏まえて書いています。この先生は新しく作られた教会に赴任して、一生懸命に働いて、順調に発展していたのですが、ある日、車を運転している時に突然、心のバランスを崩して、感情が爆発して、「もうやめた!」と言い出したというのです。心の闇の部分というのは、誰しも持っていて、それが何かの拍子に、色々な形で噴出することがあるというのです。
 
教会の伝道が順調に進んでいる時でも起こりますし、逆に、伝道が伸び悩んでいる時は、もっと起こり易くて、苦し紛れに異端に走るといった例も、過去にあったことを知っています。牧師だけではありません。熱心な信徒であれば、それだけに、ちょっとした出来事から、そういうことが起こらないとは限らないのであります。
 
そういうわけですから、今日の聖書の箇所に書かれていることも、私たち自身の問題、あるいは私たちの教会にも起こる可能性のある問題として、聴いて参りたいと思います。

1.贖い主を拒否

さて、今読みました1節の後半には、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と書かれています。ここに異端の本性がはっきりと述べられているように思います。異端は「自分たちを贖ってくださった主を拒否」するのであります。罪の救いのための十字架の贖いの御業を拒否したり軽視するのが異端であります。数年前にカトリックの司祭で新共同訳聖書の作成にも参加したという方が『聖書を発見する』という本を出しました。それによれば、聖書の中心メッセージは「神は貧しく小さな者たちと共に働いて人を救われる」ということにあることを発見したと言うのです。そして、大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者を助ける活動に取り組んでいるのです。しかし、この本には、十字架の贖いによる罪からの救いということが出て来ないのです。確かに、主イエスは貧しい者たちに寄り添われました。しかし、そこに主イエスの働きの中心があるわけではありませんし、聖書の中心メッセージがそこだけにあるわけではありません。
 
今日の箇所の中で、他にも異端の本性に触れている箇所があります。2節には、「真理の道はそしられる」とありますが、この「真理の道」というのは、旧約では「律法の教え」を意味しますが、新約では「キリストの教え」を意味します。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ146)と言われました。主イエスの御生涯、中でも十字架の救いの道こそが、真理の道であります。また、21節にはこう記されています。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。――この「義の道」も「真理の道」と同じように、旧約では律法に従う道ですが、新約ではパウロがローマの信徒への手紙で強調する「信仰による義」、即ち十字架のキリストによってこそ罪人が救われるということを信じる信仰によって与えられる義であると考えてよいでしょう。その「義の道」を知っていながら、そこから離れるのが異端であります。
 
私たちは福音の中心は、キリストが十字架の贖いによって私たちを罪から救い出してくださったところにあることを知っていて、その真理の道(義の道)を歩むのが本筋であることは頭では分っているのですが、それだけを聞いても何か物足りなく感じて、喜びに満たされない思いがしたり、そのことを語っていても、未信者の方々に福音が伝わらないもどかしさを感じてしまいます。そこで何とか工夫をしなければならないと、説教の中に、聞く人が興味を覚えそうな話を入れてみたり、絵や画像を取り入れてみたり、礼拝の形を変えることを考えてみたりして、霊的な感動を呼び覚まそうとするわけですが、そうしたことは、一つ間違えば、「真理の道」からはずれることになりかねません。仮にそうしたことを取り入れて、表面的には楽しい礼拝になったり、霊的な高揚感が高まったり、教会に来る人が増えたとしても、それだけで、必ずしも肝心の福音の中心メッセージが伝わらないということになってしまう恐れがあります。それは、ここで「異端を持ち込む」と言われていることと変わらないことをしてしまうことになりかねません。そうならないためには、やはり、この1節で言う、「自分たちを贖ってくださった主」を拒否したり、無視したり、軽率に扱うのでなくて、私たちの実際の生き方・生活の中に迎え入れて、罪を赦された恵みに対する応答を形にして行く・行動にして行くということではないでしょうか。それは、言い換えれば、贖い主なる主の御言葉を生活の中で生かしていくということで、本年の目標である「御言葉に生かされる」ということに通じることであります。

2.偽教師の姿――みだら/強欲/偽り

 ところで、異端を持ち込む偽教師の話に戻りますが、2節では「しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています」と言われ、3節では「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」と語られていました。「真理の道」から逸れると、陥りがちなのが、道徳的な乱れと欲深さやうそ偽りであります。そして、10節後半からの段落に進みますと、更に偽教師が引き起こす様々の問題が述べられています。まず、10節後半から12節にかけての部分では、「そしる」という言葉が3回使われています。彼らは、栄光ある者たちをそしってはばからない、と言います。「栄光ある者たち」というのは天使のことを指すようですが、迫害で殉教した人たちのことかもしれません。天使や殉教者も完璧というわけではないかもしれませんが、人を批難ばかりして自分の問題性を顧みないというのが、偽教師の特色と言えるのかもしれません。また、13節では、彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています、とあり、14節では、その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています、と記されています。ここでも、道徳的な乱れが指摘されています。そのあと、彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています、とあって、そのあと、1516節を見ますと、先程朗読していただいた旧約聖書の民数記22章に書かれているエピソードのことが出ています。彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。――これだけでは何のことかよく分かりませんが、民数記によれば、出エジプトの旅を続けたイスラエルの民が、いよいよカナンの地に近づいて、モアブの平野に宿営するのですが、モアブの王であるバラクがおびただしい数のイスラエルの民を見て恐れて、占い師のバラムという者にイスラエルの民を呪うように要請するのです。バラムは神様に相談すると、神様はその要請に応えてはならないと言われます。しかし、バラク王からの再度の要請にやむを得ず、ろばに乗って出発するのですが、天使が現れて立ちふさがったので、ろばは進めなくなります。バラムはろばを杖で打つのですが、言うことを聞きません。その時、バラムの目が開けて天使が立ちふさがっているのを知ります。そして、モアブのバラク王の所へ行って、王の要請とは逆に、イスラエルの民を祝福したというエピソードです。このエピソードで指摘されていることは、「バラムは不義のもうけを好み」と書かれているように、自分の利益を求めて、正しいことをするのを避けようとしたことであります。そのように、偽教師たちも、心は強欲におぼれている、というのです。
 このように偽教師と呼ばれる異端の問題点がたくさん指摘されていますが、皆さんはこれらを読んで、おそらく<自分たちはこんなにひどくはない>と思われるかもしれません。しかし、自分の中にも、こうしたことにつながる芽がないわけではないことに、気付く必要があります。表面は繕っていても、心の奥底には闇があります。一旦、真理の道からはずれると、誰の中にもある闇が広がって、いつの間にか欲望が抑えきれなくなったり、自分を誤魔化したり、自分を大きく見せて他人を裁いたりすることに陥ってしまいかねない弱さを持っているのではないでしょうか。罪の赦しという福音の光に照らされると、そういう自分の醜さ・弱さがはっきりと見えて来るのであります。

3.神は容赦されない――裁くのは神

さて、こうした真理の道を逸れた者たちに対する神様の裁きについて、3節後半以下に書かれています。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません、という言葉に始まって、4節以下には旧約聖書に書かれている3つの例が挙げられています。一つは、創世記6章の記事を敷衍して伝えられていたことですが、神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められたということ、二つ目は、ノアの洪水の物語ですが、地上に人間の悪が満ちたために、神は容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こして裁かれたという出来事、三つ目も創世記の記事ですが、罪深いソドムとゴモラの町に硫黄の火を降らせて町を灰にして、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさったという出来事です。このように、神様は正しくない者たちを厳しく罰せられると言うのです。私たちはこのことを自らのこととして深刻に受け止める必要があります。
 それと共に、ここで注意しなければならないことは、裁きは神様の領域に属することであるということです。私たちは自分のことを棚に上げて他人を裁きがちでありますが、裁きは神様に委ねなければなりません。もちろん、何が正しくて、何が間違っているかということは、御言葉に照らして明らかにする必要がありますが、裁くのは神様であって、私たちがすることではありません。私たちがしなければならないのは、自らを省みて、御言葉に従って自らを正すことであります。

4.正しい人を助け出す

ところで、ここに記されている神様の裁きの出来事の中で、助け出された人もいたということを見落としてはなりません。洪水の物語では、義を説いていたノアたち八人箱舟を作らせて保護なさいました。また、ソドムとゴモラの物語では、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。ノアたちが山の上に箱舟を作ることで、周囲の人々の笑いものになったでしょう。しかし、神様の言われるままに箱舟を作りました。ロトは神様に救いを祈りつつ、妻と共に町から逃げ出しました。町の様子が気になったことでしょうが、一目散に逃げました。しかし、妻は気になって後ろを振り向いたために塩の柱にされました。ここに神様の厳しさを見ることが出来ますが、神様の救いの御言葉を信じて従う者は救い出されるとうことであります。ペトロの手紙の筆者は、これらの出来事を当時の教会の状態に重ね合わせながら、これらのことを記しているのでしょう。

結.義の道の自由

現代の教会もまた、神を知らない人々の中にあって、私たちは救いの確信が揺るがされ、真理の道から逸れそうになります。真面目に礼拝生活を続けているよりも、楽しいことをして残された人生を過ごす方がよいのではないかと思ってしまったりいたします。そういう私たちに向かって、聖書は17節以下でこう語りかけます。
 
この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。1721節)
 この中の19節に「自由」という言葉が出て来ます。偽教師たちは、<自分たちは自由な者である>ということを誇りとしていました。おそらく、キリスト者は律法から自由にされた者だということで、それをはき違えて、勝手気ままな生き方をしていたのではないかと思われます。そして、人にも自由を与えるなどと言っていたのでしょう。しかしここでは、そのような生き方をする人こそ、実は「滅亡の奴隷」だと言うのです。福音によって約束されている自由とは、罪に対して死んで、罪と律法の奴隷になっている状態から解放されることであります。この自由は欲望に身を委ねたり、勝手気ままなことをすることとは違います。むしろ、情欲と貪欲に捕われていた人生を清算して自分の主権をキリストに渡して、神の僕(奴隷)として生きることであります。パウロはこう教えています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ローマ513)。私たちは、キリストの十字架による救いによって罪から解放された者として、「愛によって互いに仕え合う」という自由を与えられているのです。「御言葉に生かされる」という今年の目標は、御言葉によって、そのような意味での本当の自由に生きる者とされるということであります。祈りましょう。

祈  り

私たちを罪の奴隷から解放してくださったイエス・キリストの父なる神様!
 私たちは、礼拝を中心とするキリスト者の生活を、何か窮屈なもの、不自由なものと思ってしまい、そこで与えられる本当の喜びに気づかず、異なった所に楽しみや喜びを求めてしまって、いつの間にか「滅亡の奴隷」に成り下がっている者でございます。
 
どうか、あなたから恵みとして与えられた罪からの解放の喜びに生かされる者として下さい。どうか、毎週、御言葉の糧を受けることによって、本当の自由の喜びに生き続ける者とされて、「義の道」を全うすることが出来る者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年2月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙二 2:1−22
 説教題:「
義の道と滅びの道」         説教リストに戻る