イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。
                 (ヨハネによる福音書1845

 主イエスが逮捕される場面である。主イエスは既に最後の晩餐の席でユダの裏切りを予告しておられ、主を逮捕しようとしている連中をユダが手引きすることも承知の上で、弟子たちと共にゲツセマネの園へ入られた。案の定、ユダは兵士と祭司長・ファリサイ派の人々が遣わした下役たちを引き連れてやって来た。すると主イエスは、御自身を差し出すかのように、「進み出て」、標記のように言われた。主は十字架への道に向かって進み出られたのだ。
 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、主は「わたしである」と言われた。これは、彼らが捜している当人であるという意味だが、この言葉は、モーセが神の名を尋ねた時に、神が「わたしはあるという者だ」と答えられたことに通じ、「永遠に存在する者である」という意味が込められている。この言葉を聞いて、「彼らは後ずさりして、地に倒れた」(6)という。主の言葉の圧倒的な迫力に押し倒されたのである。
 そのあと主は、「わたしを捜しているのなら、この人々(弟子たち)は去らせなさい」(8)と言われた。これは、ヨハネの解説によれば、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(ヨハネ1712からの引用)という、主が祈りの中で述べられた言葉が実現することになったのである。彼らは、弟子たちも一緒に逮捕しようとしていたかもしれないが、この主イエスの迫力に押されて、逮捕することが出来なかった。主イエスは、御自分の十字架の犠牲によって、主に従う者たちを一人も滅びないで救おうとされたのである。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ639)。主イエスは、私たちをも、その一人に加えてくださっている。

主日礼拝説教<要 旨> 2014年1月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:1−11 説教題:「1人も失わない」 説教リストに戻る