序.だれを捜しているのか

今日はヨハネ福音書18章の、主イエスの逮捕の場面を記した箇所の御言葉を与えられております。今回から3月末にかけて8回にわたって、ヨハネ福音書18章と19章の、主イエスの御受難の場面から御言葉を聴くことにしています。
 ところで、礼拝というのは主イエス・キリストとの出会いの場であります。礼拝では聖書の話を聴きますが、それは聖書の知識を得たり、道徳的な教訓を学んだり、哲学的な悟りを与えられるのではなくて、御言葉によって、今も生きて働いておられる主イエス・キリストというお方と出会い、その人格に触れるのであります。ところが今日の箇所は、主イエスが一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々から遣わされた者たちによって逮捕される場面であります。そんな犯罪者のようなお姿の主イエスに出会って、どういう意味があるのだろうか、もっと力強い頼もしいお方に出会いたい、と思ってしまいます。けれども、このような一見弱々しく、頼り甲斐のないような主イエスのお姿と、そこで語られた御言葉を通してこそ、深いところで私たちを支え、生かしてくださる主イエスに出会うことが出来るのであります。
 4節の中に「だれを捜しているのか」という主イエスのお言葉があります。同じ言葉は7節でも繰り返されています。これは、主イエスを逮捕しようとしてやって来た人々に対して問いかけられた言葉であります。こう言われたのは、主イエスがまさか自分が逮捕されると思っておられなかったので、こんな質問をされたのではありませんし、逮捕されることを覚悟しておられたけれども、遣わされた人たちが主イエスと面識がないので、彼らに誰を捜しているか確認する意味で問いかけられたというだけのことでもありません。そこには、<あなたがたが捜しているイエスという人間がどういう人物なのかということが分かっているのか>という問いかけが含まれているように思います。彼らは、主イエスがどういうお方なのか、分かっていません。彼らは主イエスを神の子だとか救い主だとかは考えず、世の中を混乱させる者、あるいは神を冒涜する怪しからぬ奴だとして逮捕しようとしているのであります。
 
しかし、それならば、私たちは主イエスというお方を正しく認識しているのでしょうか。当時の民衆は主イエスに様々な期待をいたしました。病気を癒してくれる方、ユダヤの国をローマの支配から解放してくれる方、自分たちに幸せをもたらす方などとして歓迎する向きもなかったわけではありません。私たちもまた、主イエスに様々の期待を寄せます。襲い掛かる苦しみや困難から救い出してくださるお方なのではないか、生きる目標が見出せなくて悩みの中にある自分に確かな道を示してくださるお方なのではないか、間違った世の中を正してくださるお方なのではないか、などと期待をしつつ、主イエスの御姿を捜し求めるのであります。しかし、この「だれを捜しているのか」という問いかけの中には、<あなたがたは主イエスの中に見当違いのものを捜し求めていないか>あるいは<私があなたがたのために何をしようとしているのか分かっていないのではないか>という意味が込められているのではないでしょうか。主イエスは、私たちが想像したり、期待したり、捜し求めている方とは違っている可能性があるのです。主イエスの弟子たちでさえ、見当違いのことを主イエスに求めていたからこそ、ユダのように主イエスを裏切ることになってしまったのであります。ある註解者は、この問いを「キリスト論的な問いである」と言っております。キリストを誰と告白するか、と問いかけられているのだ、ということです。そんな言い方をすると難しい神学的な事柄のように思うかもしれませんが、そうではありません。私たちが自分の生活の中で主イエスをどのようなお方として受け止めているか、キリストを神の子・救い主として崇め、その御心に従う生活をしているか、主イエスを脇に置いて、勝手なことをしつつ、困った時だけ助けを求めるようなことをしていないかという問いかけであります。
 
そうした問いかけに対して、今日の箇所は、主イエスがどのようなお方であるか、私たちに何をもたらそうとしておられるのか、ということ指し示しています。主イエスの真実のお姿、御人格に出会うことが出来る箇所の一つではないかと思います。そのためには、記された聖書の言葉の一つ一つに込められた深い意味を探りながら、それを単に2,000年前のこととしてではなくて、自分自身との関わりの中で受け止めて、聴き取って行く必要があると思います。

1.ユダも知っていた園へ

まず、1節、2節を読みましょう。こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
 こう話し終えると」というのは、14章までの最後の晩餐のあと、「出かけよう」と言って立ち上がられてから、15章、16章に書かれている弟子たちへの説教を語られたことと、17章に書き残されている主イエスの祈りを終えられると、という意味だと考えられます。
 
キドロンの谷」というのは、エルサレムの東側で、町とオリーブ山の間にある谷で、「そこには園があり」というのは、「ゲツセマネの園」と言われている場所だと思われます。他の福音書では、そこで、十字架に架かることが神様の御心なのかどうかを確かめる、血の汗を流す激しい祈りをなさったことが記されているのですが、この福音書にはそれが記されていません。しかし、1227節にゲツセマネの祈りに通じる祈りが記録されています。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」――おそらく、こうした祈りは何度も祈られたにちがいありません。
 
さて、注目したいのは、18章の2節であります。このゲツセマネの園は、弟子たちが度々集まった場所でありました。当然、ユダもよく知っている場所で、最後の晩餐が終わったあと、主イエスがここに来られることが十分予想されたのではないかと思います。一方、主イエスは既に晩餐の席で、イスカリオテのユダが裏切ることを告げておられました。ですから、主イエスを逮捕しようとしている連中をユダが手引きするであろうことを主イエスは予想しておられたに違いありません。ですから、もし主イエスが逮捕されたくないのであれば、ゲツセマネの園には行かれなかったに違いありません。しかし、主イエスはその危険なゲツセマネの園へ、いつものように入られたのであります。逮捕を覚悟の上の行動であります。もはや、主イエスは神様の御心に従って、敢然と十字架に向けて歩んでおられるのであります。この主イエスの御決心を私たちはしっかりと受け止める必要があります。この御決心は他でもない、私たちのための御決心でもあります。

2.松明やともし火や武器を手にして/剣をさやに

次に3節を御覧ください。それでユダは、一隊の兵士たちと、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
 
案の定、ユダは、主イエスを捕えて十字架に架けたいと思っている人たちから派遣された兵士や下役を手引きして、この場所にやって来ます。彼らは「松明やともし火や武器を手にしてい」ました。このことが象徴的に表わしている一つのことは、彼らの行動というものは明るい日射しの下では出来なかったことであり、彼らの行動はまさしく闇の行動であったということであります。主イエスの御受難の出来事というのは、人間が抱え込んでいる罪の闇が、どれほど深いものであるかを示しているように思います。イエス・キリストは光の子でいらっしゃいます。このキリストに敵対する闇の勢力が、立ち向かっているのであります。その闇の勢力というのは、他人事ではありません。私たちもまた、罪に満ちた暗闇の中で、人間が造り出した灯りと武器を手にしながら、まことの光を消し去ろうとしているのではないでしょうか。私たちは科学技術がもたらす便利さや豊かさに光を求めたり、様々な文化的な営みに喜びや楽しみを見出したり、あるいは色々な宗教や伝統に拠り所を見出そうとしたり、お金や武力といったものに安全や安心を託したりして、結局はまことの救いを失おうとしているのではないでしょうか。
 
このあと、10節を見ますと、シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした、と書かれています。弟子たちも、主イエスに危険が近づいていることを察知して、いざという時には戦う覚悟をして剣を持っていたのでしょう。一見、勇ましい態度であり、勇敢な行動に思えます。しかし、ペトロも闇の世界の中での発想、力に対して力で戦うという発想から抜け出せていないのであります。キリスト者は闇の世の中にあって、何をもって戦うのでしょうか。人間が造り出した灯りや力をもって戦うのでしょうか。
 このペトロの行動に対して主イエスは、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とおっしゃいました。併行記事のマタイ福音書では、さらに「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ2652)とも言われました。人間が造り出した力で戦っても、却って滅びを招くだけなのであります。ペトロは大きな過ちを犯してしまうところでありました。ペトロはこのあと、主イエスを裏切ってしまうことになります。主イエスが何をしようとしておられるのかを理解していなかったからであります。主イエスは諭すように、ペトロに言われます。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と。「杯」とは、最後の晩餐の中で主イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ2628)と言われ、ゲツセマネの園での祈りの中で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりでなく、御心のままに」(マタイ2639)と祈られた「杯」のことであります。つまり、十字架の上で主イエスが流される血の犠牲のことであります。「杯」とは、元々、神様の憤りや審きを表わす言葉でありました。主イエスの十字架は人間の罪に対する神の怒りをお受けになることであります。この「杯」以外に、罪の支配から私たちを救い出す道はないし、本当の希望の光が輝くことはないのであります。主イエスはその道を歩もうとしておられるのであります。

3.イエスは進み出て/後ずさりして

4節に戻りますと、こう書かれています。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
 
主イエス「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」ます。ユダの行動も知っておられて、最後の晩餐の席でもユダの裏切りのことを予告されたあと、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ1327)とまで言っておられました。ここでも「進み出て」という言葉が入っています。主イエスは、ユダたちの一行がやって来るのを待たずに、御自分の方から、おられたゲツセマネの園から「進み出て」、やって来た者たちと向き合われるのであります。この「進み出て」という言葉に、主イエスの積極性というか、勢いが表わされています。主イエスは、彼らに見つけられてやむなく逮捕されたのではなくて、御自分の方から御自身を差し出されたのであります。積極的に十字架への道を進もうとされているのであります。
 このあと、6節には、イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた、と書かれています。武装した兵隊や下役たちが、主イエスの迫力に圧倒されて後ずさりして倒れたのであります。ある人はこのことを、「主イエスの手が押し倒したのではない。御言葉が押し倒したのです」(加藤常昭)と言っております。強い決意をもって語られた主イエスの御言葉の迫力が、彼らを打ち倒したのであります。やって来たのは、いわばこの世の代表であります。この世は自分たちの力でもって、自分に必要なものを獲得し、物事を解決しようとします。しかし、主イエスは御自身の命を差し出して、御言葉によってこの世を打ち倒して、この世が持っている本質的な問題を解決されるのであります。教会は現代の社会の中で、特に我が国の中で、弱い存在に見えます。しかし、教会は主イエスの御言葉を持っています。御言葉は罪に支配されたこの世を打ち倒す力を持っています。キリスト者というのは、御言葉によって打ち倒された者である筈であります。ところが、私たちはいつの間にか、御言葉の力を忘れてしまうのであります。そこが問題であります。今年の目標は「御言葉に生かされる」であります。御言葉に生かされるためには、私たちがまず、御言葉の持つ力を信じるところから始めなければなりません。

4.「わたしである」

さて、次に耳を傾けたいのは、5節、6節そして8節に出て来る「わたしである」という御言葉です。流れから言うと、主イエスを捕えようとやってきた者たちの前に主が進み出られて、「だれを捜しているのか」とおっしゃると、彼らは「ナザレのイエスだ」と答えたのに対して、主イエスが「わたしである」と言われたのであります。ここで言われた「わたしである」という言葉はこの日本語で普通に読めば、「私がお前たちの捜しているイエスだ」と言っておられるに過ぎないように聞こえます。実際、このやりとりの中では、そういう一般的な意味の言葉であったに違いありません。
 
しかし、この言葉の原語は、「エゴー・エイミー」と言いまして、英語に訳せば「I am」ですが、聖書の中では特別な意味を持つ言葉であります。このヨハネ福音書の中では、「わたしが命のパンである」635)とか、「わたしはよい羊飼いである」1024)などと言われた時の「わたしは…である」という時に使われる言葉でありますし、また、英語でもそうですが、「わたしはここにいる」と、存在していることを表わす言葉でもあります。それも、「今、ここにいる」というだけではなくて、「わたしは永遠から永遠に向けて、ここに存在する」という意味が込められているのであります。なぜかと言えば、出エジプト記3章のモーセの召命の記事の中で、モーセが神様に、「イスラエルの人々が神様の名は一体何かと問うにちがいありません。何と答えるべきでしょうか」と問いました時に、神様は「わたしはあるという者だ」と答えられたことが記されているからであります。つまり、「わたしはある」と言われた言葉には、「わたしは永遠に存在する神である」という意味合いが込められているのであります。主イエスもヨハネ福音書の8章でユダヤ人と対話された時に、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ824)とおっしゃいました。そこでも、永遠の存在である主イエス、という意味合いが込められているのであります。ここで「わたしである」と言われた言葉には、そういう意味合いが込められているので、聞いた人たちは、圧倒するような力を受けて、「後ずさりして、地に倒れた」のであります。私たちが今日、この礼拝で御言葉において出会っているお方は、そのような圧倒的な存在感を持って私たちの前に立っておられる、ということです。
 7節、8節を読み進むとこう書かれています。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。」――同じ会話が繰り返されているようですが、<今あなたがたが出会っている私が、誰だかわかっているのか。私こそ、あなたがたが本当の意味で捜し出さなければならない、永遠に存在する者なのだよ。その私が、今あなたがたに捕えられて十字架に架かろうとしているのだよ>という意味が込められているのではないでしょうか。私たちもまた、そのようなお方の前に今、立たされているのであります。

結.一人も失わない

この対話に続いて8節の終わりで、こう言っておられます。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
 
この人々」というのは、主イエスと一緒にいた弟子たちのことであります。<あなたがたが捜しているのが、ナザレのイエスであるならば、私だけを捕えて、弟子たちは去らせなさい>という意味であります。この言葉には、弟子たちの今後に対する主イエスの暖かい心遣いを見ることが出来ます。彼らは、最初は弟子たちも捕えようとしていたかもしれません。しかし、主イエスの迫力に押されて、彼らは弟子たちに手を出すことが出来なかったようで、逆に、先程見ましたように、手下の一人がペトロによって耳を切り落とされる有様でありました。弟子たちは、結局は主イエスを裏切ってしまうような、弱い者たちでありましたが、彼らこそ、主イエスの復活の後、福音を伝える重要な働きをすることになるのであります。
 9節には、福音書記者の解説が付け加えられていますが、それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった、と述べています。この引用の言葉は、このヨハネ福音書の1712節の言葉であります。それは、主イエスの祈りの中で述べられた言葉ですが、こう言われていました。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」――このお言葉どおり、「滅びの子」と言われているユダ以外の弟子たちは、主の復活後、再び弟子としての役目を果たすことになるのであります。
 
私たちは今日、この9節の主イエスの御言葉を、私たちにも向けられた言葉として聴くことが許されるのではないでしょうか。主イエスはかつて「命のパン」について語られた中で、こういうことを言われていました。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ63940)今、捕えられて十字架に向かおうとされている主イエスは、私たちにも、この御言葉を語っていてくださるのではないでしょうか。主イエスの十字架は、罪深く弱い私たちをも、終わりの日の復活にあずからせるためなのであります。そのように計らってくださる主イエスに、心から感謝し、ぬかずき、従って行く者でありたいと思います。祈りましょう。

祈  り

十字架に向かって敢然と進んで行かれ、私たちのために救いを実現して下さったイエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。
 
今日も、私たちのために命を捨ててくださる主イエスに、御言葉によって出会うことが許されて感謝いたします。
 
どうか、私たちが地上の生を許されている限り、あなたを礼拝し、あなたに信頼して従って行く者とならせて下さい。どうか、力があるように見える他のものに惑わされることがないように、お守り下さい。主イエスの御言葉から遠ざかっていて、主イエスとの出会いの機会を失っている方々を顧みて下さって、どうか一人も失われることがないようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年1月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書 18:1−11
 説教題:「
1人も失わない」         説教リストに戻る