序.闇の中へ

年が明けて、先週の主日からペトロの手紙二の御言葉を聴き始めました。先週も申しましたように、このペトロの手紙二のテーマは「再臨(主イエスが再び来られること)」であります。当時の教会の中に「偽教師」と呼ばれる人が現れて、〈再臨などは起こらない〉と主張して退廃的な生活をする人が出て来ました。これに対して、主の再臨の約束を信じるように勧めたのがこの手紙であります。
 
今日の聖書の箇所でも再臨の預言の言葉の確かさを説いているのですが、19節にはこう書かれています。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。――ここに、「夜が明け、明けの明星が・・・昇る」とあり、「暗い所に輝くともし火」とありまして、再臨の預言の言葉が「星」や「ともし火」の「光」として表現されています。考えてみますと、聖書の中には、創世記の最初にある、神が「光あれ」と言われた言葉によって闇の中に光が創造されたことから始まって、新約聖書の福音書、そして今日与えられているような書簡などに至るまで、色々な箇所で神様の御業が暗闇の中に輝く「光」として表現されています。そういう意味では、旧・新約聖書は長い「光の物語」であるとも言えるのであります。それらを全部見ていると、いくら時間があっても足りませんが、今日は、新約聖書を中心に、その中でも大きな出来事に関係して「光」が取り上げられている、あるいは暗示されている箇所を見て行きたいと思います。
 その前に確認しておかなければならないことは、聖書は、この世の状態を〈光のない闇〉と捉えているということであります。そもそも、先程触れましたように、天地の創造の前については、「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)」あった(12)と記しています。神様が働かれる前は闇が支配していたのであります。「闇」とは、単に光がないことによる暗い状態ではなくて、「混沌であった」と言われているように、無秩序で命が育たない死の世界、神無き世界であります。――それでは、神様が光を創造されたことによって、秩序がもたらされ、命が育つようになったのでしょうか。確かに、神様は月や星や太陽を創って宇宙に秩序をもたらされ、動物や植物、それに人間が創られて、命の営みが始まり、神様が「極めて良かった」(131)とおっしゃるような、豊かで、平和な世界が始まったのです。しかし、それが人間の罪によって破壊されることになりました。再び闇が覆い始めたのであります。それでも世界には文明が広がり、快適で便利な生活が出来るようになりましたが、神様がお喜びになるような状態ではなくなってしまいました。聖書では、光の中にあるか、闇の中にあるかを、文化や文明の進歩の問題として捉えるのでなく、神様との関係の問題として捉えます。罪の問題です。神様との関係が崩れると世の中から光が失われ、先が見えなくなり、希望が見いだせなくなり、心の中を闇が支配し始めます。そして憎しみや争いが起こり、命が失われ、神様が創られた地球環境も破壊されます。そういう意味では、聖書の時代も今の時代も暗い闇が覆っているのであります。
 
しかし、神様はそのような闇の状態、罪の状態を放っておかれませんでした。闇の中に光を射し込まれます。旧約の時代にも神様はイスラエルの民を通してこの世に光をもたらそうとなさいました。しかし、人間の罪は止まるところを知りませんでした。そこで神様は根本的な解決の道、光の道を開こうとなさいました。こうして新約の時代の幕が開かれることになったのであります。その御業を今日は「光」という視点から見て参りたいと思います。というのは、今日の世界や私たちの身の回りの状況も、決して明るいとは言えない闇の現実があるからであります。そして、その闇の中に神様が投じられている光に気づかされたいと思うからであります。

1.光の到来――クリスマス

昨年のクリスマス礼拝では、ブラックシアターという形で主イエスの降誕の物語を見ました。ブラックシアターというのは、部屋に暗幕を張って暗闇にした上で、蛍光絵具で描いた絵をブラックライトと呼ばれる特殊な灯りで照らして光らせるものですが、そういう装置を使うことによって、主イエスの降誕が、闇の中に光を投げかける出来事であったことを印象深く受け取ることが出来ました。聖書が告げる降誕物語においても、羊飼いたちが夜の闇の中で羊の群れの番をしていたところに、「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」(ルカ29)と、主イエスの誕生が闇の中に光をもたらす出来事であったことを語っています。また、ヨハネ福音書では主イエスのことを「言(ことば)」として表現し、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている」(ヨハネ145)と述べて、主イエスの誕生を光の到来として捉えています。なぜなら、主イエスは人間が神様に対して犯している罪の問題を解決するために来られたからでありました。そして、主イエス自身、御自分のことを「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ812)と言われました。主イエスが光であるのは、単に主イエスの語られた言葉が暗く沈んだ心を明るくするとか、主イエスが病や差別で困っている人を助けられたことが、その人たちの生活を明るくしたということではありません。人間と神様との敗れた関係、罪という闇の状態の解決のために、御子イエス・キリストが乗り出して、御自身の命まで差し出してくださったからであります。

2.真っ白な輝き――山上の変貌

さて、今日の箇所の16節を見ますと、わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです、と述べています。ここに「威光」という言葉が出て来ます。これは何のことを言っているのかというと、この後を読めば分かります。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。1718節)これは福音書に書かれている「山上の変貌」の出来事であります。福音書を見ますと、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ172)とあり、「光り輝く雲が彼らを覆った」(同175)とも書かれています。このように、「山上の変貌」は主イエスの御威光を表わす光の出来事であります。ペトロの手紙の筆者とされているペトロはヤコブ、ヨハネと三人でこの出来事を体験したのでありました。この出来事は、主イエスの十字架の死の予告を聞いて動揺する弟子たちに、その後に復活があることを予め弟子たちに知らせたものであると受け取られるのが普通です。しかし、ここでは「キリストの力に満ちた来臨を知らせる」ことと関連して語られています。つまり、キリスト再臨の預言を確証する出来事であると受け取って、再臨はないと主張する偽教師たちに反論しているのであります。このように、「山上の変貌」の出来事は、復活の予告という受け止めと、再臨の予告を確証するものという受け止めと、二つの受け止め方がありますが、私は、どちらかに特定する必要はないと思います。弟子たちはこの出来事を体験したとき、何が起こっているのかよく理解できずに、ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(マタイ174)と口走りました。このすばらしい出来事を何とか留めたいと思ったのでしょう。しかし、この出来事の意味は、旧約聖書の代表的な人物であるモーセとエリヤが主イエスと語り合っていたというところに示されています。つまり、旧約以来、預言され待ち望まれてきた救いの約束がイエス・キリストの十字架と復活の御業によって成就するということであって、そのことが「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と語られているように、天の神様の御心に適う御業であるということを表わしているのであります。弟子たちも、この時は何が起こったのか分かりませんでしたが、十字架の後に復活の主イエスに出会って、この出来事の意味を知ることが出来たのではないでしょうか。この出来事の時に弟子たちが見た「キリストの威光」と「荘厳な栄光」と記されている「光」を、主イエスの復活の時に、もう一度確認することになります。

3.夜明けの光と共に――復活

主イエスが復活されたのは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうち」(ヨハネ201)でありました。朝の明るい光が射し始める時に、女の弟子たちが墓を訪れると、墓から石が取りのけられていて、墓が既に空であることを知りました。そしてそのあと、女たちはまばゆい朝の光の中で復活の主イエスと出会ったのでありました。もはや暗い墓の中に主イエスの姿を求める必要はありません。明るい光の中で主イエスが出会ってくださったのであります。人間の罪の故に十字架に架けられた主イエスでしたが、今や、その死に打ち勝って、罪に勝利してくださったのであります。ここから、弟子たちの新しい命が始まります。光に照らし出された新しい道が開かれます。
 
また、ヨハネ福音書によれば、ペトロたち男の弟子たちに復活の主イエスが現れた時も、夜明けの明るい光の中でした。ティベリアス湖で夜通し漁をしたけれども何も獲れなくて暗い気持ちで帰って来た時、主イエスが声をかけてくださったのでした。(ヨハネ211以下)主イエスを裏切った背信の夜を通り過ぎて、明るい光の下にペトロの不信仰が白日の下にさらされたのでありますが、主イエスの「わたしの小羊を飼いなさい」との言葉によって、もう一度明るい光の下で、弟子としての再出発をするのであります。こうして絶望の夜が過ぎ去って、ペトロは神様の憐みに満ちた光の中を歩み始めるのであります。
 今日の箇所の19節にはこう記されています。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。――「預言の言葉」とは旧約聖書全体のことを指します。「明けの明星」とは、民数記の中に「ひとつの星がヤコブから進み出る」(2417)とあることから、イスラエルに現れるメシアと結びつけて考えられていましたから、キリストのことを指しています。旧約聖書の中にキリストの復活といったことが直接預言されているわけではありませんが、闇の中に輝く光によって死から命に変えられるということは預言されています。例えば、アドベントに聴いたイザヤ書9章では、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ91)と述べられていました。詩編56編では、「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落されようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます」(詩編5614)とあります。弟子たちは、山上で主イエスの輝くお姿を見たこと、そして、夜明けに復活の主イエスに出会ったことを、旧約聖書が預言していた明けの明星の出現が成就したのだと受け止めて、19節のように語っているのでありましょう。

4.明けの明星――再臨

弟子たちはそのように、復活の主イエスが旧約聖書で預言されていた「明けの明星」であると受け止めたのでありますが、この手紙が書かれた時代の世界の状況とその中における教会の状況は、決して昼間のような明るい状況ではありませんでした。まだ明けの明星が現れない暗闇の中にある状況でありました。イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、人間の罪の問題、神様との敗れた関係の根本的な解決は行われたのでありますが、それが一人一人の人間に浸透するところまでには至っていないのであります。救いの御業は未だ完成していないのであります。神様はなぜ、一挙に完成へと持って行かれないのかと不審に思われるかもしれません。しかし、神様と私たち人間との関係というのは、権力者と奴隷の関係や主人とロボットの関係のような自由のない機械的な関係ではありません。信頼で結ばれる自由な愛の関係であります。強引に縛り付けるような関係ではありません。イエス・キリストによって現わされた神様の愛に一人一人の人間が気付いて信頼を捧げる関係であります。それは教会を通して、福音が伝えられ、一人一人が受け入れるという丁寧な手続きによって築かれる関係であります。しかし、その作業は決して途中で頓挫することなく、完成に向けて着実に進むことを主イエスは約束されました。そして主イエスが再び来られる再臨の時に完成するのであります。その救いの完成の時のことを、ここでは「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るとき」と表現しております。既にイエス・キリストという「明けの明星」は昇ったのであります。けれども、それが一人一人の心の中に昇って救いが完成するまでには時を要するのであります。ある牧師は、「人の心は奥深いもので、複雑怪奇で不可解です。心ほど暗く病んでいるところはないのです」(山ア英穂「ピスティスの言葉」)と言っております。その、奥深くて暗い闇に覆われている一人一人の心の奥底にまで、「輝くともし火」を灯そうと、イエス・キリストは今も働き続けてくださっているのであります。そして救いの完成の時、再臨の時、輝く光に満ち溢れる時は必ず来るのであります。
 しかし、その時が待ちきれずに、途中で諦めて脱落したり、他のところに明るさを求めたりしたのでは、再臨の場に居合わせることが出来なくなってしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。

結.輝くともし火の言葉――人生の道の光
 
 この手紙の主は、「暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」と言っております。暗い世の中や人生を輝かす「ともし火」として、預言の言葉が与えられているので、それに心を留めなさい、という勧めであります。「預言の言葉」というのは、旧約聖書全体を指すということを先程申しましたが、ここでは更に、キリストを通して語られ約束された御言葉まで含まれていると考えた方がよいでしょう。先程朗読していただいた詩編119編の中の105節は今年の主題聖句の一つですが、こう述べられています。あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。御言葉は暗い人生の道を照らす常夜灯であります。このともし火に導かれて道を歩むなら、終わりの日に神様のもとに辿りつくことが出来ます。今日の箇所の最後の2021節を見ると、こう言っております。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。――神様は私たちが再臨の時に向かって真っすぐ歩めるように御言葉と言う「ともし火」を備えてくださいました。しかしこれも、自分の感覚や、自分の知恵や、自分の熱意で、勝手に解釈したのでは、間違ったところに行ってしまいます。御言葉は聖霊の導きによって書かれたものですから、聞く私たちも聖霊に導かれて聴く必要があります。教会の中で、聖霊の助けを祈りつつ御言葉を聴き続けるときに、私たちは迷うことなく、再臨のキリストとの出会いの場に到達させていただけるのであります。
 今年の年間目標は「御言葉に生かされる」ということであります。聖書の御言葉に親しみ、聴き続け、生き生きとした一年を過ごしたいものであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリスストの父なる神様!
 
暗さがますます深まっているとさえ見えるこの世の中であって、私たちも行先を見失いがちになり、せっかく与えられている道案内の御言葉のともし火までも脇に置いたままにしがちであります。そのような私たちのために、今日も聖書の御言葉を備えてくださり、改めて、再臨の時まで導いていただける「輝くともし火」を持ち直すことを許されましたことを感謝いたします。
 
どうか、このイエス・キリストによって私たちの人生に灯された「ともし火」が、様々な妨げの風によって、かき消されることのないようにしてください。どうか、この一年も、聖霊の導きによって明るい光の中を歩み続ける者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年1月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙二 1:16−21
 説教題:「
輝くともし火の言葉」         説教リストに戻る