序.本年の目標と本日のテキストについて

明けましておめでとうございます。今年も主の日ごとの礼拝において、御言葉に養われつつ、霊肉共に健康で生き生きとした一年を過ごしたいものでございます。
 主日礼拝における聖書の箇所は、「2014年度主日礼拝テキスト」の一覧表をお渡ししておりますが、3月までは、3年前に行っておりましたヨハネ福音書の連続講解説教の続きで、18章以下の主の御受難から復活までのテキストを取り上げますのと、「書簡」では昨年暮れにペトロの手紙一を終えましたので、ペトロの手紙二を取り上げ、「旧約聖書」はずっと読み続けて来ましたイザヤ書のうち、第一イザヤと呼ばれる39章までを終える予定にしております。4月以降は、「福音書」はマルコによる福音書、「書簡」はエフェソの信徒への手紙、そして「旧約聖書」は引き続きイザヤ書の第二イザヤと呼ばれる40章以下の部分に入って行く予定であります。
 
今日は一年の初めの礼拝でありますから、今年の主題聖句によって説教をすべきところでありますが、主題聖句のうちローマの信徒への手紙121節については昨年の多田先生による合同修養会の講演で学びましたし、来週の「共同の祈り」で昨年の目標と今年の目標の関係についてお話しする中で取り上げたいと思いますので、今日は直接取り扱うことはせずに、3月中に読み切る予定のペトロの手紙二の最初の部分から御言葉を聴きたいと思います。そして、もう一つの主題聖句であります詩編119107は併読箇所とさせていただきました。
 
そういうわけで、今日は主題聖句を直接扱うことはしないのですが、ペトロの手紙二の今日の箇所には、本年の目標である「御言葉に生かされる」という言葉こそ出て来ませんが、内容的にはキリスト者が御言葉に生かされるとはどういうことかを、本源的なことから実践的な面にまで、色々な言葉を用いて語っている箇所であります。そういう意味では、計らずも今年の年頭にピッタリの箇所だと思います。

1.キリストの義による信仰

 ところで、ペトロの手紙一に続いてペトロの手紙二を取り上げるのですが、聖書の学者たちは、どちらも主イエスの弟子のペトロが執筆したことには疑問を呈しておりますし、二つの手紙が同一の執筆者であることにも否定的であります。(その理由については、省略いたします。)主イエスの弟子として有名なペトロの名を借りて、当時の教会にとって大切なことを伝えようとしたものと考えられています。このペトロの手紙二は、内容的には、当時の教会にいた偽教師について警告することが目的の手紙で、そういう点では、この後に登場するユダの手紙を下敷きにして書かれたものだと考えられています。
 
さて、手紙ではまず最初に差出人と宛先を記すのが通例でしたが、宛先については1節後半で、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ、と書かれています。ここでは「神」と「キリスト」が二つの人格のような書き方になっていますが、当時すでに、キリストを「神」と呼ぶことは定着していましたので、神であり救い主であるイエス・キリストというように理解してよいと思われますが、大事なことはそのキリストの義によって、尊い信仰を受けた、と言っている点であります。キリストの義が私たちの信仰の根拠である、ということです。ということは、私たちの信仰は、私たちの行った功績に対する報酬として与えられるものではなく、私たちの信心深さによって得られるものでもない、ということであります。そうではなくて、あくまでも、神がキリストを通して示され、実行された義なる働き、救いの御業が私たちの中に信仰を創り出すのであります。おそらく偽教師と言われる人たちは、根本においてこの点の認識が違っていたのではないかと考えられます。
 昨年の目標は「喜びの礼拝」として、礼拝において喜びが与えられることを目指しました。しかし、多田先生の講演で教えられましたことは、私たちが喜ぶ礼拝ということよりも、神様が喜んでくださる礼拝ということを忘れてはならない、ということでした。非常に大切なご指摘をいただいたのでありますが、そうだからと言って、私たちが神様に喜ばれるようなことをするとか、神様に素晴らしいものをお献げすることを神様が評価してくださって、私たちの信仰生活が豊かにされるということではありません。あくまでも出発点は神様の義であり、神様のところにある喜びの豊かさであります。私たちもまた、信仰ということを自分の努力の成果や善い行いに対しる報酬のように考えがちでありますが、私たちの信仰の根拠はキリストの義にあるということをここでまず確認しておきたいと思います。
 
次に、2節で、神とわたしたちの主イエスを知ることによって、平和が、あなたがたにますます豊かに与えられますように、と言っておりますが、この「知る」という言葉に注目したいと思います。同じ言葉は8節の末尾にもあって、「主イエスキリストを知るようになるでしょう」と言っております。3節の末尾には「わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」という言葉がありますが、この「認識させる」という言葉も、「知る」と訳されているのと同じ言葉が使われています。これは、この手紙の鍵となる重要な言葉ですが、単に頭で知識として知るということではなくて、全人格的に知るということでありまして、神様がイエス・キリストによって成された救いの御業(1節の言葉で言えば、神と救い主イエス・キリストの義)を知らされて、その救いが自分の生き方や行動の中にまで入り込むようになることであります。パウロはフィリピの手紙の中で、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ38)と叫んでいる、あの「知る」であります。
 
挨拶の最後は、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように、という言葉で締めくくられています。これは手紙の挨拶の慣用的な表現ですが、重い内容が込められています。「恵み」とは、何よりも神様の救いにあずかること、即ち罪の赦しを受けることであり、「平和」とは何よりも神様との関係が平和であること、即ち罪赦されることであります。そのような救いの関係が、1節で言われていた「イエス・キリストの義」によって「キリストを知る」ことによって与えられるように、という挨拶であります。

2.命と信心(敬虔)――栄光と力ある業によって

3節以下は、挨拶で述べられた「キリストを知る」ことの内容が深められ、展開されて行くわけですが、まず3節では、主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです、と述べています。キリストを知る(認識する)ことによって与えられたのは「命と信心にかかわるすべてのもの」だと言います。
 「命」というのは、もちろん単なる肉体的な命のことではありません。神様との関係において生きる命であります。人間は天地創造の時以来、神様とのよい関係を保って生きるように創られました。しかし、そのような関係が崩れてしまいました。それが罪の状態であります。神様はそのことを憂えて、関係の改善を図られました。そのために御子イエス・キリストが遣わされました。そして、キリストの義によって罪を赦されて、神様との関係が回復されました。それがここで言う「命」であります。その命はもはや滅びることはありません。永遠の命が備えられたのであります。
 
「命」と共に与えられたのは「信心」であります。「信心」という元の言葉は、「敬虔(深く敬う心)」とも訳されます。神様をあがめ、礼拝し、神様に仕えるようになる心のことであります。人間は誰でも生まれながらにして「信心」や「敬虔な心」を持っています。近代の合理主義的なものの考え方が浸透して、「信心」とか「敬虔な心」は重んじられなくなっていますし、普段はそんな心を抱く余裕がないような生活をしているのですけれども、何か大きな壁にぶつかったときや、将来に不安があると、神様に頼りたい心が湧いて来たりいたします。特に、自分や周りの人の死という現実にぶつかると、人間の手に負えませんから、敬虔な思いに導かれざるを得ません。ですから、「命」ということと「信心(敬虔)」ということは繋がっております。神様との関係という命に生きることは、信心をもって神様を崇めること、礼拝することとは一体のことであります。イエス・キリストはそのような「命と信心にかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」と言うのです。
 
もっとも、そのような神様との関係において生きている命と敬虔な信心が、お前にはあるのかと問われて、自分の普段の生活を振り返るならば、決してそのように生きているとは言えなくて、神様を無視したような生き方になっていることを覚えざるを得ないのであります。自分たちの周りを見ても、新聞やテレビで報道される状態を見ても、神様と人間との関係はますます悪化しているようにさえ思えるのであります。信仰者の生活においても、教会の営みにおいても、何か判断したり決める場合に、神様との関係よりも他のことが優先されたり、祈りつつ御言葉に聴くよりも、合理的な考え方とか、人間的な感情で判断し、行動してしまうということが多くなってしまっています。
 それでは、神様がイエス・キリストによって行ってくださった救いの御業というのは、もはや効力がなくなったということなのでしょうか。神様との関係の破れは修復が困難な時代になってしまったということなのでしょうか。信心とか敬虔な心というのは、一時的な心の慰め程度にしかならなくて、もはや現代の私たちを支えたり、将来の生き方を導くような力とはなり得ないのでしょうか。
 
この手紙が書かれた当時の教会も、偽教師と言われる人たちが出て来て、信仰を揺るがせておりました。特に、終わりの日にキリストが再び来てくださるということへの信仰が揺らいでいました。そうした中で、筆者がこの手紙で強調しておりますことは、第一は、3節後半にあるように、「わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させること」であります。「栄光と力ある業」とは、既にここまでにも述べられて来た、神とキリストによってなされた救いの御業のことであります。その御業をもう一度「知る」ということ、そして神の栄光とお力をよく「認識」するということが第一であります。第二は、4節の初めに言われていることですが、この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられている、ということであります。「尊くすばらしい約束」と言われています。この約束というのは、キリストが終わりの日にもう一度来られること、そしてその時に救いが完成されるという約束であります。
 
私たちもまた、目の前の現実がなかなか改善されないのを見て、神様の御栄光と力ある業を忘れがちになります。そして、終わりの日の再臨と救いの完成のことが信じられなくなってしまいます。ですから、そのことを何度も何度も、聖書を通して、また礼拝の場で思い起こさせられて、認識を新たにしなければなりません。

3.神の本性にあずかる――実を結ぶ信仰

この手紙の勧めはそれだけに終わりません。終わりの日に完成されることは、今の生き方と無関係に突然に実現するのではありません。4節の後半からは、現在のキリスト者の生活・生き方が変わって行くことが述べられます。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです、と言っております。4節前半で言われていた「尊くすばらしい約束」というのは、単に遠い先のこととか、理想を述べたということではなくて、その約束を信じることによって、今から変化が始まるというのであります。「情欲に染まったこの世の退廃」と言われています。この世を支配しているのは、「情欲」であります。私たちもその影響を免れることが出来ません。そのままでは、この世の退廃に巻き込まれてしまいます。しかし、キリストの栄光と力ある業によって与えられている「尊くすばらしい約束」に立ち帰るならば、この世の退廃から免れるばかりか、「神の本姓にあずからせていただくようになる」という、すばらしいことが述べられています。
 
5節から7節までを見ますと、「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、「愛」という8つの徳目のようなものが挙げられています。これらは、元々は神様の本姓でありますが、その本性に私たちもあずからせていただくようになる、というのです。最初に「信仰」が挙げられています。神様の本性に「信仰」というのは少し合わないように感じられるかもしれませんが、これは「真実」とも訳せる言葉で、相手に真実をもって接するというような意味が込められているのかもしれません。そうであれば、その源は神様から出発してもおかしくありません。次の「徳」というのは、道徳的な正しさを意味します。信仰の実践面と言えます。次は「知識」です。神様の御心を判別する知識のことで、今日の箇所で「知る」とか「認識」と言われていたことに通じる言葉で、頭の中の抽象的な知識というより、実践的な知識です。次の「自制」は自分をコントロールすることで、その自制を続けるには、次の「忍耐」が必要になります。その「忍耐」が単に人の我慢(がまん)にならないためには、「信心(敬虔)」が必要です。そして、それらが「兄弟愛」と呼ばれる、信徒の兄弟姉妹の間での愛に結びつき、最後にすべてを総括するように「愛」が出て来ています。これはもちろん、好き嫌いの愛ではなくて、アガペーの愛、献身的な愛であります。このようにたくさんの徳目を並べられると、大きな重荷を背負わされるように思われるかもしれませんが、これらは皆、キリストを知ることから自然に与えられる筈のものだと言うのです。8節を見ますと、これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう、と言っております。つまり、キリストを知ると自然にここに挙げられたような実を結ぶことが出来るし、このような徳目を実践する中で、ますますキリストのことをよく知ることが出来るようになる、ということです。9節には、これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています、とあります。これらの徳目を身につけていない者は、近視眼的になって目先のことしか考えられずに、以前に洗礼を受けた時に罪が清められ、赦されたことを忘れてしまっている、というのです。ですから、立ち帰るべきは、やはりキリストによって罪から救われたという恵みの事実であります。そこから、神の本性にあずかるという光栄にあずかることが出来るのであります。ですから、ここに挙げられたことを実践すれば、キリストを知るようになるとか、3節にあった「命と信心」に至るということではありません。スタートはあくまでも「神と救い主イエス・キリストの義」であります。そして、最終ゴールは11節にありますように、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ること、であります。

結.御言葉に生かされる――栄光と力ある業を思い出す

最後に、12節以下ですが、ここには「思い出させる」という言葉が三回繰り返されています。そして、この中に「仮の宿」という言葉が二回出て来ます。つまり、筆者は地上の仮の宿から間もなく離れて、世を去らなければならない年齢に達しているというわけです。筆者は使徒ペトロという想定で書かれているわけでして、使徒たちはやがて皆、地上の命を終えるわけで、キリストのことを直に伝える人たちがいなくなるわけですので、その時になって大切になることは、使徒たちが語った主イエスによる救いの出来事を思い出すことであります。このことは、私たちにとって置き換えれば、聖書の御言葉に聴き続けるということであります。終わりの日に完成する救いの業について、私たちは緊張感をもって備えることを疎かにしてしまいがちであります。緊張感を保つて、絶えず、生き生きとした信仰生活を続けるにはキリストの御業を思い出すこと、そのためには、使徒たちが伝えた御言葉に立ち帰る必要があるわけです。本年の目標は「御言葉に生かされる」であります。こうして、礼拝において、また諸集会や家庭において、聖書を開き、御言葉に聴くことによって、御言葉に生かされつつ生涯を歩み終えるなら、終わりの日に約束のものを受けることができるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたの恵みによって、かけがえのない救いの約束を与えてくださったばかりか、救いの恵みを思い出せるように、こうして御言葉を給わることができるようにしてくださっていますことを感謝いたします。
 
私たちはその恵みを疎かにしてしまっているために、あなたの本性に近づくどころか、すばらしい約束の成就から遠のいてしまっていた者であることを思わされます。どうか、自らの身勝手さと終わりの日を望む視力が低下していることを悟らせてください。どうか今年こそ、御言葉に聴き続けて、あなたの恵みに立ち帰らせてください。
 
どうか、まだあなたが備えてくださっている救いの恵みに飛び込む決心を躊躇している方々にも、終わりの日の約束を信じる信仰を、一日も早くお与えくださいますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2014年1月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙二 1:1−15
 説教題:「
御言葉に生かされる」         説教リストに戻る