序.悪魔と戦っているか

本年最後の礼拝となりました。この1年の一人一人の信仰の歩み、また教会の歩みを振り返りますと、様々な思いが湧き上がって来ることと思います。神様が様々な恵みを与えてくださったことを思い起こす一方で、願ったようには進まないという忸怩(じくじ)たる思いも拭うことが出来ないのではないでしょうか。そのような私たちに対して、神様は歳末に当たってどのような御言葉をお与えくださるのでしょうか。
 
今日は、ペトロの手紙一の最後の部分にまで来ております。この手紙は、小アジア地域の異教世界の中にあって、懸命に信仰の戦いをしている人々に宛てたものでありました。そして、今日の箇所では8節に、敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています、とあり、9節では、信仰に踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい、と勧められています。信仰生活は悪魔との戦いだと筆者のペトロは言うのであります。
 
そういう言葉を聞いて、「確かにそうだ」と(うなず)く方もいらっしゃるでしょうが、違和感を覚えられる方もいらっしゃるかもしれません。<この世の生活の中で厳しい戦いをしているのに、教会に来てまで戦いたくない、むしろ慰めや平安を与えられたい>と思う方がおられてもおかしくないと思います。また、それなりに充実した人生を歩んでいる中で、もっと大きな楽しみ成果を得ようと頑張っておられる方は、わざわざ教会に来て悪魔なんかと戦うことはない、と思われるかもしれません。
 キリスト教は唯一の神ヤハウエを信じる宗教です。人間が作った偶像や諸々の神々を信じません。そのことが歴史の中で様々な戦いを招いて来ました。日本は多神教の国であります。個人や家庭でも複数の神々を拝むことが当然のように行われます。ある人々は、唯一神を信じるから戦争が起こるのであって、日本のように多神教の方が平和を保つことが出来ると言います。確かに、キリスト教国がその点で過ちを犯して来たことは反省しなければなりませんし、唯一神を信じる人たちの間で、今も宗教を巡って戦いが行われています。しかし、多神教なら平和が保てるというのは本当でしょうか。日本も歴史を振り返れば多くの戦争をして来ましたし、集団と集団との間の争いがなかったことはありません。と言っても、戦争を止むを得ないこととして容認するわけではありませんが、八百万(やおよろず)の神々が本当に信頼出来るのでしょうか。本当の神と出会った者は、人間が作った神々を信頼することは出来ません。しかし、本当の神に出会ったら、ずっと深い関係を保つことが出来るかというと、そうではなくて、悪魔が絶えず私たちを神様から引き離そうといたします。悪魔は様々な方法で、私たちの信仰生活を乱そうといたします。そのような悪魔と戦わねばなりません。ここには「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と書かれていますが、悪魔は必ずしも何時でも誰にもはっきりと分かる姿であるとは限りません。悪魔はむしろ優しい仮面を被って近づいて来ます。平穏な家庭生活や社会生活を乱さず、本当になすべき戦いを回避させるという形で、私たちを本当の神から引き離そうとします。筆者ペトロはそういう現実があることを見て、「悪魔に抵抗しなさい」と勧めるのであります。この勧めは、私たちに問いを突き付けます。それは<あなたは本当に、悪魔と戦っていますか>という問いであります。教会に来て、キリストに出会い、真の神様のことを知った日から、悪魔は、何とか私たちを神様から引き離そうと、あの手この手を使って攻めて来ますから、その日から戦いが始まります。しかし、その戦いを回避していたのでは、神様から与えられる本当の平安や喜びも中途半端なものになってしまいます。
 そういうわけで、筆者ペトロは本物の信仰による平安や喜びに与ってもらいたいと、悪魔とどのように戦ったらよいのか、その戦い方について勧めを語るのであります。

1.身を慎んで目を覚まして

さて、悪魔とどのように戦えばよいのかということについて、まず勧めていることは、8節にあるように、身を慎んで目を覚ましていなさい、ということであります。「身を慎む」というのは、〈酔わない〉、〈しらふである〉という言葉で、そこから冷静で、自分を抑えるという意味で用いられます。この言葉はこの手紙の中で既に2回使われていました。最初は113節で、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と言われていました。二度目は47節で、「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と勧められていました。いずれも終わりの日を待ち望む姿勢との関係で用いられています。じたばたしないで、約束を信じて静かに待つ姿勢であると言って良いでしょう。このことは今日の箇所のすぐ前の7節の続きで読むとよく分かります。7節には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたのことを心にかけていてくださるからです」とあります。神様が私たちのことを心にかけてくださっているのだから、思い煩わずに神様にお任せする、――そこから酔わないで冷静でいられる態度に導かれるということです。悪魔と戦う時には、いきり立って騒ぐのではなくて、神様に信頼することによって、平常心でいることが大切なのであります。先程引用しました47節では「身を慎んで、よく祈りなさい」と言われていましたように、「身を慎む」ことは祈ることに結びつきます。酔わずに冷静でいるなら、心が自然と神様の方に向かって、祈りに結びつくでしょうし、逆に、神様に祈るならば、いきり立つ心が鎮められて、身を慎むことが出来るということではないでしょうか。
 次に、「目を覚ましていなさい」という勧めが続いていますが、「目を覚ます」ということは、先程の「身を慎む」ということとつながっています。「身を慎む」というのは〈しらふである〉という言葉だと言いました。それははっきりと目覚めていることと言い換えることができます。目覚めているということは、一つには物事をしっかりと見ているということです。見るべきこと・見るべきものを見ているということです。信仰者が見るべきものとは、神様であります。主イエスはゲッセマネの園で祈っておられた時に、眠りこけている弟子たちに向かって、「目を覚まして祈っていなさい」(マルコ1438)と言われました。ここでも、目を覚ましていることと祈ることが結び付けられています。神様を見失わず、神様と向き合って祈っていることが、目を覚ましていることであります。悪魔との戦いは、どうやって悪魔に従わないで神様に従うかという戦いであります。その戦いで大切なことは、目覚めて神様に向かって祈ることであります。悪魔は色々なもっともらしい理由をつけて、私たちを神様から引き離そうといたします。大事な仕事があるではないか、家族や友人との大切な絆があるではないか、神様とだけではなくて、もっと色々な人と交わったり色々な機会に参加して体験を積むことによって人生の幅を広げた方が良いのではないか、などと囁くのであります。そういう声に従っている方が何か充実感を味わえる気がするのであります。こうして神様への信頼に水を差して、神様と向き合うことを忘れさせるのであります。身を慎んで、目を覚まして祈っていないと、そういうことが起こってしまいます。では、どうすれば身を慎んで、目を覚ましていることが出来るのでしょうか。パウロはテサロニケの信徒への手紙の中でこう勧めています。「あなたがたはすべて光の子、昼の子(だから)です。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(556)悪魔は闇の子であって、光には打ち勝つことが出来ません。悪魔がどれほど巧妙に私たちに働きかけても、神様の光の中にいる者を神様から引き離すことは出来ません。神様と出会った者は光の中に招き入れられているのです。それにもかかわらず、別のところに光があるように思って、そちらに行こうとします。しかしそこは、明るく見えても悪魔の影が覆っています。本当の光ではありません。神様の本当の光の中に招かれていることに気づけば、眠ってなんかいることは出来ません。目を覚まして、身を慎むことが出来ます。

2.信仰に踏みとどまって、悪魔に抵抗する

とは申しましても、私たちは光を見失い、目を覚ましていることが出来なくなりがちであります。そこで続けて筆者ペトロは9節で、信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい、と勧めます。ここには「抵抗しなさい」という強い言葉が出て来ます。8節で述べられたようにただ冷静に目覚めているだけでなくて、ここでは戦うことが勧められています。実際に教会の歴史は最初から激しい迫害の中で、抵抗の歴史、戦いの連続でありました。日本でも秀吉の時代から明治の初めまで、邪教として信じることを禁じられていました。今は信教の自由があります。しかし、キリスト教はなかなか浸透いたしません。悪魔は目に見える形でキリスト者を食い尽くそうとはしていませんが、日本の伝統的な宗教や生活習慣の中に入り込んで、或いは現代の風潮というような目に見えない姿で、キリスト教の信仰を食い尽くそうとしています。そういう中では悪魔の働きに気づきにくくなっています。そのため厳しさに欠ける信仰に陥って、どっち付かずのクリスチャンになりがちであります。それは悪魔の思う壺ではないでしょうか。そういう中ですから、やはり冷静に目を覚ましていることが必要ですし、そこから見えてくる悪魔の働きに対して、はっきりと抵抗する姿勢が必要になって来ます。
 
戦争中、日本の多くのキリスト教会は国がどんどん右傾化することに断固として抵抗することが出来ませんでした。戦後、そのことを反省して、靖国神社の国家護持の問題が出て来たときには、それなりの抵抗をして食い止めることが出来ましたが、今また国は右傾化への道を突き進みつつあります。この26日には安倍首相が意表をつく形で靖国神社を参拝しました。教会はこれまで声明などの形で首相の参拝に反対して来ましたが、食い止めることが出来ませんでした。こんな形で悪魔は攻勢を強めています。こうしたことは私たちの身の回りでも起こって来るに違いありません。今こそ私たちは、ペトロの勧めに従って抵抗の姿勢を鮮明にしなければならないでしょう。
 
しかし、「抵抗」と言っても、何でも反対するとか、暴力的手段をもって抵抗するということではありません。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われています。「踏みとどまる」という訳は苦心のした良い訳だと思いますが、原語は「堅く立つ」という言葉であります。信仰の立場を揺るがそうとする悪魔の力に抵抗して、しっかりと抵抗し続けるということであります。そこで力になるのは何かと言えば、結局「信仰」であります。私たちの熱意とか信念や主義の力ではなくて、神様に対する信頼の力であります。パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(611)と言っております。「神の武具」とは何でしょう。パウロはその後で、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(616)と言っております。結局、どんな悪魔の攻撃にも揺るがないための武具は、神が成してくださった救いの福音であり、御言葉なのであります。
 (ペトロの手紙に戻りますが、)9節の後半でこう言っております。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。当時、地中海沿岸に出来ていた各地の教会で、同じような戦いがあったということでしょうが、今も、世界中のキリスト者が同じように悪魔と戦っているということでもあります。信仰を持つと必ず、悪魔との戦いが始まります。逆に言うと、悪魔との戦いがないのは、信仰が強いからではなくて、信仰がないからだと言えるかもしれません。信仰に戦いは付き物です。けれども、その戦いは孤独な戦いではなくて、同じ苦しみに遭っている人が世界中にいるのであります。しかし、心強いのはそういう仲間がいるということだけではありません。信仰に立つということは、神様と共に戦うということであります。私たちだけでは悪魔の力に抵抗しきれないかもしれません。しかし、神様が味方であるので、勝利が確実な戦いなのであります。

3.恵みの源である神が

そのことが次の10節で述べられています。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださいます。――「あらゆる恵みの源である神」と言っております。原典には「源」という言葉はありませんが、10節後半で述べられている様々な恵みが神様から来るのですから、「源」が神様のところにあるには違いありません。そして続けて、神様のことを「キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身」と言い換えております。神様の恵みは太陽の光のように上から注がれるというのではなくて、キリスト・イエスを通して与えられるのであります。神の恵みは神の子が人として地上の歩みをなされ、十字架にお架かりになるという特別な御業を通して与えられるのであります。
 しばらくの間苦しんだあなたがたを」とあります。「直ちに」とは言われていません。私たちにとっては、苦しみの時が長く感じられます。もっと早く目に見える成果を得たい、具体的な喜びを手にしたいと思うのであります。しかし、神様の時というものがあります。私たちは信仰をもってその時を待つ必要があります。待つことは苦しいですが、信仰をもって望みに生きるということですから、これほど充実した時はないとも言えるのではないでしょうか。
 
そして、最終的には、「完全な者とし、強め、力づけ、ゆらぐことがないようにしてくださる」と言います。「完全な者とする」という語は、「繕う」「癒す」などとも訳される言葉です。私たちの破れが修復されるということです。そして、弱い部分を強くしてくださり、悪魔の力で揺らぐことがないようにしてくださるのであります。このように、最終的には悪魔に対する勝利が約束されているのであります。

結.恵みに踏みとどまりなさい

最後に、12節の言葉を聞きたいと思います。わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
 ここに出て来るシルワノというのは、使徒言行録ではシラスと書かれている人で、パウロの伝道旅行に同行した人物であります。「シルワノによって」というのは、そのシルワノがペトロの話すことを口述筆記したということなのか、手紙をシルワノに持たせたということなのか分かりませんが、ともかく、この手紙によって書いたこと、「これこそ神のまことの恵みである」と言うのです。「これ」とは、10節で述べられていた「キリスト・イエスを通して永遠の栄光へ招いてくださった」ということでしょうし、この手紙全体で語って来たことから考えれば、宛先のキリスト者が受けている〈苦難〉こそ、神のまことの恵みであると言っていると受け止めることが出来るのではないでしょうか。そして、「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と言うのであります。ここでも9節と同じく「踏みとどまりなさい」という訳がつけられています。9節の場合と原典では同じ言葉ではありませんで、ここでは〈恵みの中に入って立つ〉という言葉ですが、意味はほぼ同じです。いずれにしろ、受けている苦難から逃げ出すのでなく、そこに入って踏みとどまることが、恵みに踏みとどまることになるのであります。そしてそのことが、10節でいう「永遠の栄光」に招き入れられるということではないでしょうか。
 
信仰者であることは、悪魔と戦うことであります。そこで戦いから逃げるならば、恵みも失われます。信仰にしっかり踏みとどまって抵抗するなら、そこに「神のまことの恵み」を体験することが出来るのであります。新しく迎える年も、この恵みにしっかりと踏みとどまる者でありたいと思います。祈りましょう。

祈  り

まことの恵みを与えてくださる父なる神様!
 
この年も、数々の恵みを与えられて終えようとしています。この最後の主日にも、御言葉をもって、あなたの恵みのうちにあることを覚えることが出来まして、感謝いたします。
 
私たちは自分の状況や教会の状態を見て、嘆いたり、不平に思い、そこから何とかして逃れたいと思ってしまいますが、今日の御言葉によって、そこに踏みとどまることの中にこそ恵みがあることを知らされました。けれども私たち自身は弱い者であり、悪魔に抵抗する力を持ち合わせていません。どうか、その中で、あなたを信頼して踏みとどまることによって、強められ、力づけられて、あなたの御栄光を仰がせてください。
 
どうか、様々な苦難に悩まされている中で、あなたの恵みが見えなくなっている方々が、目を覚まして、あなたのまことの恵みにしっかりと踏みとどまることが出来るようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年12月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 5:8−14
 説教題:「
信仰に踏みとどまって」         説教リストに戻る