序.聖霊によって何が起こったか

今日はアドベント(待降節)の三番目の主日であります。今日与えられている聖書の箇所はマタイによる福音書118節以下ですが、その冒頭は、イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった、と書き始められています。しかし、その中身は、イエス・キリストが聖霊によってマリアに身ごもったということと、そのことで苦しんでいる婚約者のヨセフに天使が夢で現れて語ったことが中心で、ルカによる福音書のように、誕生に至る経緯や誕生の際の様子は詳しく記していません。このために、クリスマスの礼拝では、ルカ福音書から御言葉を聞くことが多くて、この箇所は待降節に読まれることが多いように思います。しかし、ここにもイエス・キリストの御降誕に関して聴くべき大切なメッセージが含まれていると思います。ところが、この箇所は、キリスト教の信仰について躓きを与えやすい箇所でもあります。それは「処女降誕」と言われることが記されているからであります。このことについては、私たちが主の日の礼拝ごとに唱えている「使徒信条」においても、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ」というように告白されることになるわけで、キリスト教の大切な教理に含まれていることであります。でもこれは、キリストの復活の出来事と並んで、私たちを困惑させる事柄でもあります。
 しかしながら、聖書はこのことがどのようにして起こったのかということについては詳しく説明しようと致しませんで、今日の箇所では18節で、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった、と記し、20節で「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と述べているだけであります。つまり、聖霊なる神様の御業である、ということであります。「処女降誕」(正確には「処女懐妊」と言った方がよい)についてはそれだけしか記されていないのですが、その後、この出来事によって大きな苦悩に追い込まれたヨセフのことが記され、そのヨセフ対する天使の言葉(即ち、神様からの伝言)が記されて行きます。
 
その天使の言葉には、神様がなさるもっと大きな御業が告げられています。聖霊の働きは単に「処女懐妊」という出来事に止まるものではありません。では、聖霊によって何が始まったのでしょうか。―――今日と同じ箇所を一昨年の待降節でも取り上げましたが、その時は、23節に出て来る「インマヌエル(神は我々と共にある)」という言葉を鍵にしてこの出来事を見たのですが、今回は、聖霊の働きによって何が起こったのかということから、聖書が私たちに伝えようとする大切なメッセージを受け取りたいと思っています。

1.一緒になる前に身ごもった――処女懐妊

さて、聖霊によってまず起こったことは、18節にありますように、母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった、ということであります。ここで「明らかになった」とありますのは、「聖霊による懐妊が明らかになった」という意味ではなくて、「身ごもったことが明らかになった」という意味で、お腹が大きくなるなどの兆候が表れて懐妊が明らかになったという意味であります。ルカによる福音書では、マリアが自分でもまだ気づかない段階に、天使を通じて受胎告知がありました。しかし、その後、他人の目にもそれと分かるようになって、ヨセフも気づいたということでしょう。
 この処女懐妊ということについては、<実は二人は既に一緒になっていたのに、キリストの誕生を美化するため、あるいは人間の肉体的な営みを越えた清い出来事にするために、処女懐妊ということにしたのではないか>と考える人もいるかもしれません。しかしそうであれば、ヨセフが19節以下に記されるような深刻な悩みに陥ることはなかった筈であります。また、ギリシヤやエジプトの神話では、神と人間とが交わるような話が出て来て、そこから誕生する人間は半分神で半分人間であるように描かれるのですが、聖書ではそういう意図は全く見られません。私たちはキリストのことを「真の神であり、真の人」と告白しますが、それは半神半人という意味ではなくて、完全に神でありつつ、完全に人間となられた、と信じるのであります。聖書が聖霊によって身ごもったということを強調するのは、このキリストの誕生という出来事が、あくまでも神の特別な御意志によって、神が介入された出来事であるということを言いたいからであります。
 聖霊の「霊」という元の言葉は、「風」や「息」を意味する言葉で、創世記によれば、塵で形づくられた人間の鼻に神様が命の息を吹き入れられて生きた者になったということが記されていますように、聖霊とは、そもそも人に命を与えて生きるものにする霊なのであります。その聖霊がマリアの中に主イエスを身ごもらせたのであります。

2.ヨセフの苦悩と決心

ところが、このような神様の働きは、人間にとっては不可解であるだけでなく、困惑と苦しみを与えることがあります。マリアが聖霊によって身ごもったことで一番苦しんだのはヨセフでありました。当然、マリアが他の男と交わったのではないかという疑いを持たざるを得ません。この事態にヨセフはどう対応するのでしょうか。当時の律法によれば、婚約中に他の男と関係した者は姦淫の罪を犯したと見なされて、石打ちの刑に処せられることになっていました。もしヨセフがマリアと関係していないことを公にしたなら、自分には落ち度がないことをはっきりさせることになりますが、マリアの命を奪うことになります。最近起こった事件で、ある男が、付き合っていた女の人が他の男性との間に子供をつくって交際を断って来たのに、諦めきれずに、憎しみに変わったのでしょうか、その女の人に付き纏った挙句、遂に殺害してしまうという事件がありました。ヨセフの場合は、当時の律法に従って、合法的にマリアを亡き者にすることも出来ましたが、そうはいたしませんでした。マリアを心から愛していたからでしょう。
 
第二の道として、マリアが誰の子を宿しているのか分からないまま、正式に結婚して、他人の子供を育てるという道が考えられます。しかしそれでは、二人の間に気まずい思いがずっと続くことになります。ヨセフにとっては耐え難いことであります。
 そこで、ヨセフは、恐らく苦渋の末に、第三の道をとろうとしました。19節にはこう書かれています。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。――これはどういうことでしょうか。「ヨセフは正しい人であった」とありますから、立派な信仰を持ち、道徳的にも律法に従って正しい行いをしていると見られていたということでしょう。そんなヨセフが縁を切ろうとしたのは、自分が妊娠させたのではないということをはっきりさせて、自分の正しさを主張しようということでしょうか。そんなことをすれば、マリアが石打の刑を受けることになってしまいます。そうではなくて、誰か他の人が妊娠させたという事実を隠して離縁すれば、子供が生まれてくれば、ヨセフという男は何と無責任な男かと言われるだろうけれども、そういう非難をも甘んじて受けて、マリアを傷つけないようにしよう、という決心をした、ということではないでしょうか。しかしそれで万事がうまく解決できるということではありません。やがて生まれてくる子供をマリアはどのように育てるだろうかという心配が残ります。ヨセフの夢は破れ、深く思い悩んだに違いありません。しかしこの苦悩は、考えてみれば、マリアが聖霊によって身ごもったからであります。神様のなさる業はこのように、人間に苦悩をもたらすことがあるということであります。
 
先程、処女懐妊をどう理解するかということをお話ししました。これは科学的な常識では説明できることではありません。だからと言って、無理矢理信じるしかないと言っても、受け入れられないことであります。これを他人事のように論じていても、解決の道が開けるわけではありません。これを受け入れることが出来るのは、ヨセフが立たされているような、深い苦悩の中で、神様がそこに入り込んで来られる時であります。そこで神様の前に立たされ、御心を示されるということによって、初めて納得できるようにされるのではないでしょうか。ということは、そこにも聖霊が働かなければならないということです。
 
私たちも、神様のなさることが分からないことに遭遇することがあります。人間的な思いと信仰的な受け取り方との間で、どう決断すればよいのか分からなくなります。そんな時に、しっかりと神様の前に立ち続けるならば、聖霊が働いて下さって、御心が示され、勇気をもって行動に移すことが出来るようになるのではないでしょうか。

3.天使が夢に現れて――預言の実現

さて、ヨセフが自分なりに精一杯のことを考えて決心したときに、夢の中で主の天使が現れてこう言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」2021
 
天使はまず、「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけています。この呼びかけが示していることは、この出来事におけるヨセフの役割は、彼がダビデの子孫であることに関わっているということです。それは、ダビデの子孫に救い主が現れるという預言に関係していることを表わしているのと、ヨセフの血を受けてはいないのだけれども、ダビデ家の血を引く一人の人間として誕生するということを表わしています。だから、「恐れず、マリアを妻として迎え入れなさい」と言われるのです。これは、ヨセフが苦悩した末に決心したこととは違います。彼は「ひそかに縁を切ろうと決心」しました。それが考えられる最善の道だと思いました。しかし、神様の御心は彼が考えた以上のことでありました。神様が聖霊によって宿らせてくださったのだから、それを自分の子として受け入れなさい、ということであります。しかも、名前まで指定されました。「イエス」という名は、ユダヤではよくある名前ではありましたが、「ヤハウェは救いである」という意味があります。そして、その名前の通り、「この子は自分の民を罪から救う」と言うのです。人間を罪から救うということは、天上であれこれ指図するとか、何か霊力のようなものを送って出来ることではありません。神の子である方が人間として地上に来て、人間の罪の中で泥まみれ血まみれになって出来ることであります。そのような人間として生まれるのだよ、ということであります。
 22,23節には、福音書記者の解説が入っています。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。――ここで引用されているのは、先程朗読していただいたイザヤ書7章で預言されていた中にある言葉です。つまり、マリアに聖霊によって身ごもった子が救い主として生まれるということは、神様が私たちと共にいてくださるという約束の預言が実現することを意味する、ということであります。こうして、マリアが聖霊によって身ごもったこと、そしてそのマリアを妻として迎え入れることの意味が明らかにされました。言い換えると、聖霊の働きの意味が天使によって明らかにされたということであります。聖霊の働きというのは、それだけではヨセフがそうであったように、私たちには不可解であって、人間の知恵をもってしては理解することが出来ませんし、ヨセフが考えたように、最大の愛をもって対処しようとしたことも、間違いでありました。そこには、天使を通して神様の御言葉を聴くことによって導きを受けることが必要でありました。つまり、聖霊の働きと御言葉に聴くこと、この二つが相まって、やっと私たちは神様の御心を行うことが出来るということであります。

4.妻を迎え入れる――天使が命じたとおり

2425節によると、夢の中で天使の言葉を聞いたヨセフは、眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた、のであります。
 
ヨセフは、一旦はマリアと縁を切ることを決心しました。しかし、今は天使を通して命じられた神様の御心に従って、マリアを妻として迎え入れることが出来ました。天使の言葉がなければ、ヨセフはたとえマリアと結婚して、マリアから事情の説明を受けたとしても、信用出来なかったでしょうし、生涯マリアを心から赦すことは出来なかったでしょう。しかし、天使から「聖霊によって宿ったのである」という言葉を聞いて、マリアを喜んで受け入れることが出来るようにされました。それはヨセフがマリアに対する愛をもって、ひそかに縁を切るということでは実現できなかった二人の関係であります。ヨセフは天使の言葉を聴いて、信じて、それに従うことによって、マリアとの最高の関係を与えられたのであります。それは、人間の愛では実現できなかったことであります。二人が最高の夫婦の関係を与えられただけではありません。そこに、イエスと名付けられる子が与えられて、神の子である救い主の両親になるという最高の栄誉までも与えられることになりました。もっとも、その後の二人の人生は、幸せが一杯というようなものではありませんでした。2章には、ヘロデ王が二歳以下の男の子を一人残らず殺させるという命令を下したために、エジプトまで逃れなければなりませんでした。また、主イエスが成長して伝道を開始されてからは、心配が尽きなかったでありましょう。ヨセフは比較的早く亡くなったのではないかと言われています。しかし、ヨセフは地味ながらも、最高の人生を全うすることが出来たと言えるのではないでしょうか。そこには、神様の御心があり、聖霊の導きがあって、それに従うことが出来るヨセフの信仰がありました。

結.神が我々と共に(インマヌエル)

最後に23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉にもう一度耳を傾けてみましょう。この言葉は、待降節の中にある私たちにも語りかけられている言葉であります。2000年前におとめマリアに聖霊において身ごもった男の子こそ、ヨセフとマリアにとってインマヌエル、即ち、神が正に共におられるという出来事そのものでありましたが、神が私たちと共におられるという状態は、その時だけで終わったのではありません。その時以来、救い主イエスは聖霊において私たちと共におられます。それは、ヨセフがすぐには理解できなかった現実でありましたが、天使が伝えた神様の言葉によって受け入れることが出来、現に神が共におられることが現実となりました。そのように、私たちも、今も働き給う聖霊の働きを信じることができるなら、インマヌエル(神が共におられる)ということが現実のこととして起こるし、現に、主イエスの愛に満ちた罪の赦しの恵みを受けることが出来るということであります。それがクリスマスに与えられる大きな恵みであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も、聖霊と御言葉において私たちの近くに来てくださり、救いの恵みにあずかることが出来ましてありがとうございます。
 
私たちの身の回りにも、教会にも、私たちの思いや努力ではどうすることも出来ないことが起こって参ります。そのような中で、どうしてよいのか分からなくなることがあります。しかし、あなたは今も聖霊と御言葉によって、共にいてくださることを信じさせてください。そしてどうか、私たちもあなたの御心を行う者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝(待降節第三主日)説教<全原稿> 2013年12月15日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書 1:18−25
 説教題:「
聖霊によって宿る」         説教リストに戻る