序.「喜びの礼拝」は?

待降節第二主日の礼拝を守っております。先週の待降節第一主日では、特に待降節に対応したテキストではなくて、毎月一度取り上げておりますイザヤ書の続きの箇所から御言葉を聴いたのでありますが、今日のイザヤ書916節の箇所は、同じイザヤ書でも待降節によく読まれるテキストの一つであります。
 
ところで、教会の伝統的な暦では、この待降節から一年が始まるのでありますが、一般の暦では一年の最後の時期と重なりますし、私たちの教会でも暦年に従って年間の歩みを計画し、締め括りますので、この時期は一年の歩みを振り返って、来年に向けての課題や目標を考えさせられる時であります。この伝道所の2013年の年間目標は「喜びの礼拝」でありました。毎週行っております礼拝に喜びをもって参加し、そこで喜びを与えられて一週間の歩みを始める、そのような礼拝を守ることが出来るように、ということが目標でありました。そのために、修養会では多田先生によって、「喜びの礼拝に向けて」という主題で講演もしていただきました。ではこの一年、そのような礼拝を持つことが出来たであろうかと思い返してみますと、私自身が毎週、心躍るような喜びをもって礼拝に臨み、御言葉を語って来たであろうかと反省させられます。会員や求道者の方々の礼拝への出席状況を見ても必ずしも皆様が喜び勇んで礼拝に集っておられるわけではないように見えますし、礼拝に出席して与えられた喜びが表情や態度に必ずしも如実に表れているわけでもないように思えます。もっとも、「喜びの礼拝」と申しましても、礼拝がただ楽しければよいとか、ただ満たされた思いになったらよいということではなくて、神様との関係において喜ばしい関係にあるのかどうかということが問われなければなりませんし、多田先生に教えられましたように、私たちが喜ぶというよりも、神様が喜んでくださる礼拝になっているかどうかということが問題であります。
 
そのような喜びの礼拝というのは、もともと私たちが創り出すことが出来るようなものではなくて、神様が備えてくださっている恵みに気付くことから始まって、そこから私たちの側の喜びの応答が起こってくるわけであります。ですから、私たちの礼拝が喜びの礼拝となるためには、神様が先行して備えてくださっている恵みに触れることがなければなりません。教会の暦が待降節から始まるのもそういう意味であります。つまり喜びの礼拝は、神様が約束してくださった救い主の登場を待ち望み、それが地上に実現したキリストの降誕という喜びの出来事から始まるのであります。
 
今日、与えられております聖書の箇所は、預言者イザヤが救い主の降誕を預言した個所であります。2節を見ていただきますと、あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った、と言っております。この預言はキリストの誕生より700年も前に語られたものでありますが、過去形で述べられています。これは預言者的過去と言われる語法で、語られていることが間違いなく起こるということを表わす表現法でありまして、実際には将来に起こることであります。しかし、幸いなことに、私たちにとっては、ここに述べられていることは、既に2000年前にキリストの御降誕によって起こったことであります。従って、ここに述べられているような、「深い喜びと大きな楽しみ」は既に与えられたのであります。ですから、私たちにとって、喜びの礼拝は将来のことではなくて、既に始まっている筈のことなのであります。今日は、このイザヤの言葉によって、約束され、既に与えられている喜びの出来事に耳を傾けることによって、喜びの礼拝へと導かれたいのであります。

1.闇の中を歩む民

さて、この預言がイザヤによって語られた時代は、先週と先々週に聞きましたヒゼキヤ王の時代よりも一つ前のアハズ王の時代と考えられます。既にアッシリアは北王国イスラエルを占領して、更に南王国ユダに対して圧力をかけて来ておりました。8章の2123節を見ると、「この地で、彼らは苦しみ、飢えさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と言われていて、9章に入って1節には、「闇の中を歩む民、「死の陰の地に住む者という言葉が出て来ます。これらの言葉から、ユダの民は非常に厳しい状況に追い込まれ、精神的にも希望を失って闇の中に置かれたような暗澹たる気持ちになって、指導者である王に対する不平が出て来るだけでなく、神様に対する信頼も大きく揺らぎ始めていたことを読み取ることが出来るのであります。
 
しかし、このイザヤの言葉が二千数百年もの間、読み継がれて来ましたのは、ただ大昔のユダの民のこととしてではなく、その時代その時代の自分たちのことであり、また全人類の本当の姿が語られているのだと受け取って来たからではないでしょうか。現代もまた、世界のあちこちで争いは絶えませんし、貧富の差の拡大も起こっています。地球環境の悪化への歯止めもなかなか利かない状態であります。我が国はこのところ経済情勢が好転しつつあるということで明るさが見えて来たようなムードが広がっていますが、一方、震災対策の問題、原発の問題、二つの隣国との関係の悪化、今国会で強硬採決が行われた秘密保護法案など、先行きが思いやられることが沢山あって、むしろ闇は深まっていると言えるのではないかと思われます。
 
しかし、イザヤが告げた言葉は、単に世の中の政治や経済の情勢についての悲観的な見方を示したということではありません。これは、神様が人類をどう見ておられるか、私たち一人一人をどう見ておられるかを突きつけているのであります。これは特別に悪い時代や、特に混乱している地域や民族や、特別に悲惨な状況にある人たちについて言われているのではなくて、全ての時代、全ての人々、まさに私たち一人一人に向けて言われていることなのであって、神様は私たちを「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」と見ておられるということであります。それは、神様が私たちの中の本当の姿を見抜いておられるからであります。私たちが如何に上辺を繕おうが、如何に前向きに取り組もうが、私たちの内側からは光は見えて来ないのであります。このままでは、悪の力、死の運命から解放されることはないのであります。暗黒と死の世界に住んでいるというのが、見たくも考えたくもないけれども、私たちの本当の現実なのであります。

2.大いなる光が輝いた

けれども、イザヤが告げようとするのは、私たちの暗い現実だけではありません。闇と死が覆う私たちの現実に射し込む光について語るのであります。闇の中に歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた、と語ります。このイザヤが告げる光とは、ダビデ王家を受け継ぐ新しい王のことで、その王については5節以下で述べられるのですが、そこに行き着く前に、イザヤはまず2節で、先程見たように光によって与えられる「深い喜び」と、「大きな楽しみ」について語ります。2節の後半以下を見ますと、喜びの有様が当時の人々の実際的な喜びの内容で表現されています。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。――これらは当時の庶民が味わうことのできる大きな喜びであったのでしょう。現代の私たちにはあまりピンと来ませんが、神様がもたらせてくださる喜びは、決して高尚な高嶺の花のようなものではなくて、身近な生活の中で、しかし自分の力でというよりは、天から与えられるものであるということを表わしている、と読むことが出来るかもしれません。3節では、彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった、と言っています。――これは、士師記633節以下に記されていることに基ずくもので、神様が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を討ってくださった出来事を指していて、このように神様はイスラエルの民を外国の暴力と屈辱から解放してくださるという喜びを語っているのであります。神様がもたらせてくださる喜びは、私たちを縛り付ける様々な抑圧やサタンの力から解放してくださるところにある、ということを表わしている、と読むことが出来るでしょう。4節では、地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた、とあります。――これは戦争が終わって、平和が訪れる様を述べています。戦争は誰も望まないことでありますが、人間の罪は未だに世界から戦争をなくすことが出来ないでいます。しかし、神様は人間の罪の問題に決着を付けて、本当の平和の喜びをもたらせてくださいます。

3.ひとりのみどりご

以上のような、神様がもたらせてくださる喜びと楽しみについて語ったあと、5節に至って、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた、と新しい王の誕生のことを告げます。これは新しい王位継承者が現れて、ダビデの家(イスラエルの民)に約束されていること、具体的には2節から4節にかけて語られてきた喜びの内容が、その王によって実現するということであります。しかし、このあとに続いた歴代の王も、このような喜びをもたらすことは出来ませんでした。結局、イエス・キリストの到来を待たねばならなかったのであります。新約聖書の理解によれば、1節で語られていたことも、5節以下で述べられていることも、イエス・キリストを指し示しているのであります。まず、1節で語られた「光」については、ヨハネ福音書の冒頭では、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、イエス・キリストのことを「言(ことば)」として紹介したあと、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と述べていますし、マタイ福音書では、主イエスが伝道を開始された時のことを、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と述べて、イザヤ書の823節と91節を引用しています。また主イエス自身も「わたしは世の光である」とおっしゃっています。また、5節の4行目以下に述べられているのは、ダビデの王座を継承する新しい王に与えられる「名」とその働きの内容であります。これらは理想の王の姿を述べたものとも言えますが、これらも新約聖書ではすべて救い主イエス・キリストがどのようなお方であるかを表わすものだと受け止められています。ルカ福音書1章のマリアへの天使の御告げの中で、「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き神の子と言われる」と述べたのに続いて、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げています。つまり、イザヤ書の6節で「ダビデの王座とその王国に権威は増し」と言われていることが、イエス・キリストの誕生によって成就すると言っているのであります。

4.平和の君

では、その救い主イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、何を成し遂げてくださるのかということを5節の4行目以下によって見て参ります。最初に、その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる、と述べられています。ここに挙げられている4つの名は、ヘンデルの「メサイア」の中で繰り返し歌われるものですが、一つ一つを見ておきましょう。
 
まず、「驚くべき指導者」ですが、新改訳聖書では「不思議な助言者」と訳されていて、多くの英語の聖書では「ワンダフル・カウンセラー」と訳されています。現代社会の過酷な状況の中で、心の病を負う人が多くなっていて、カウンセラーの役割が高まっていますが、生きることに疲れたり、自分が存在することの意味や目的を見失っている人たちに寄り添って、相談の相手になってくれるカウンセラーの役割を主イエスがなさる、ということであります。しかし、主イエスはただのカウンセラーではありません。「ワンダフル」がついています。この新共同訳では「驚くべき指導者」と訳されました。原語の意味には「プランナー」とか「参謀」という意味が含まれています。つまり、単に相談に乗るというだけではなくて、人生に意味を与え、歩むべき目標やプランを示して指導して行くお方である、ということです。
 二番目に「力ある神」と言われています。ここではっきりと「神」とされています。単なるカウンセラーではなくて、全てを創り支配される神であります。しかも「力ある」と言われていますが、これは敵と戦う時に力を発揮する、という意味が込められた言葉であります。3節に「ミディアンの日」のことが述べられていましたが、そのように、襲ってくる敵に対して、勝利へと導いてくださるお方である、ということです。主イエスは不安の中にあった弟子たちにこう言われました。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ1633)。こう言って主イエスは十字架への道を真っ直ぐに進まれ、サタンの攻撃に対して勝利を収められました。そのことがここで預言されているのであります。
 
三番目は「永遠の父」と言われています。ここで使われている「永遠」という言葉は、〈いつまでも〉というより、〈時々刻々〉という意味ですから、〈いつでもどこでも〉ということです。ですから、主イエスは真の父親のように、愛と厳しさをもって、どのような時にも、その子たち(神の民)を見守り、決して見放すことがない、ということです。私たちは「放蕩息子」の譬えを知っています。家を出て行って放蕩の限りを尽くした息子をずっと忘れることなく、帰って来たときには最大のもてなしをした父親こそ、主イエスその方であります。
 
四番目は「平和の君」と唱えられると言います。ここの「平和」という言葉は「シャローム」です。それは「平安」とか「安心」という意味で使われますが、言葉の元の意味は、「充足している」という意味です。単に戦争がなくて平和であるということに止まりません。満ち足りることです。また、3、4節に照らしてみると、軍事的支配から解放されるということでもあります。サタンの支配からの解放ということです。先程の新約聖書の朗読ではエフェソの手紙を読んでいただきました。2章14節には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」とありました。また、ヨハネ福音書では、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ1427)とおっしゃいました。「世が与えるように与えるのではない」平和とは、十字架の犠牲によって実現する神様との間の平和のことであります。そこに、本当の平和の根源があります。その平和を成就するために、「ひとりのみどりご」としてお生まれになったのであります。
 6節には、ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる、とあります。この王国は単にダビデ王国の再来ではありません。神の国の実現であります。

結.主の熱意

6節の最後の行には、万軍の主の熱意がこれを成し遂げる、とあります。このイザヤの言葉のとおり、2000年前に救い主としてイエス・キリストが来てくださり、救いの御業は成されました。しかし、闇はまだ去らず、希望の光はかすんでいて、争いは絶えなくて、喜びはまだ遠くにあるように見えるのであります。けれども、イザヤを通して語られたこの神様の約束が消え去ったわけではありません。今も万軍の主は熱意をもって、教会を通して、その業を進めておられるのであります。そして、終わりの日、主がもう一度来てくださる日には、この約束が完全に成し遂げられるのであります。主イエスの到来によって、光は既に射し始めました。そして、神様との間の平和の道は開かれました。そのことをあらためて確認しながら、信仰をもって来たるべき日を待ち望むのが、この待降節であります。こうして、2節で言われているような「深い喜び」と「大きな楽しみ」に満ちたクリスマスを迎えたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
イザヤの預言を通して、主にある光と平和のうちに導き入れてくださいましたことを感謝いたします。
 
今なお、この世界には闇が覆っており、真の平和への道のりは遠いように見えます。しかし、あなたの熱意は変わらず、救いの御業を着々と進めておられることを信じます。
 
どうか、この小さな教会と罪深い私たちをも用いて下さい。どうか、私たち一人一人が、その日まで、光を見失うことがないように、約束の御言葉を聴き続けることが出来るようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝(待降節第二主日)説教<全原稿> 2013年12月8日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 9:1−6
 説教題:「
平和の君の到来」         説教リストに戻る