見よ、わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった。                     (イザヤ書3817

 南王国ユダのヒゼキヤ王は、アッシリアによるエルサレム包囲と自らの重病という二重の試練に見舞われ、預言者を通して「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」とまで告げられた。するとヒゼキヤは顔を壁に向けて祈った。それは、人間的な思いに迷わされぬよう、家族や部下たちに背を向けて、ただ神と一対一で向き合うためであったろう。
 ヒゼキヤは、「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と、涙を流して祈った。この涙は、大きな使命感をもって宗教改革を断行し、大国とも向き合って来たのに、なぜ若くして世を去らねばならないのかという〈無念の涙〉であると同時に、自分の思いや政策に心を奪われて、神を信頼せずにエジプトと同盟を結ぶなどの過ちを犯したことを悔い改める〈懺悔の涙〉でもあったと思われる。
 この姿を見た主は、「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く」と言われ、そのしるしとして、日時計に落ちた影を十度後戻りさせられた。標記のヒゼキヤの祈りは、そのことを知って祈ったものと思われる。ヒゼキヤはこれまで、自分がエルサレムを導き守って行こうと意気込んで来た。しかし、ユダの国の運命を導くのは自分ではなくて、歴史を支配しておられる神であることを知らされると共に、自分の生と死を支配しておられるのも神であることを悟らされた。ヒゼキヤが死に直面させられたのは、彼の罪に対する審きという意味だけではなく、罪に気づいて悔い改めることによって、神の赦しの憐みに出会うためであったのだ。人は意味なくして苦しみに耐えることはできない。しかし、苦しみの意味を知るときに、耐える力が与えられ、神様との新しい命の関係に生き始める者とされるのである。

 

主日礼拝(待降節第一主日)説教<要 旨> 2013年12月1日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 38:1−22 説教題:「命の支配者」 説教リストに戻る