序.死に向き合って――命の意味を問い直す

先週の礼拝では、イザヤ書3637章から御言葉を聴きましたが、そこには、アッシリア軍がエルサレムに迫っている中で、アッシリアのセンナケリブ王から遣わされたラブ・シャケという人がユダのヒゼキヤ王に脅しをかけたので、動揺したヒゼキヤ王が神様に祈ったことと預言者イザヤを通して御言葉を聴いたことが記されていたのですが、結局、最後は天の御使いが現れて、アッシリア軍が撃たれ、センナケリブ王も息子に殺されたという出来事で終わっていました。そして、それに続く今日の38章では、ヒゼキヤ王が死の病にかかったことが書かれているのですが、歴史的な流れとしては、エルサレムがアッシリア軍に包囲されている中で、ヒゼキヤ王が病にかかったということで、ヒゼキヤ王は敵の包囲と自らの病という二重の試練に見舞われたのですが、その後、神様の御手によってアッシリアの攻撃から救われ、寿命も15年間延長されたというのが事実ではないかと考えられています。つまり、先週の箇所と今日の38章の内容は歴史的には逆転しているのであります。今一つ今日の箇所で歴史的な順序を理解しにくいのは、9節から20節までに記されているヒゼキヤ王の祈りですが、その前に寿命の延長のことが告げられた記事があるにもかかわらず、悲壮な訴えが語られている点であります。併行記事が書かれている列王記には、このヒゼキヤの祈りはないので、イザヤ書の編集段階で挿入されたものと考えられていますが、その挿入場所が適切でなかったのかもしれません。この祈りは、まだ寿命の延長が告げられる前の段階に祈られたものと、病気が治った後で祈られたものとが混在していると考えた方が、辻褄が合うように思われます。
 さて、今日の箇所では死の病にかかったヒゼキヤの祈りが二度も取り上げられているわけですが、ここで私たちが考えさせられることは、私たちが同じように死に向き合う時に、どのような祈りが出来るか、ということであります。今はまだ元気な人も、いずれ死に向き合わなければならない時が来ます。既に、重い病を負って、死の不安と戦っておられる方もいらっしゃいます。高齢になって、独りでの生活が困難になっている方もいらっしゃいます。私自身も後期高齢者の仲間入りをさせていただいて、死のことを身近に感じるようになりました。死と向き合うということは、与えられている命の意味を問うということでもあります。生きている意味がなくなれば、死ななければなりません。死と向き合わされるということは、生きている意味を考え直す機会を与えられたということでもあります。
 
ヒゼキヤは死の病にかかることによって、これまでに生きてきたこと、今生きていることの意味を考えざるを得なかったことでしょう。それは神様から与えられた貴重な体験であった筈であります。―――今日はこのヒゼキヤの体験を通して、私たち自身の生と死について、その意味について、問い直してみたいと思うのであります。そして、残された命を主の御心に沿って生きるものとされたいと思います。

1.顔を壁に向けて――祈りの姿勢

38章の初めには、死の病にかかったヒゼキヤ王のところに預言者イザヤが訪ねて来て、主の言葉を伝えたことが記されています。主はこう言われました。「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい。」――これは厳しい宣告であります。遺言をすることまで命じられています。先のことをよく考える人は、残された者たちが混乱しないように、早くから遺言を準備します。しかし、自分の死を現実のこととして考えられないうちは、なかなか遺言のことまでは考えないのが普通です。この伝道所では、会員が急に亡くなったりした場合の葬儀のことなどについて「葬儀に関する個人情報」を書いていただくことにしていますが、80歳以上の高齢の方は既に書いて下さっていますが、それ以下の方々はなかなか書いていただけません。まだ先のことだと考えておられるからかもしれませんし、死や葬儀のことまで考えたくないということかもしれません。しかし、ここで神様が「家族に遺言をしなさい」と命じられたということは、死が確実であることを意味しています。厳しい現実を受け入れなさい、ということであります。
 
このような厳しい宣告を受けて、ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈った、と2節にあります。イザヤのほか家族や側近の部下たちもいたと思われますが、そういう人たちに背を向けて、誰も視野に入らない壁の方を向きました。それは、人間的な思いに迷わされることなく、ただ主に向かうためであります。神様と一対一で語り合おうとしているのであります。全神経を集中して、神様に祈ろうとしているのであります。――私たちはどうでしょうか。つらい現実に直面しなければならなくなった時、このように真剣に神様と向き合うことが出来るでしょうか。周りの事情を嘆いたり、誰かの所為にして怒りをぶつけたりしてしまわないでしょうか。こういう時にこそ、信仰が問われます。ヒゼキヤ王は、政治においてはイザヤの言葉に耳を傾けずにエジプトに助けを求めるような過ちを犯したりしてしまいましたが、この期に及んで、しっかりと神様と向き合うことが出来ました。私たちも同様に、大事な時に、神様と向き合う祈りの姿勢がとれるでしょうか。

2.涙を流して――受けた苦痛は平和のため

では、ヒゼキヤはどんな祈りをしたでしょうか。3節を御覧ください。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、涙を流して大いに泣いたのであります。これは、自分のこれまでの神様に対する真摯な態度や御心に従って行動して来たことを評価してほしいと嘆願しているように受け取れます。確かにヒゼキヤは、神様に対して「まこと」と「ひたむきな心」をもって、偶像礼拝を一掃して宗教改革を断行いたしましたし、北王国のようにアッシリアに滅ぼされることのないように、その影響から脱却しようと努力いたしました。しかし、結果的にはその政策が、国内的にもアッシリアとの関係においても緊張を高めることになってしまいました。そして、先週学んだように、アッシリア王センナケリブが脅しをかけて来ました。このときヒゼキヤはまだ39歳でありましたが、そのような内外の状態がヒゼキヤの心と体を打ちのめして、重い病に陥ってしまったのでありましょう。そんなヒゼキヤが、ここで言っているように、<なぜ神様は自分がまこととひたむきな心をもって善いことを行って来たのに、こんな理不尽な目に遭わねばならないのか>と、涙ながらに訴える気持ちはよく理解出来るのであります。
 そんなヒゼキヤが死の宣告を受けて抱いた悲痛な思いは、10節以下の祈りによく表わされているように思います。そこを読んでみましょう。わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか/陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。わたしは思った。命ある者の地において主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。わたしの生涯は羊飼いの天幕のように/引き抜かれ、取り去られてしまった。わたしはわたしの命を織物のように巻き終わり/糸から切り離されてしまった。昼も夜も/あなたはわたしの息の根を止めようとされる。夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け/獅子に砕かれるように/わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も/あなたはわたしの息の根を止めようとされる。つばめや鶴のように/わたしはすすり泣きの声をあげ/鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人になってください。1014節)
 
私自身は死に直面するような大病を患ったことがありませんが、余命何年とか何か月というような宣告を受けた場合には、このような祈りになるのであろうと想像できます。
 
しかし、そのような場合に、先程の3節の祈りにもあるように、なぜこれまで神様に対してまことを尽くし、ひたむきな心をもって善いことを行なって来たのに、こんな目に遭わねばならないのか、という思いも抑えることが出来ないでしょう。けれども、厳しい現実を突きつけられる中で、ヒゼキヤは自分の犯した罪にも気づかされて参ります。3節の終わりに、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いたとあります。これは、大きな使命感を持って、宗教改革もし、大国とも向き合って来たのに、なぜ若くして世を去らなければならないという無念の涙もあったかもしれませんが、それと同時に、自分の思いや政策に心を奪われて、神様を差し置いてエジプトと同盟を結ぶなどの過ちを犯したことを悔い改める懺悔の涙でもあったと思われます。自分がまことを尽くしたとか、自分がひたむきな心をもって歩んだとか、自分が御目にかなう善いことを行ってきたと、神様の前に自分を誇る思いは、打ち砕かれなければなりません。ヒゼキヤは死の宣告を受けて、そのことに気付かされたのではないでしょうか。3節のすぐ後にはヒゼキヤが罪に気付いたことや悔い改めたことは記されていませんが、後の祈りの17節を見ると、このように祈っています。見よ、わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった。――これは、4節以下で告げられる寿命の延長の言葉を聞いた後の祈りであるとみられますが、ここにははっきりと罪の赦しのことが述べられています。
 
私たちもまた、深刻な状況に追い込まれることがあるかもしれません。なぜ、こんな目に遭わねばならないのだろう、という思いに心が崩れそうになる時があるかもしれません。しかし、私たちはすべてを委ねことの出来る神様に感謝と懺悔の祈りを捧げることが出来ます。深刻な状況に遭わせられるのは、このような祝福に満ちた涙の祈りへと私たちを導いてくださるためなのではないでしょうか。

3.寿命を十五年延ばす――命の支配者

さて、このように涙ながらに祈るヒゼキヤを御覧になった神様は、預言者イザヤにこう語られます。5節以下です。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」56節)
 
ここで「父祖ダビデの神」と言われています。なぜこんな所にダビデが出て来るのでしょうか。ダビデはイスラエルの中で最も尊敬を受けていた王であります。ヒゼキヤ王にとっても見習いたい大先輩であります。しかし、そのダビデ王も、美しいバテシバを見初めて、彼女の夫を戦場の最前線に送るというような罪を犯してしまいました。この「父祖ダビデの神」という言葉には、<ヒゼキヤもあのダビデと同じように立派な王だけれども、大きな罪を犯しているのではないか>、という問いかけが込められているのではないでしょうか。
 
しかし、神様は、「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」と言われます。ヒゼキヤ王が自分の罪に気付いて、悔い改めの涙を流したことを神様は見ておられます。そして、ダビデの場合もそうであったように、憐れみをもって赦そうとしておられるということであります。そして、寿命の十五年の延長をお告げになります。こうしてヒゼキヤは、自分の生涯のすべてを見ておられ、生と死を支配しておられるのは神であることを知らされるのであります。
 
更に、神様はヒゼキヤの罪を赦して寿命を延長されるだけでなく、「アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く」とも断言されました。ヒゼキヤはこれまで、自分がエルサレムを導き守って行こうと意気込んで来ました。しかし、ユダの国の運命を導くのは自分ではなく神様であり、歴史を支配しておられるのは、他でもなく神様であることを悟らされたのであります。
 
これらの神様の宣言について、7節以下には、その約束が実現されることが分かる「しるし」のことが記されています。「見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。」こうして、太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った、というのであります。ヒゼキヤの前の王であるアハズ王が神殿の西側の王の入り口と呼ばれるところに日時計を設けました。それは階段があって、そこに出来る日陰をもって時間を示すのですが、その日陰が十段分後戻りしたことが十五年の延命示すしるしとなるということです。21節でヒゼキヤは「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか」と尋ねています。そのしるしが、この神殿の階段の日陰であります。日陰が後戻りすることは奇跡的な出来事ですが、ヒゼキヤの十五年の延命も神がなさった奇跡だということであります。
 
更に21節を見ますと、イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した、とあります。イザヤは一つの具体的な癒しの行為を行います。干しいちじくが漢方薬のような働きを持っているということでしょうか。神様が癒されるのであれば、そんな治療行為は不必要にも思えるのですが、主イエスも病の癒しの奇跡を行なわれる時に、言葉だけで癒されることもありましたが、目に泥を塗るとか、衣の房に触れるという行為を伴う癒しを行われたことが記されています。私たちの病の癒しが行われる場合も、現代の医療技術や薬や漢方薬的な治療法も用いられます。しかし、あくまでも病を癒される主体は神様であります。神様は私たちの健康と病を、そして生と死を御支配なさるお方であります。
 ところで、私たちは自分なりに自分の人生を思い描いて、それなりの使命感さえもって、生きてきたつもりであります。しかし、それが神様の御心に沿ったものであったのか、自分の勝手な思い込みや自負心で過ごして来たのではないか、また、その歩みの中で、神様の御心に反することをしたり、自分の楽しみや名誉のために人を傷つけて来たのではないかということを思い返す必要があります。そして、私たちは神様の赦しがなければ、私たちの命は天幕のように取り去られ、息の根を止められ、息の根を止められても致し方ない者であることを覚えなければなりません。しかし、ヒゼキヤの姿を通して、またダビデの姿を通して、憐みの神様は、悔い改めて懺悔の涙をもって祈る者を赦して、寿命を延ばしてくださるお方であることを知ることが出来ました。いや、地上の寿命を少し延ばされるだけではなくて、神様との関係の回復は永遠の命につながることであります。もし、私たちが死に直面させられるようなことがあれば、それは、この神様の赦しの憐みに出会う時であり、永遠の命につながる恵みの時であることを今日の箇所から教えられるのであります。
 
ヒゼキヤは、自分と神との間で、また人との間で平和を取り戻すために、神様が苦痛をお与えになるという認識に導かれました。私たちもまた、そのような認識を与えられて、懺悔と感謝の祈りへと導かれたいと思います。

結.命ある限り主の神殿で

最後に、16節と17節の初めの言葉を聴きましょう。主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。見よ、わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない。
 ヒゼキヤが死に直面させられたのは、ただ単に彼の罪に対する裁きとして苦しめられたということではありません。そこには神様の憐みの御心がありました。人は意味無くして苦しみに耐えることはできません。しかし、苦しみの意味を知るときに、耐える力が与えられ、生きることが出来ます。ヒゼキヤは死の病にかかることによって、命の主である神様に向き合うことが出来ました。神様と向き合う時に、人は生き続けることが出来ます。ヒゼキヤは「わたしの霊も絶えず生かしてください」と祈っております。「霊」というのは空中に漂う霊魂のようなもののことではありません。「霊」とは神様と私たちを結ぶ聖霊のことであります。その聖霊の働きがあるとき、神様と私たちの命の関係が絶えることはありません。そこに本当の健康があります。そこでは、肉体的な苦痛は平和のためであったと祈ることが出来るのであります。21節の最後に「主の神殿に上れることを示すしるし」という言葉がありました。これは先ほど説明しましたように、神殿にある王が上るための階段が日時計になっていて、その日陰が後戻りしたということを言っているのですが、これはまた、王が病を癒されて、神殿において神様を礼拝できるようになったということをも指し示しています。私たちもまた、罪を悔い改め、憐みの赦しを与えられるならば、神様との関係が回復されて、心からの喜びの礼拝を捧げることが出来るようになるのであります。それこそが、私たちが本当の命に生きているしるしでもあります。
 
感謝してお祈りいたしましょう。

祈  り

私たちの生と死を御支配なさる父なる神様!
 今日もイザヤ書の御言葉を通して、命の支配者であり歴史の導き手であるあなたに向き合うことが許されましてありがとうございます。
 
私たちは御心に適う正しい道を歩みたいと思い、そのように歩んでいると思い込んでおりますが、いつのまにか驕りや思い上がりに捕われて、御心に反する勝手なことをして、御心を痛めたり、人を傷つけておりますことに気付かされました。どうかお赦しください。
 
どうか、もう一度、あなたの備えて下さる命の道を歩むことが出来るようにしてください。どうか、全てを御支配なさっているあなたの命の御言葉に、従順に聴き従う者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝(待降節第一主日)説教<全原稿> 2013年12月1日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 38:1−22
 説教題:「
命の支配者」         説教リストに戻る