序.危機の意味を問う

今日は旧約聖書の朗読で、イザヤ書36章から37章にわたる、大変長い箇所を読んでいただきました。しかし、この箇所の小見出しは、36章の最初に「センナケリブの攻撃」というのが一つあるだけです。つまり、2章にわたる全体が、アッシリアの王センナケリブによるユダ王国への攻撃をめぐる出来事が書かれているのであります。と申しましても、アッシリアの軍隊による実際の攻撃のことは殆んど書かれていなくて、大部分を占めているのは、アッシリア王から交渉の代表として遣わされたラブ・シャケの言葉とそれに対するユダの王ヒゼキヤの反応と祈り、そしてユダの預言者イザヤの言葉であります。
 
センナケリブの攻撃というのは歴史的にもはっきりしている戦いで、時は紀元前701年のことで、36章の初めにも書かれていますように、アッシリア王センナケリブがユダ側の拠点を次々に占領して、エルサレムに迫って来ているのであります。この出来事とほぼ同じことを書いている列王記を見ますと、このような緊迫した状況の中で、ヒゼキヤ王はアッシリア王のもとに使者を送って、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言って、大量の貢物を差し出したことが書かれています。(列王記下181416)イザヤ書の方ではそのことには触れていませんが、貢物によって、直ちにエルサレムに侵入することは食い止められたのかもしれません。しかし、アッシリア王は大軍と共にラブ・シャケと呼ばれる交渉役を送り込んで来て、脅しをかけながら降伏を迫るのであります。ユダ王国存亡の危機を迎えているのであります。
 
こういう危機的状況に対応するユダの王ヒゼキヤは、このときまでに神殿の修復をしたり、国内の偶像を破壊して宗教改革を断行するなど、ユダの歴史の中でも最も信仰的な王とされていて、預言者イザヤとも良い関係にあったようであります。
 
今日の箇所は、そういう信仰的な王が、国家存亡の危機の中でどう対応し、その結果どうなったかということが書かれているのですが、この箇所を通して考えさせられることは、私たちを脅かす様々な危機というものが、私たちの信仰生活にどのような意味をもっているのかということであります。私たちはヒゼキヤ王のような国家的な責任を負っている立場ではありませんが、それぞれに家庭や職場や教会などにおいて、それなりに責任ある立場を持って生きておりますが、その家庭や職場や教会などが、外部からの圧力を受けたり、内部的に問題を生じたりして、危機的状況に陥るということがあります。或いは、そういう団体の問題ではなくとも、個人の人生において、経済的なことや仕事のことや健康のことなどで、危機的状況に陥ることがあります。サタンは様々な仕方で、私たちの信仰を脅かそうといたします。そのような危機というものが、信仰者にとってどういう意味を持っているのかということを、今日の箇所は私たちに問いかけているのではないでしょうか。

1.信仰を脅かすもの――ラブ・シャケの脅し

さて、アッシリア王から遣わされたラブ・シャケはまず、ヒゼキヤ王に対するアッシリア王のメッセージを伝えます。その内容が4節から10節までです。その要点は3つあります。一つは、エジプトに頼ってもだめだ、ということです。ヒゼキヤ王はアッシリアに対抗するためにエジプトと同盟を結んだのですが、アッシリア軍は既にエジプトとエチオピアの連合軍を打ち破ってしまったのであります。そんなエジプトに頼っても駄目だ、というわけです。これは、これまでにイザヤも警告して来たことであり、大きな反省材料であります。次にラブ・シャケが伝えたことは、ヒゼキヤ王の宗教政策に対する非難であります。ヒゼキヤは唯一の神を依り頼んで、祭儀をエルサレム神殿に集中して、地方の祭壇を取り除きました。そんなことをしても無駄だというわけです。これは、エルサレム中心政策に反感を持っている勢力による内部分裂を狙ったものかもしれません。三つ目は10節で言っていることですが、「主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになった」と言います。つまり、あなたの信じている神の命令なのだと嘘を言って従わせようとするのです。このように、ユダの内部状況やヒゼキヤの信仰を巧みに捉えて、降伏を迫ったのであります。私たちに対するサタンの囁きも、同様に巧妙であります。私たちの不安な思いや、内部の弱さや問題を捉えて、私たちを本当の信仰から引き離そうといたします。私たちはそのようなサタンの囁きに惑わされてはなりませんが、同時に、そのことを通して自分自身を振り返って反省するチャンスでもあります。ヒゼキヤ王が神様だけに信頼するのではなくてエジプトに頼ったことは、イザヤも指摘していたように、間違いでありましたし、宗教政策にも傲慢から来る驕りがあったかもしれません。自らの正しさを主張するだけでなく、謙遜に自らを反省する機会を、神様はサタンを用いて与えてくださるということがあるのではないでしょうか。
 
13節以下では、ラブ・シャケはユダの民衆にも聞こえる大声で語ります。「ヒゼキヤは、お前たちに、『主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない』と言って主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない。」15)ヒゼキヤ王は神が救ってくださることを信頼するようにと人々に語りかけているようだが、そんなことを当てにしてはならないと言い、アッシリア王と和を結び降伏した方が、新しい農耕地も用意されて、安心した生活が出来ると言います。そして、他の国々もそれぞれの神々に頼っていたけれども、アッシリアの手から救い出せなかった事実を述べて、「それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」(20)と脅しをかけます。
 
このようにサタンは私たちに対しても、危機的状況の中で脅しをかけたり、見せかけの平安をちらつかせて、私たちを本当の信仰から離れさせようとするということを知らねばなりません。<教会なんかに行っても実質的な救いは何も与えられないのではないか>という不安に駆られて、御利益宗教に走ってしまうということがあるかもしれません。この世的な慰めや癒しが押し寄せて来て、そちらに気を取られて私たちの関心を本物の喜びから逸らせてしまうかもしれません。
 
このような敵の誘惑に対して、エルサレムの民はどのように対応したのでしょうか。21節を見ると、しかし彼らは、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった、とあります。箴言にはこう書かれています。「愚かな者にはその無知にふさわしい答えをするな。あなたが彼に似た者にならぬために」(箴言264)。主イエスも最高法院で裁判を受けられたとき、訴える者たちが次々と不利な証言をするのに対して黙り続けておられました(マタイ2663)。それは、十字架の苦しみを受けられることへの強い御意志を示すものでありました。しかし、サタンの誘惑に対して黙ってさえおればよいということではありません。なすべきことがあります。そのことが、次の37章に記されています。

2.主の前に祈る――真っ直ぐな祈り

371節を見ると、こう書かれています。ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。――衣を裂き、粗布をまとうというのは、悔い改めを表わす明確な行為であります。ヒゼキヤ王は部下たちの報告を聞いて、自らの罪に気付いたのであります。彼は神様に頼らずにエジプトに頼ろうとしました。その不信仰がこの事態を招いたことに気づくと、王冠も王の服も脱ぎ捨てて、粗布をまとって神殿に行って、神の前にひれ伏したのであります。敵はもうエルサレムのすぐ近くに迫っています。ぐずぐずしている余裕はありません。いち早く軍隊の体制を整えなければなりません。しかしヒゼキヤはまず神の前に出て祈ることを優先しました。危機に出会った時に、まず第一にすべきことは、このように神の前に出ることであります。そして、謙虚に自分を振り返って、神に祈ることであります。
 
一方、ヒゼキヤは家臣たちを預言者イザヤのもとに遣わしました。これは、神の御言葉を聴くためであります。自分の考えよりも先に、神に問うべきであります。また、4節にあるように、ヒゼキヤは自分で祈るだけでなくて、「ここに残っている者のために祈ってほしい」と、イザヤに執り成しの祈りを求めています。これも大切なことであります。危機に陥った時に、独りで祈るのではなくて、信仰の仲間に祈ってもらうことが大切です。祈りは教会の祈りとなることによって、ただ個人の幸せや癒しや問題の解決を求める祈りから、神の御栄光を求める祈りへと高められます。そこから、本当の解決の道が開けて来るのではないでしょうか。
 89節に書かれていることの詳しい背景は分かりません。8節にある、アッシリアの王がラキシュをたって、リブナを攻撃しているということは、エルサレムの南から迫って来ているということを表わしています。一方、9節で、王はそこでクシュの王ティルハカについて、「あなたと戦いを交えようと軍を進めている」との知らせを受けたと書かれていることは、クシュすなわちエチオピアの軍隊が南からアッシリア軍に迫っていることを表わしています。それで、ラブ・シャケはティルハカが来る前にヒゼキヤを降伏させようと、少しあせって、再び使者を遣わしたのではないかと考えられます。
 
10節から13節には、使者によってヒゼキヤに伝えた言葉が記されていますが、アッシリアの王たちが北王国イスラエルを滅ぼしたことと、北シリア地方の諸国もアッシリアによって征服された事実を挙げて、ヒゼキヤ王だけが救い出されることはないと強弁しております。
 
14節によると、ヒゼキヤ王はこの手紙を受け取ると、すぐに神殿に行って、これを主の前に広げました。手紙の内容は、ヒゼキヤを意気消沈させるような内容であります。しかし、彼はそれを隠そうとはせず、全てを神様に見ていただこうとしております。私たちは神様の前で強がって見せる必要はありません。神様は私たちの置かれている状況をすべてご存知であり、私たちにとって何が必要であるのかもご存知であります。ですから、弱くて心細い、ありのままの自分を曝け出せばよいのです。
 15節以下に記されているヒゼキヤの祈りの内容を見て参りましょう。まず、16節で、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」と言っております。「ケルビムの上に座しておられる」というのは、神殿の至聖所の中に契約の箱があることをもって、神様がそこに臨在しておられることを言い表しています。その神が万物を創造された神であり、地上のすべてをご支配なさっているとの信仰を告白しています。続けて18節以下を見ますと、こう祈っております。「主よ、確かにアッシリアの王たちはすべての王国とその国土を荒らし、その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼ら(アッシリアの王たち)はこれを滅ぼしてしまいました。わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」1820)――多くの国々がアッシリアの王によって滅ぼされたことを認めています。しかし、彼らが信じていたのは、人間が造った偶像でしかありませんでした。あなたはそんな神ではないのだから、私たちを救ってくださることによって、唯一の真の神であることを示してください、という祈りであります。ここに私たちが危機に陥った時に祈るべき祈りのモデルがあり、私たちの信仰の姿が示されています。

3.イザヤに聞く――勝利の約束の言葉

 さて、危機の中でヒゼキヤ王がしたことは、このような祈りを捧げたことと、預言者イザヤのもとに家臣を送って、神の言葉に聴こうとしたことでありました。祈るということは、こちらの願いを述べるだけに終わるものではありません。真剣に祈るときには、神様の方から言葉が帰って来ます。衣を裂き、粗布をまとって悔い改めたヒゼキヤがイザヤに「祈って欲しい」と求めると、それに対して帰ってきたのが、先ほど飛ばしました67節の神の言葉であります。「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」67)――敵が神様を冒涜する言葉を聞いても、「恐れてはならない」と言われます。人間の力に頼って、 虚勢を張った言葉は恐れるに足りないということであります。神様が直接霊を送って働いてくださいます。その結果、アッシリア王は剣にかけて倒されるということです。
 このことをヒゼキヤは聞いていたからでしょうか、ラブ・シャケからの脅しの手紙を受けても、臆することなく、創造主なる神様に対する信仰の告白をすることができたのでありました。
 
2129節には、ヒゼキヤの祈りに答えて、神様がアッシリア王に告げられた言葉が記されています。一つ一つの言葉を追うことはいたしませんが、ここに述べられていることは、アッシリア王センナケリブが高慢にも自らの力を誇って大言壮語を語り、確かに町々を瓦礫の山にすることが出来たけれども、それは皆、はるか昔に神様が定めておられたことが実現したに過ぎないということであります。歴史を動かしておられるのは神様であります。そのことを弁えずに、自分の力を誇り、神様を冒涜する者には、厳しい裁きが告げられます。29節にはこう述べられています。お前がわたしに向かって怒りに震え/その驕りがわたしの耳にまで昇ってきたために/わたしはお前の鼻に鉤をかけ/口にくつわをはめ/お前が来た道を通って帰って行くようにする。ここにアッシリア王センナケリブの末路が描かれています。
 
更に、3035節には、戦争によって荒された農地が回復し、もはやアッシリアの王がエルサレムの都に入城することはないという約束が語られています。
 
最後に、36節以下には、主の使いが現れて、アッシリアの陣営で185千人が撃たれて殺された上、アッシリアのセンナケリブ王自身が二人の息子に剣をかけられて殺されたという結末が記されています。これらは歴史的な事実として起こった出来事でありました。

結.祈る喜び――神との交わり

これらの出来事から私たちは何を聴き取るべきでしょうか。
 
ヒゼキヤ王は危機に際して、最初は神に信頼することをせず、エジプトの軍事力に頼ろうとしました。しかし、その結果招いたのは、アッシリアによってエルサレムが存亡の危機を迎えなければならなかったということでした。しかしそこで、ヒゼキヤは悔い改めて、万軍の主であり、万物を造られた神様に立ち帰って、神様に祈ると共に、イザヤを通して神の言葉を聞こうとしました。そんなヒゼキヤ対して神様は救いの手を差し伸べられました。否、神様は初めからエルサレムを守る御計画であったのであります。そして、危機を通して、ヒゼキヤとエルサレムの民に信仰を取り戻させられたのであります。私たちに与えられる危機は、自らの罪に気付かず、傲慢になって自分の力で何でもできると過信してしまう私たちを、もう一度、神に祈ること、神の御言葉に耳を傾けることへと立ち返らせるために備えられることだということであります。祈るということは、神様との交わりであり、神様と心を通い合わせることであります。そこに、私たちの本当の平安があり、喜びがあります。 祈りましょう。

祈  り

全てのものを創造し、私たち一人一人との真実の交わりを望み給う父なる神様!御名を賛美いたします。
 
私たちは、あなたを忘れて、自分の力や判断に頼って、祈ることを怠り、過ちを犯して、自分で危機を招いてしまう愚かを繰り返している者です。どうかお赦しください。
 
今日、ユダの危機の歴史とヒゼキヤ王の姿を通して、こうして祈ることの力と喜びを確認することが出来ましたことを感謝いたします。
 
どうか、どのような危機に遭遇しても、あなたを信頼し、あなたに祈り、あなたの御言葉に耳を傾ける信仰をお与えください。
 
どうか、様々な試みを受けている方々が、あなたに立ち返って、御言葉を聴き、真実の祈りを捧げることが出来るように導いてください。また、この世の幸せの中にあって、それがあなたの恵みによることを忘れている人々にも、あなたとの祈りと御言葉による交流がなくては、本当の生き甲斐も喜びもないことを知らしめてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年11月24日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 36:1−37:38
 説教題:「
主が救い出してくださる」         説教リストに戻る