この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
              (コリントの信徒への手紙一
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 人の命とは何か。創世記によれば、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創127)とある。これは、人が神と向き合って対話できる存在として造られたことを示す。人間の命は神との関わりによって生かされるということである。だが、アダム以来、神の御心に反して罪に陥ったために死ぬべき者となった。誰も自力で神の審きから逃れることは出来ない。
 しかし、憐みの神は、人間との関係を回復しようと、御子を罪人の世に送って、人間に代わって十字架の死の審きを受けさせられた。ここに神の愛がある。しかも、御子は三日目に墓から甦られて、死に勝利し、新しい命に生きられた。こうしてキリストは死すべき者が新しい命に甦る初穂となられたのである。
 では、私たちはどのような体で甦るのか。パウロは穀物の種が蒔かれると、全く別の形をとって育つように、私たちの体も別の「霊の体」に復活すると言う。「霊の体」とは、肉体を離れた霊魂や精神のようなものではない。その人自身の人格はそのままに、朽ちない体を着物のようにまとうのである。その体はイエス・キリストの再臨の時に、一瞬のうちに与えられるのである。「永遠の命」とは、今の体が無限に続くということではなく、霊魂の不滅といったことでもなく、神との関係を回復された本来の命に生きるということである。キリストに出会い、悔い改めて信仰を与えられた者は、この「永遠の命」に今から生き始めることが出来るのである。

主日礼拝(召天者記念礼拝)説教<要 旨> 2013年11月17日  山本 清牧師 

 聖  書:コリントの信徒への手紙一 15:35−58 説教題:「死者の復活」 説教リストに戻る