序.死に直面して

今日の礼拝は、毎年一回行っております召天者記念礼拝であります。ご遺族の方々への案内のはがきには、「先に召された故人を偲びつつ、故人に主の恵みが豊かであったことを思い起こす時としたいと考えています」と書かせていただきました。確かに、この礼拝の後に行います「記念会」は、そのような時であることは間違いないのですが、只今行っております召天者記念礼拝は「礼拝」ですから、神様を礼拝するのが目的であって、故人のことを偲んだり、思い起こすのが主眼ではありません。しかし、「召天者記念礼拝」ですから、召天者と無関係に礼拝するのではありません。では、「召天者記念礼拝」にはどのような意味や目的があるのでしょうか。大きく分けて二つの意味があると思います。
 一つは、ご遺族をはじめ故人と親しかった方々が、故人の生と死を通して示された神様の恵みを思い起こして、神様に感謝と賛美を捧げるということであります。礼拝の説教の中で、故人のお一人お一人の御生涯や亡くなられたときのことに触れることはできませんが、信仰をもって生き、そして亡くなられた方々に共通する神様の恵みや喜びや希望を覚えることができるのではないでしょうか。それは、残されたご遺族をはじめ故人と親しかった方々にとって、大きな慰めになる筈でありますし、神様への礼拝へと導かれることになるでしょう。
 
今一つの意味は、故人の死という厳然とした事実を通して、この礼拝に集められた私たち自身の生と死について考える機会を与えられるということであります。私たちが生きるということにどのような意味があるのか、そして、信仰をもって死ぬということはどういうことなのか、更には、聖書が約束している復活とか永遠の命ということを、改めて聖書の御言葉に問い直すことによって、私たち自身と神様との真実の関係を取り戻す絶好の機会であるということであります。
 先程司式者に読んでいただいたコリントの信徒への手紙一15章の55節に「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ。お前のとげはどこにあるのか」とありました。私たちは故人の死や自分自身の死というものに向き合って、このように言い得るのでしょうか。それとも、死という動かしがたい現実の前に、うなだれるほかないのでしょうか。そのことを、与えられている聖書の御言葉に問うことによって、主が備えていてくださる勝利の恵みに与りたいと思うのであります。

1.死のとげは罪

さて、「死」ということを考えるときには、「命とは何か」、「なぜ、どのようにして命が与えられているのか」、ということを思い起こさなければなりません。旧約聖書の初めに、人間がどのようにして造られたかが記されています。そこには、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記127)とあります。「かたどって」とは、形が似ているということではなくて、神様と向き合って対話できる存在として造られたということであります。人間の命は神様との関わりの中に位置づけられているということです。ですから、神様との関わりを忘れて、神様の御心に反して勝手な生き方をすることでは、生きている意味がなくなります。それを聖書は「罪」と呼んでいます。罪に陥るならば死ぬほかありません。最初の人間アダムとエバは蛇にそそのかされて、神様から「食べてはならない」と言われた木の実を食べたことによって、死ぬべき者とされました。そのことについて、ローマの信徒への手紙ではこう言っております。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ512)、「罪の支払う報酬は死です」(ローマ623)。今日の箇所の56節にも、死のとげは罪であり、とあります。人間に「死」という鋭い「とげ」が与えられているのは、神様との関係を疎かにした「罪」の結果であります。その罪は、すぐさま人間との関係にも及びます。私たちが日常の生活の中で犯してしまう様々な過ち・トラブルは、その元を質せば、神様との関係を疎かにした罪から来ています。
 では、その厄介な「罪」という「死のとげ」をどうしたら取り除くことが出来るのでしょうか。残念ながら、人間は罪の奴隷状態になっていて、自分の力でそこから抜け出して、神様との関係を修復することは出来ません。従って、誰も死の審きから逃れることは出来ません。どんな善人に見える人でも、あの人は人格者だと敬われるような人であっても、神様との関係の破れを自分で修復することは出来ません。

2.キリストの復活――初穂

それでは、神様と人間の関係の破れを修復する道は閉ざされてしまったのでしょうか。――人間が罪の状態にあることを最も憂えたのは、 他ならぬ神様ご自身でありました。神様は義しいお方ですから、人間の罪を決して放任なさらないお方ですが、同時に、人間を憐れんで、本来あるべき神様と人間の関係を回復しようとされるお方であります。神様は次のように言われたと、旧約聖書に記されています。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。・・・どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル3311  そこで、神様は一つの決断をされました。それは、御自身の独り子イエス・キリストを罪人の世界に送って、罪のない方が全ての人間に代わって十字架上で死ぬという決断でした。それによって人間の罪の大きさを示されるとともに、このイエスの十字架の死の中に自分自身の罪を見出して悔い改める者を、赦そうとされたのであります。こうして、神様は御子イエス・キリストの死において、すべての人間の罪を審かれました。それは罪の中にある人間を救い出すための神様の御決定でありました。そこには神様の人間に対しる大きな愛があります。
 
しかし、御子イエス・キリストの十字架の死で終わるならば、人間の罪は清算されたとしても、神様と人間の本来の関係は回復されないままになります。ところが、驚くべきことに、主イエスは十字架の上で犠牲の死を遂げられ、墓に葬られたあと、三日目の朝に甦られて、弟子たちにそのお姿を現わされたのでありました。こうして、死がすべての終わりではないこと、死を超えた新しい命があるということをお示しになりました。その新しい命とは、神様との本来の関係を修復された命であり、もはや死ぬことのない命であります。
 
コリントの信徒への手紙一の15章の初めからは、このイエス・キリストの復活のことを伝道者パウロが伝えている箇所であります。153節以下をご覧ください。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。35)――このあと、死者の復活などない、と言って信じられない人たちのために、復活された主イエスが多くの人々に現れたことなどを記したあと、2021節でこう言っております。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。――最初の人間アダムによって人間は罪を犯す者になったために、すべての人は死を免れることが出来なくなりましたが、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様との関係を修復され、もう一度、本来の命に生かされることになった、ということを言っているのであります。20節に「初穂となられました」という言葉がありますが、これはキリストが最初に復活されたという意味で、それに続いて、既に死んだ人たちも、そして私たちも、キリストの後に続いて、復活の命へと甦らされるということであります。ですから、このキリストの復活が私たちの死からの復活の根拠となるのであります。

3.体の復活――霊の体

ところで、私たちが復活すると言われても、どんなふうに復活するのか、どんな体で甦るのか、ということが気になります。そのことについて述べられているのが、先程朗読していただいた35節以下であります。しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。こう言ったあと、37節以下では、麦やその他の穀物のたねを例にとって、たねは極く小さな種粒に過ぎないけれども、それが地に蒔かれると、全く別の形をしたものが芽生えて、育つ、それと同じように、私たちの復活も、今のままの体で復活するのではなくて、別の体を与えられるのだ、と説明しております。主イエスが甦られて弟子たちに現れた時も、鍵をかけて閉じこもっていた家の中に、すっーと入って来られました。エマオで二人の弟子のところに主イエスが近づかれましたが、はじめ主イエスだと気づきませんでした。明らかに以前の体とは違っています。42節以下を読みますとこう書かれています。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。4244節)ここに「自然の命の体」に対して「霊の体」という言葉が出て来ます。この「霊の体」というのは、肉体を離れた霊魂や精神のようなもののことではありません。しかし、自然のままの体でもありません。もはや朽ちることのない体です。病や老化などに悩まされることのない体です。そして、罪を犯すことのない体です。しかし、「その人自身」としての人格が変わるのではありません。その人が新しい秩序のもとで、決して滅びることのないものを身にまとって、新しく存在させられるということであります。53節ではそのことを、こう表現しております。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。ここでは、死者がどのようにして復活の体に変わるのかというようなことについては触れられていません。52節によれば、最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます、と言っております。「ラッパが鳴る」というのは旧約の時代に黙示文学の中で、神様の介入を告知する表象として用いられていた表現で、ここでは終末の時、即ち、イエス・キリストがもう一度来ると約束されていた再臨の時の合図として書かれているもので、そういうことが、よく聖画に描かれているように天使がラッパを吹くような姿で行われるのかどうかは分かりませんが、ここで言わんとすることは、キリストの再臨と共に、眠りについていた死者が一瞬にして新しい「霊の体」を与えられて復活するということであります。
 そして、最初に聴いた言葉につながります。54節以下を読みます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」――このカギの中は、旧約聖書のイザヤ書とホセア書の言葉を引用したもので、いずれも神様の厳しい審きが語られる中で述べられた言葉でありまして、それを引用することによって、本来は滅ぶべき者・死すべき者でありながら、審きから勝利への大きな転換が行われるのだということを語っているのであります。そのような転換が行われるのは、言うまでもなく、人間の罪の結果の滅びを示す十字架の死が、イエス・キリストの復活によって勝利に変えられたからであります。私たちは皆、罪のゆえに死を免れることが出来ない者であります。しかし、キリストの復活によって、終わりの日における勝利が約束されているということであります。

4.永遠の命――朽ちない命

こうして私たちには、朽ちることのない「永遠の命」に至る道が開かれたのでありますが、ここで改めて、その「永遠の命」とはどのような命であるのかということを確認しておきましょう。
 
「永遠」という言葉を聞くと、終わりのない無限に続くものというように考えがちですが、聖書で言う永遠の命というのは、単に死なないでいつまでも生きるということではなくて、神様との関係の中で生きる命のことであります。ですから、「永遠の」というのは時間的な長さというより、「本当の」とか「真実の」とか「あるべき」というような意味で、「永遠の命」とは、神様とのあるべき関係を回復した生き方、神様と共に生きる本来の命、と言った方がよいのであります。
 また、「永遠の命」とは、繰り返しになりますが、人の肉体が滅んでも、霊魂は永遠に生きていると考える「霊魂不滅」とは違います。主イエスは「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ1028)と言われました。人は皆、罪を犯したので死ななければなりません。魂も体も滅ぼされて、死の世界に落とされるべき者であります。その人間が、キリストと共に甦らされて、神の前に新しく生きる者とされたのであります。そこに「永遠の命」があります。
 
では、この「永遠の命」は、いつ与えられるのでしょうか。先程52節で聴きましたように、完全な形で朽ちない者とされるのは、キリストの再臨の時を待たねばなりません。しかし、主イエスはこうも言っておられます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ647)つまり、イエス・キリストと出会い、キリストを信じる者は、既に永遠の命を賜っているとおっしゃるのであります。なぜなら、主イエスと出会うことにとって、神様との本来の関係の回復が始まるからであります。そういう意味で、生前に信仰を与えられて亡くなった故人は、既に永遠の命を与えられて、再臨の日まで眠っておられるのであります。

結.故人と共に

信仰をもって召された故人は、今はどうしておられるのでしょうか。聖書の表現によれば、今は静かに眠っておられるのであります。肉体から離れて、霊魂だけがどこかを漂っておられるのではありません。
 
私たちは家族や親しい人の死という現実に直面して、体も失われて骨だけになってしまうのを見て、寂しい思いに囚われざるを得ません。再び元の姿で会うことは出来ません。ただ写真や心の中に残っている思い出でしか会うことは出来ません。ですから、せめて目には見えないけれども霊魂としてどこかで生きていて見守ってほしい、精神のようなものとして私たちの中に生きていてほしいと思うのであります。確かに、故人が生前に大切にしていた精神のようなものは、残された者たちに受け継がれるということはあるかもしれません。しかし、それはもはや、その人自身でないことは明らかであります。聖書の信仰によれば、故人を美化することはありません。まして、故人を神や仏のように崇めたり、助けを求めたりすることもありません。故人も神様の前に罪人の一人であり、死すべき者・滅ぶべき者であります。しかし、その故人も、キリストの十字架と復活の故に、信仰において罪を赦された者であります。そして、来たるべき終わりの日に、キリストの再臨とともに眠りから覚めて、朽ちない命に復活されて、天国における喜びの祝宴に連なられることを私たちは信じております。
 今日、ここに集められております私たちも、この勝利の祝宴に共に与りたいと思います。今日の召天者記念礼拝は、ただ個人を偲んで懐かしむだけの時ではありません。主イエスの十字架と復活によって全ての人に備えられた永遠の命の約束を思い起こして、私たちもその救いへと招かれていることを、感謝をもって受け入れるようにと、神様が備えてくださったことを覚える時であります。最後に、57節の御言葉を聴きましょう。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。  お祈りいたしましょう。

祈  り

命の主である父なる神様!
 
死ぬべき私たちが、御子イエス・キリストの救いの御業のゆえに、赦されて、永遠の命へと復活させられる、との勝利の約束の御言葉を聴くことが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちは、故人もこの約束を信じて召されたゆえに、終わりの日に共に喜びの祝宴に連なられることを信じています。
 
どうか、私たちも、その勝利の祝宴に漏れることがないように、残された地上の歩みにおいて、御言葉によってあなたとの関係を保たせてください。どうか、今日、ここに集うことのできなかった御遺族の方々の上にも、あなたの招きが届きますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝(召天者記念礼拝)説教<全原稿> 2013年11月17日  山本 清牧師 

 聖  書:コリントの信徒への手紙一 15:35−58
 説教題:「
死者の復活」         説教リストに戻る