序.復活を信じているか

私たちは毎週の主日礼拝において「使徒信条」を唱えていますが、その中で、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」と告白いたしております。私たちは誰も、やがて死の時を迎えなければなりませんが、私たちの「からだ」が終わりの時には復活して、永遠に生きるということを告白しているのであります。しかし皆さん、この「からだの復活、永遠のいのちを信じます」ということを、生き生きと喜びをもって告白しているでしょうか。「復活を信じますか」と問われれば、クリスチャンであれば、「信じています」と答えるでしょう。しかし、「復活」ということが、死んだ後の「終わりの時」のことだとすれば、先のことだし、よく分からないというのが本音かもしれません。あるいは、今を生きるのが精一杯で、死んだ後のことまで考えている暇がないということもあるかもしれません。まして、クリスチャンでない人であれば、からだの復活というようなことは迷信じみたことに感じられて、馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれません。しかし、人間は死んだら何もなくなってしまうというのでは如何にも寂しいので、からだは死ぬけれども霊魂とか精神のようなものは生き続けてほしいという思いは、多くの人が抱いているのかもしれません。特に、親・兄弟や連れ添った伴侶が亡くなった場合は、からだは骨だけになってしまうけれども、霊はどこかで生きていて、見守ってくれているというようなことを考えたくなるのであります。しかし、それは、信仰告白で言う「からだの復活」とは全く違うことであります。では、使徒信条で「からだ」というのは何を言い表しているのかということですが、「共同の学び」で読んでおります『わたしたちの信仰』によれば、こう説明されています。「『からだ』とは、霊魂や精神から区別された意味での単なる肉体のことではありません。これは、わたしたち人間の全人格、存在全体というべきものです。まるごとの人間と言い表している人もいます。つまり、からだの復活とは、わたしたち人間の一部分ではなくて、このわたし自身が、神の国の新しい秩序のもとで、決して滅びることのないものを身にまとって、新しく存在させられるということです。」――これは、驚くべきことであります。それだけに、本当にそのようなことがあるのだろうか、という思いもよぎってしまうのであります。しかも、『わたしたちの信仰』によれば、更に、この「からだの復活」は、「すでに、この地上において、イエス・キリストと結びつくことによって、わたしたちの中に始まっているのです」とも述べています。死後の遠い先のことではない、というのであります。ということは、復活ということは決して死後の問題ではなく、現在の問題であって、今をどう生きるかということに関わる事柄なのであります。ですから、このことを信じるか信じないかで、今の生き方が変わって来ますし、生きることの喜びにつながる事柄なのであります。
 
今日与えられておりますルカ福音書の2027節以下は、復活についてのサドカイ派の人々の質問から始まっていますが、それに対する主イエスの御言葉が記されている箇所であります。今日は、この主イエスの御言葉を通して、私たちに約束され、また既に始まっているとされる新しい復活の命の恵みについて、認識を新たにされて、生き生きとした復活信仰に生きる者とされたいと思うのであります。

1.退屈な問い

まず、サドカイ派の人々の質問から見て参りたいと思いますが、その前に、サドカイ派というのは、ファリサイ派の人々に比べるとあまり登場しませんので、どのような人々なのかということをお話ししておきます。ファリサイ派の人々がユダヤの中産階級の人々に多かったのに対して、サドカイ派の人々は支配階級の人に多かったようで、保守的、現実的な考えを持っていて、信仰的には、聖書の中でも「モーセ五書」と呼ばれる、今の旧約聖書の最初の五巻だけを重んじていました。その中には、人間が死んだらどうなるのかということについては何も書いてありません。ですから、彼らは復活ということを信じなかったのであります。彼らは、現在の生活に満足していましたから、死後に希望を託する必要がなかったということかもしれません。他方、ファリサイ派の人々は、モーセ五書以外の詩編や預言書の中に復活を暗示する言葉を見出して、復活を信じておりました。ただ、彼らは復活ということを、現在の生活の延長線上で考えていて、今の生き方の中で律法を守って、より自分を高めることによって復活に至ると考えていたようであります。その点では、後で分かるように、主イエスが教えられた「復活」とは大きく異なるものでありました。
 さて、サドカイ派の人々は現実的に物事を考える人たちでありましたから、主イエスが教えられる復活ということについても、現実的な観点から疑問を投げかけるのであります。彼らはまず、「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」と言います。これはレビラート婚と呼ばれ、申命記255節にこのように書かれていることを言っているのであります。これは、その家系の血筋が絶えて、土地を失うことを避けるために方策として定められたものでありました。彼らは、この規定を基にして、ある仮定のケースについて問題を投げかけます。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないままに死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」――これは議論のための議論にすぎない質問であります。現実的な質問のようで、実際に夫を失った妻の悲しみといったことを無視した、現実離れした質問で、復活のことを教えておられる主イエスを陥れるための観念的な質問でしかありません。
 
加藤常昭先生はこのサドカイ派の人々の質問について、「実に退屈な問いです」と言っておられます。「切実さもなければ、身につまされる思いもない」問いであるということです。「復活」という、命に関わる問題でありながら、全く真剣な事柄として受け止められていないということであります。私たちもまた復活について、このような退屈な議論をしたり、想像を巡らせたりしてしまっているのではないかと思わせられます。例えば、コリントの信徒への手紙一1535節以下には、<死者はどんな体で復活するのかと聞く者がいるかもしれない>ということが取り上げられています。若くして死んだ者は、若い体で甦り、年老いて死んだ者は、年老いた体で甦るのか、そうすると、天国では年齢の逆転のようなことが起こり得るのか、あるいは、怪我をして不自由な体になった人はその不自由な体のままで甦るのか、それとも元の健常な体に戻るのか、といった議論です。パウロはこうしたことを問う者について、「愚かな人だ」と言っております。
 では、主イエスはサドカイ派の人々の問いに対して、どのようにお答えになったのでしょうか。

2.天使に等しい神の子

34節以下が主イエスのお答えですが、主イエスは加藤先生のように「退屈な問いだ」とも、パウロのように「愚かな人だ」ともおっしゃらずに、忍耐をもって丁寧に、そして明解にお答えになっています。主イエスはここで大きく分けて二つのことを言っておられます。一つは36節までですが、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と言っておられます。
 
この主イエスのお言葉を聞いて、皆さんはどうお感じになられたでしょうか。
 
<なんだ、復活なんて何の面白味も、温かみもない>と感じられたかもしれません。結婚というものがないなら、夫婦の愛もない、親子・兄弟の絆もない、そういう人間的な温かみのない世界なのだろうか。「天使に等しい者」と言っておられるが、ただ清いだけで、喜びや悲しみもない、無味乾燥な状態になるのだったら、<復活なんてちっともうれしくない>と思われるかもしれません。
 確かに主イエスはここで、私たちが期待する人間的な絆を断ち切っておられます。私たちの地上の生活における愛情とか、思い出といったものが、そのまま永遠に続くということではありません。それならば、復活の後には、愛とか交わりというものが全くなくなるということでしょうか。主イエスはそういうことを言っておられるのではありません。神様の愛は変わることなく私たちに注がれます。その神様の愛によって、私たちの間の愛も支えられるので、そこには互いに仕え合う完全な交わりが続く筈であります。パウロも、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と言っている通りであります。
 
結婚ということは、神様が人間を創造された時からの秩序でありました。神様に祝福された人間が、その祝福を受け継ぐためには、子孫を絶やさないことが必要であり、そのために男と女が結ばれるように造られました。主イエスもカナの婚礼の時に、水をぶどう酒に変えることによって祝福されました。しかし、結婚は地上の歩みの中では子孫に祝福を受け継ぐために必要であっても、主イエスが再び来られて私たちが復活する時には、もはや死がないわけですから、子孫を残す必要もなくなるわけで、結婚の役割は終わるのであります。だから、「めとることも嫁ぐこともない」のであります。
 
35節に、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とあります。こういう言葉を聞くと、<どんな人が「復活するにふさわしい」と言えるのだろうか>、<自分はふさわしいと言えるのだろうか>と考えてしまうかもしれません。しかし、ここは私たちに資格があるかどうかということが問われているのではありません。主イエスが罪ある者のために死んでくださいました。そして、死に打ち勝って甦ってくださいました。その大きな愛にふさわしくない者などありません。もちろん、そのような主イエスの救いの愛を受け入れられないのでは問題外ですが、主イエスの恵みを受け入れた者は、誰でも、どんな大きな罪を犯した者でも、主イエスの贖いの故に、「復活するのにふさわしいとされた人々」なのであります。
 36節では更に、「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」とおっしゃっています。ここで、「天使に等しい者」であるというのは、喜びや悲しみの感情のない、ロボットのような無味乾燥な存在になるということではありません。神様の愛の懐(ふところ)の中で、神に仕え、互いに仕え合う喜びの交わりに生きるということでありましょう。地上において夫婦であった間は、どんなに愛し合っている夫婦であっても、自我と自我のぶつかり合いがあります。そこには罪が生じます。ましてこの世における人間関係にあっては、親子であれ、親友の間柄であれ、罪が入り込む余地があります。しかし、主イエスの愛の業によって、それらの罪も償われたのであります。そうなると、罪の結果である死から解放されます。ですから、主イエスを信じる者は、「もはや死ぬことがない」のであります。「天使に等しい者」とは、天使のように、もはや死ぬことがない命に甦らされた、ということであり、その新しい命をもって、天使のように神様に仕える生き方をする者となる、ということであります。そのような生き方をする者のことを「神の子だからである」とさえ言っておられます。「神の子」とは、主イエスにこそ当てはまる称号でありますが、主イエスはその称号を私たちにも当てはめてくださっているのであります。しかも、「神の子」としての生き方は、遠い未来のことではなくて、主イエスを信じる信仰を持つとともに、この世において始まるのであります。

3.生きている者の神――神によって生きる

次に、サドカイ派の人々に対する主イエスのお答えの後半の部分を聴きたいと思います。37節から38節にかけてですが、こう言っておられます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
 
ここで「柴」の箇所と言われているのは、先程の旧約聖書の朗読で聞いた出エジプト記31節以下の箇所のことで、モーセの召命の場面であります。モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出す使命を与えられて、その役目の大きさに尻込みしていました。その時に神様が言われたのが、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉でありました。ルカ福音書ではモーセが神を呼んで言ったような書き方になっていますが、出エジプト記では神様が言われた言葉をそのまま書いているわけです。ここで出て来るアブラハムやイサクやヤコブという人たちは、モーセの時代よりもずっと以前の人で、とうの昔に死んでいる人たちであります。それなのにモーセは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言っております。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形では言わずに、「・・・の神である」と現在形で言っているのであります。つまり、モーセの時代になっても、アブラハムやイサクやヤコブは主なる神を神として生き続けているということであります。そのことが、復活があることの証拠ではないかと言われているのであります。サドカイ派の人々というのは、モーセ五書だけを重んじている人たちだということを申しましたが、彼らはモーセ五書の中には復活のことが書かれていないので、復活はないと主張していたのであります。しかし、主イエスは、モーセが書いたとされる出エジプトのこの箇所の書き方によっても、復活があることが示されているではないか、とおっしゃっているのであります。
 
主イエスが出エジプト記の言葉を持ち出されたのは、サドカイ派の人々の主張を覆すためでありますが、主イエスがおっしゃりたいことの中心は38節に記されていることであります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」――これは、<神様は生きている人にとってだけ神様であるけれど、死んでしまった者には神様ではなくなる>という意味ではありません。アブラハムやイサクやヤコブは地上の命はなくなったけれども、今も神様との関係においては生きているのであって、神様はそのように肉体は死んでも生きている者たちの神であり続けておられる、という意味であります。つまり、言い換えると、神様がアブラハムやイサクやヤコブを生かし続けておられる、ということであります。彼らの肉体が滅びても生き続けているのは、彼らの生命力が強いからではありません。彼らが生きている間にした業績がずっと生き続けているということでもありません。また、しばしば誤解されるように、彼らの肉体が滅びても霊魂だけは生きているということでもありません。神が彼らに約束されたように、彼らをずっと生かしておられるということであります。神様が彼らとの関係を保ち続けておられるということであります。38節の最後の言葉をお聴きください。「すべての人は、神によって生きているのである。」神が生かしておられるということであります。このことは、私たちの永遠の命についても言えることであります。私たちの命は、罪によって滅ぶべき命であります。しかし、神様はそのような私たちを憐れんで、御子を十字架に架けるという大きな犠牲をもって、私たちの命が滅びてしまわないように計らってくださったのではありませんか。だから、私たちと神様との関係が切れずに保たれるのであります。それが「永遠の命」ということであります。私たちが神様にしっかりつかまっているから滅びないのではありません。私たちの行いが良いからとか、信仰力が強いから、永遠に生かせてもらえるのではありません。主イエスを遣わされた神様の愛が私たちを永遠に生かすのであります。

結.復活の命に生きる

最後に、このような復活の命を約束された者、永遠の命に生きる者の現在の生き方について考えてみましょう。私たちが地上で生きて行く間には、様々な苦しみが伴います。もう生きるのに疲れた、と思うようなことがあるかもしれません。しかし、神様は私たちとの生きた関係を断ち切ろうとすることはなさいません。私たちのどんな苦しみの中でも、決して関係を切ろうとなさいません。命の関係を保ってくださいます。また、私たちは地上で生きている間には、神様のことを忘れ、また人のことよりも自分中心になって、神と人に対して罪を犯してしまうものであります。しかし、神様はそんな私たちをも切り捨てようとなさらずに、御子をお遣わしになったのであります。さらには、このような礼拝に私たちを招き寄せて、御言葉を語ってくださることによって、切れそうになる関係を修復してくださっているのであります。また、私たちはいずれ、年老いて肉体が滅びる時が必ずやって来ます。場合によっては、病の故に、あるいは事故や災害によって、思ったより早く死に直面することがあるかもしれません。しかし、病も事故も災害も、私たちと神様の関係を切り裂くことはできません。神様は私たちをお見捨てになることはないからであります。
 
パウロは申しました。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ83139)。――ここに、神様と私たちの強い絆の根拠があり、復活と永遠の命の根拠があります。私たちも、ここに立って、残された地上の命と、限りない永遠の命を生き続けたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

命の主である父なる神様!
 
罪の中にあって、死を免れ得ない私たちでありますが、あなたの大きな愛による罪の赦しによって、死の力も私たちを引き離すことが出来ず、私たちを新しい命へと甦らせてくださるとの約束を与えられ、喜びに充たされております。
 
どうか、この約束を信じ続け、地上の歩みの中で起こって来るあらゆる試みに打ち勝つことが出来ますように、絶えず、御言葉をもって語りかけ、私たちとの関係を保ってくださいますように。
 
どうか、様々な苦しみの中にある者、死の恐れの中にある者、未だ復活を信じることができない者、礼拝から遠ざかっていて御言葉の恵みに与っていない者にも、この復活の福音が届きますように計らってください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年11月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 20:27−38
 説教題:「
生きている者の神」         説教リストに戻る