序.神の国はいつ、どこで?

今日与えられておりますルカによる福音書1720節から37節の箇所の小見出しは「神の国が来る」となっています。今日の箇所のテーマは「神の国」であります。では、「神の国」とは何でしょうか。マタイによる福音書では「神の国」とは言われず、「天国」と言われていますが、同じことであります。「天国」とか「神の国」という言葉で、皆さんはどのようなことを思い浮かべられるでしょうか。聖書についての知識がない方であれば、「神の国」というのは、<理想の国(ユートピア)>とか<死んでから行く楽園>のようなものと考えるかもしれません。しかし、聖書の世界では、「神の国」というのは、この世と切り離された別世界のことではなくて、<神様の支配>のことを意味しました。神様を信じるユダヤ人にとっては、自分たちは神の民であり、世界は神様によって支配されていると考えていました。しかし、現実のユダヤの民は、周辺の強い国々によって痛めつけられて、苦しい歴史を歩んで来ていました。そうした中で、自分たちをそのような支配から解放する救い主が登場することを待ち望んでいました。ですから、「神の国が来る」ということは、救い主が登場するということと結びついていたのであります。
 そういうことですから、ユダヤ人にとって、<神の国はいつ実現するのか>、<誰が実現してくれるのか>、<自分たちがどうすれば実現できるのか>ということに大きな関心がありました。今日の箇所の冒頭で、ファリサイ派の人々が登場いたします。彼らは神様から与えられた律法を守ることによって神の国が実現すると考えて、律法を忠実に守ることに熱心であった人たちであります。しかし、現実の社会の中では、律法を守らない人、守れない人たちがいて、彼らが思い描くような神の国はなかなか実現しないのであります。そこで、彼らは20節にありますように、主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのでありましょう。彼らがなぜ、主イエスにこのような質問をしたかというと、主が宣教を開始されてから、「神の国は近づいた」と語られていたからです。ファリサイ派の人々というと、主イエスに敵対する立場で登場することが多いのですが、ここでも、<あなたは神の国が近づいたなどと言っているが、それは出鱈目ではないか、近づいているということが本当なら、いつ来るのかを言ってみろ>ということが含まれていたかもしれません。しかし、「神の国がいつ来るのか」ということは、彼らの真剣な問いでもありました。彼らは自分たちで何とか神の国を引き寄せたいと考えていたので、そのヒントになることを主イエスから聞き出したいという思いもあったのかもしれません。そのような思いは、ファリサイ派の人々だけでなく、主イエスの弟子たちに中にもあったのでしょう。このあと主イエスは22節以下で、弟子に語り始めておられます。また、37節を見ると、ここでは弟子たちが主イエスに「主よ、それはどこで起こるのですか」と質問しています。ここでは、神の国の完成とともに「人の子」と言われる主イエスが現れる場所について質問しているのであります。神の国がいつ実現するのか、それはどこで実現するのか、ということは弟子たちの関心でもあったのであります。そのようなことに関心があるのは、「神の国」の実現への期待が大きいということの表れでありますが、彼らの心の内には、<その神の国の実現のために自分たちはどのようにすればよいのか>という問いがあったのだろうと思われます。何とか、自分たちの力で神の国を引き寄せたい、あるいは神の国に入り損ねないようにしたい、そのためにはどのような生き方をし、どのように行動すればよいのか、という問いがあったのであろうと考えられます。そして、そのような問いは、かつてのファリサイ派の人々や弟子たちだけのものではなくて、私たちの問いでもあるのではないでしょうか。
 先週の特別伝道礼拝で私たちは、「思い悩むな」という主イエスの言葉を聞きました。多田先生を通して教えられましたことは、私たちはいつも、「どうしたら幸福になれるか」、「どうすれば思い悩みを克服できるのか」と考えて悩んでいるのだけれども、大切なことは「どうしたら」でなくて、神が創造された空の鳥や野の花を見て、そこに神様の業を見るがよい、そして神様を信頼して祈り求めることが、<神の国と神の義を求めることだ>ということでありました。私たちは、<どうしたら理想の社会を来たらすことが出来るのか>、<どのように生きたら、神の国に入ることが出来るのか>と問いつつ、それがなかなか実現しないどころか、ますます悪くなって行くように見える現実の中で、「神の国はいつ来るのか」、「神の国はどこで実現するのか」、<この苦難や問題はどのようにしたら解消されるのか>と問いたくなるのであります。このような問いに対して、主イエスはどう答えて下さるのでしょうか。今日は、与えられた箇所から、この問いに対する主イエスの御言葉を聴き取って参りたいと思います。

1.神の国はあなたがたの間に

ファリサイ派の人々の問いに対して主イエスはこう答えられました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 ファリサイ派の人々は「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。それは、彼らは神の国はまだ来ていないという認識に立っていたからであります。現実の社会を見るときに、彼らの理想とは大きく違っていました。神の支配ではなくて、ロ−マの支配という動かしがたい現実がありました。だから、その現実からいつ解放されるのかということに大きな関心がありました。この質問に対して、主イエスは直接には答えられずに、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言われます。これは彼らの理解や私たちの期待を突き放すようなお言葉であります。私たちは見える形での神様の御支配を望んでいます。悩んでいる問題が具体的に解決したり、改善されることを期待しています。特定の権力の支配から解放されたり、平和で正しいことが行われる社会が目に見える形で実現することを期待しています。それに対して主イエスが、「神の国は、見える形では来ない」と言われると、がっかりするのではないでしょうか。主イエスのおっしゃっている「神の国」とは、この世の中の具体的な問題が解決されることではないのかと、失望を禁じ得ないのであります。そんな役に立たない「神の国」など、私には必要がない、と思ってしまうかもしれません。
 ところが、主イエスは続けて、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。これはどういう意味でしょうか。「あなたがたの間にある」という訳は、誤解が生じないように苦心した訳だと思いますが、ここの意味を、「あなたがたの心の中にある」というように解釈すると、「神の国」というものが、心の中だけの内面的、精神的なものと理解されてしまって、現実の具体的な問題の解決とは結びついていないように受け取ってしまいます。ここで主イエスがおっしゃっているのは、そういうことではなくて、実際にあなたがたの間で神の国は出来事として起こっているではないか、ということであります。<あなたがたはまだ何も起こっていないように思って、「いつ来るのか」とか「どこにあるのか」と言っているけれども、私がこの世に来たことによって、神の国は既に始まっているのだよ>と言っておられるのであります。ファリサイ派の人々は「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。それは、彼らが神の国がまだ来ていないという理解に立っているからであります。しかし、神の国は主イエスの到来によって既に始まっているのであります。それがファリサイ派の人々には見えていないのであります。主イエスを見ていないということであります。このことは、ファリサイ派の人々にだけ言えることではありません。私たちも主イエスが見えていないために、神の国を別のところに探し求めて、「いつ来るのか」「どこに来るのか」と問い続けてしまうのであります。例えば、教会の教勢が低下しているとか、洗礼を受ける人が少なくなっているというような見える指標でもって、神の国が遠のいているように思ってしまいます。あるいは、身の回りの困難な問題がすぐ解決されない状態にあるのを見て、神の国が遠くの存在のように思って、「いつこの現状が打開されるのか」、「神の国なんて、実現しないのではないか」、「遠くの夢のような世界のことを言われても、ピンと来ない」と思ってしまうのであります。そんな私たちに対して主イエスは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われるのであります。<今、このような礼拝において、私があなたがたの間にいて、言葉を語っているのに、神の国はどこにあるのか、いつ実現するのか、探しているようだが、この場所にこそ、神の国は来ているのだよ>と言っておられるのであります。
 22節以下は、弟子たちに言われている言葉であります。こう言われています。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」――ここでは、「人の子の日」(22)のことが語られています。「人の子の日」とは主イエスがもう一度来られる再臨の日のことであります。主イエスはこのあと、天に昇られて、そのお姿を見ることが出来なくなります。すると人々は、主イエスのお姿を求めて、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言う人々が出て来るだろうが、そういう言葉に惑わされてはならない、と警告なさっているのであります。教会の二千年の歴史の中で、そういうことで右往左往する人たちが現れました。これは現代の教会においても、形を変えて起こりかねないことであります。特別な人を英雄視したり、神に次ぐ者のように扱うことがあります。また、教会発展の秘策があるように宣伝する人が現れたりいたします。そんなことに惑わされてはならない、という警告であります。
 
「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」と言っておられます。これは、思いがけない時に、光としての主イエスが来られ、それは誰の目にも明らかな形で分かるということであります。だから、これが主イエスの来臨の徴ではないか、あの兆候が徴ではないかと、惑うことはない、ということであります。私たちはただ、<必ず来る>との約束を信じて待てばよいのです。

2.人の子は多くの苦しみを受け

そのあとの25節では、もう一度、現在時点に戻って語られます。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」――これは十字架の予告であります。以前から申し上げておりますように、主イエスはこのとき、十字架が待っているエルサレムに向かっておられて、今日の箇所も、その途上における出来事なのであります。そして、神の国の実現ということも、エルサレムで待ち受けている十字架と別のこととして起こるのではりません。主イエスが十字架の苦難を受けられることによってこそ、救いの御業が行われ、神の国が完成へと進むのであります。神の国、即ち、神の御支配は、強権をもって人々を従わせるような形で起こるのではありません。反対に、御子イエス・キリストが人間の罪を背負って十字架に架かられるという形で行われるのであります。神の愛による御支配だと言ってよいでしょう。これが「神の国はいつ来るのか」「どこで起こるのか」という問いに対する答えであります。<神の国は、主イエスが十字架にお架かりになることによって来るのであり、主イエスが十字架にお架かりになったエルサレムで起こる>と言って、言い過ぎではないでしょう。ですから、正にこの弟子たちとの対話の時にこそ、「神の国は近づいている」のであり、「神の国はあなたがたの間にある」のであります。そして、その状態は今も続いているということであります。

3.人の子が現れる日

26節以下では、再び、「人の子が現れるとき」(2630)について語られます。まず2628節では、皆様よくご存知のノアの物語のことが述べられています。ノアは神様に命じられたとおりに箱舟を作りました。しかし、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして」いました。つまり、日常の自分たちの営みを変えようとせずにいたのです。そして、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼ」されてしまいました。282932節では、先ほど旧約聖書の朗読でその一部読んでいただいたソドムの滅亡のことが述べられていて、神様は御使いを遣わしてソドムの町を滅ぼすことを告げられたのですが、冗談だと思って、人々は「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」という日常の営みを変えませんでした。そのため、「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼ」されてしまいました。その中でロトたちには「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言われていましたが、ロトの妻はソドムの町のことが気になったのか、「後ろを振り向いたので、塩の柱になった」のであります。そして、主イエスは30節でこう言われています。「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。」日頃自分が大切にしている物が気になって、ぐずぐずしている間に滅びを招いてしまうということであります。これは遠い未来のことに対する警告ではありません。明日起こるかもしれない再臨の日のことであります。ですから、今、私たちが何を大切にして生きているかということが問われるということです。一番大切にすべき神様との関係を、今日、先延ばしにしたら、もはや手遅れになって、永遠の滅びに落ち込むかもしれないということであります。洗礼を受けるとか、礼拝を守るといった神様との関係に関わることは、一日延ばしにすることによって永遠の生死を分けることになる事柄なのだということであります。これは厳しい警告でありますが、逆に言うと、喜ばしい招きの言葉であります。

4.自分の命を失う

続けて33節で主イエスはこう言われています。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失うものは、かえって保つのである。」――「自分の命を生かそうと努める」ということは、自分の人生を大切に生かすことだから良いことのように思えます。しかし、私たちは自分の楽しみのため、自分の栄誉のために日々の命を用いて満足してしまいます。それは、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりして」いることに過ぎません。それらは、していけないことではありませんが、私たちの心を奪ってしまうものであります。「それを失う」とはどういうことでしょうか。33節と同じ主旨の言葉を主イエスは色々な機会に語られましたが、特に、ご自分の死と復活について予告された時に言われたことが4つの福音書に記されています。そこを見ると、「それを失う」というところで「わたしのために命を失う」、あるいは「わたしのため、また福音のために命を失う」と言っておられるのであります。つまり何のための命、何のための人生かというと、主イエスのための命、福音のための人生であるときに、本当の命が保たれるということであります。神の国に生きるということは、そのような主イエスとの関係に生きること、神様の御支配のもとに生きるということで、そこにこそ、本当の生きがいがあり、喜びがあるということであります。33節の言葉で、主イエスはそのような新しい生き方、神の国に生きることへと招いておられるのであります。
 しかし、そのような生き方の大きな違いも、表面的に見るとあまり変わらないように見えるのであります。そのことが次の3435節で述べられています。「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」――同じ部屋に寝ているというのは家族のような近い関係を表しているのでしょう。一緒に臼をひいているとは、同じ仕事をしているということでしょう。表面的には同じような日常生活をしており、同じような人生を歩んでいるように見えるのでありますが、主イエスの再臨の日には、二人の違いがはっきりするということです。どこが違うのか。すぐ前の主イエスの言葉で言えば、自分の命を生かそうとしているか、主イエスのために生きようとしているのかの違いということになりますが、更に今日の箇所の初めからの対話に遡れば、「神の国はいつ来るのか」「再臨はどこで起こるのか」と尋ねている者と、「神の国は既に自分たちの間にある」ということを知っている者かの違いであるということが出来ます。その違いは決定的であります。それは単に知っているかいないかの知識の問題ではありません。そのことを本気で信じて生きているかどうかの違いであります。その違いが、再臨の時の反応に現れますし、表面上は同じように見える日々の生活の中にも現れるということではないでしょうか。この主イエスの言葉を、敷衍して厳しく受け止めれば、こうして一つの礼拝室で礼拝している人であっても、「人の子が現れる日」には、<一人は神の国に連れて行かれ、一人は残される>と言い換えることが許されるのではないでしょうか。主イエスはこのあとの18章で、同じく神殿に来て祈っていた「ファリサイ派の人と徴税人の譬え」を語られます。義とされて家に帰ったのは、自分を誇る祈りをしていたファリサイ派の人ではなくて、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈った徴税人であったと主イエスは語られました。同じように神殿で祈っている二人でも、「人の子が現れる日」には、分けられるのであります。このことを厳しく受け止める必要があります。

5.死体のある所には、はげ鷹も集まる

最後に、37節の後半で言われた不思議な言葉を聴きたいと思います。主イエスはこう言っておられます。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」――「はげ鷹が集まる」のは、動物の死体が残されているからであります。主イエスが来られることは、人を神の国にいれるため、永遠の命に招き入れるためです。しかし、はげ鷹が死体を見逃さないように、永遠の死に至る者を決して見逃されることもない、ということであります。身の震えるようなお言葉です。誰がこのような厳しい裁きに耐えることができるでしょうか。しかし、今、この厳しい御言葉を私たちにくださっているのは、私たちを永遠の命に招き入れるためであります。主イエスは私たちを脅しておられるのではありません。私たちが自分の危機に気づくチャンスを与えてくださっているのであります。

結.今、礼拝においてこそ

しかし、自分の危機に気づくよりも大切なことがあります。それは、危機に気づかず、「神の国はいつ来るのですか」「それはどこで起こるのですか」と問い続けて、主の前に額づこうとしない私たちに代わって、主イエスが十字架の苦しみを担ってくださったという愛の事実を見つめることであります。そして、今日も主は私たちを礼拝に招いて、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言って、神の国へと招いていてくださる事実であります。 
 
今日はこのあとで、聖餐が行なわれます。主は、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言ってくださいます。この約束の言葉を信頼して、すなおにこれを喜んで受け取る者とされたいと思います。その時、「神の国はあなたがたの間にある」との御言葉は成就するのであります。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちは愚かにして、あなたが大きな愛をもって神の国に導き入れようとしていてくださっていることに気づかず、不満を抱いたり、疑問を持ったり、いたずらに神の国を手繰り寄せようとしたりして、あなたを信頼する道からはずれてしまっておりました。そのような者たちをも忍耐をもって、このようにして御言葉にあずからせ、御支配のうちに置こうとしてくださいますことを感謝いたします。
 
どうか、あなたの招きに素直に従うものとならせて下さい。どうか、主イエスがもう一度来てくださるときに、永遠の命にあずかることができるように導いてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年11月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 17:20−37
 説教題:「
イエスが現れる日」         説教リストに戻る