「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
                 (マタイによる福音書63133 

 私たちは何かと思い悩むくせがあり、「思い悩むな」との主イエスの言葉によって慰められても、新しい事態が起こると思い悩まざるを得ない者である。だが、肉となって私たちの間に宿ってくださった主は、私たちの弱さや愚かさをよくご存知で、思い悩む可能性を理解していてくださる。
 神は世界を創造し、被造物全体を人間にお委ねになったが、「人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた」(創世記219)。神は人間が生きるに必要なものを備えてくださった。人間はそれらを用いて、「どうしたら」幸福になれるかを考えて思い悩んでしまう。それに対して主イエスは、「どうしたら」ではなく、神が人間を見ておられることに気付くとき、神への信頼が芽生えると教えてくださる。(ルカ31011、ヨハネ826)フランクルは、人間の可能性には「創り出す能力」、「体験する能力」、「観察する能力」があるが、このうち最も高い能力は観察する能力であると気付いたと述べている(「夜と霧」)。主は「空の鳥をよく見なさい」と言われた。そこに神の力を見る(観察する)ことができる。「どうしたら」ではなく、神の創造の業を見ることが大切なのだ。「どうしたら」と考えて、力の弱さを嘆き、自己嫌悪に陥ってしまう。
「神の国と神の義を求めなさい」と言われる。私たちは神の国や神の義を創ることはできないが、それらを求めて祈ることができる。すべてを神に委ねることが、神の国と神の義を求める具体的な内容である。神は私たちを信頼して見ておられる。主と弟子たちが湖上で嵐に遭遇したとき、主イエスは眠っておられた。それは、神への絶対的な信頼があっただけではなく、弟子たちを信頼されていたからである。主は弟子たちをそのように見ておられた。私たちは思い悩むことが多い。そのたびに、私たちを信頼してくださっている主イエスを思い起こそう。「どうしたら」ではなく、神に信頼することが、私たちに与えられた最大の能力なのである。
1027日の多田滉牧師による特別伝道礼拝説教より。文責=山本)

特別伝道礼拝説教<要 旨> 2013年10月27日  岐阜教会多田滉牧師 

 聖  書:マタイによる福音書 6:25−34 説教題:「大いなる神信頼に生きる」 説教リストに戻る