序.神の羊の群れの一員として

先程、旧約聖書の朗読ではエゼキエル書34章を読んでいただきました。そこには、イスラエルの民が羊の群れと喩えられ、主なる神がその羊の群れの牧者であるとされていました。これはイスラエルにおける伝統的な考え方でありまして、有名な詩編23編でも、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1)と歌われていますし、今年の主題聖句である詩編10012節のすぐ後ろでも、「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(3)と言われています。この考え方は新約聖書にも受け継がれているのでありますが、御存じのように、主イエスはこれを発展させて、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)と言われました。また、復活された主イエスは、今日のテキストのペトロの手紙を書いたとされるペトロに対して、「わたしの羊を養いなさい」と言われました。今日の箇所の中にも、2節に「神の羊の群れを牧しなさい」という言葉がありますし、4節には「大牧者がお見えになるとき」という言葉もみられます。新約聖書では、羊の群れはイスラエルから教会へと引き継がれておりますが、基本的には同じ考え方が流れています。
 さて、ペトロの手紙一5章の今日の箇所は、その神の羊の群れである教会の長老たちと若い人たちへの勧めが語られているところであります。ここで「長老」と呼ばれているのは、現代の長老主義教会で言うところの長老職とは必ずしも一致しておりませんで、教会の組織化がまだ進んでいない時代に、教会の指導的な役割を果たしていた人々の名称の一つとして使われていたものであります。その名の通り、長く教会に仕えている先輩とか、高齢の信者という意味もあったかと思われます。当時は教職と信徒の区別もはっきりしていませんでしたから、今の牧師と長老を含んだ指導者と考えた方が近いかもしれません。
 
しかし、ここを読む時に、今の牧師や長老にだけ語られた勧めとして聞くのではなくて、教会において責任をもって主のために仕えようとする信者に語られたものとして読んだ方がよいと思います。ですから、この伝道所の委員はもちろん、教会員は皆、心して耳を傾けていただきたいと思います。また後半では「若い人」というのが出て来ますが、これも、年齢的に若いという意味よりも、信徒としてまだ日が浅い人とか、求道中の方々に向けられているとして読んでいただいたらよいのではないかと思います。
 ところで、今日の箇所を一読いたしますと、<なるほど教会が平穏に前向きに進んで行くために大切な教えが書かれているなあ>、と感じられたのではないかと思います。しかし、聖書の言葉は単なる教訓ではありません。そこの背後にある神様の御心、恵みの御業、そして約束のメッセージを聴き取る必要があります。そのことに留意しながら、順に、読み進めて行きたいと思います。

1.キリストの受難の証人――栄光にあずかる者として

まず1節で、ペトロはこう言っております。さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
 
ここでペトロは、「わたしは長老の一人として」と書いています。ペトロは主イエスの十二弟子の一人でありますから、他の箇所では「使徒」と呼ばれているのですが、このように「長老」と書いているのは、この手紙を本当に書いたのはペトロでなくて長老と呼ばれる信徒の一人ではないかと考える学者もいるのですが、そんなことをあまり詮索する必要はなくて、ここで大切なことは、使徒であろうが長老であろうが、教会に連なる者の大切な使命は、ここに記されているように、「キリストの受難の証人」となるということであります。もちろん、主イエスの御受難の場面に実際にいたのは、限られた者だけでありますが、その人たちが伝えたキリストの御受難の出来事を、後世に伝え続けるのがキリストに結び付けられたキリスト者の役割であります。
 では、「キリストの受難の証人」としての役割を果たすということはどういうことでしょうか。ペトロは主イエスと行動を共にして来た弟子ですから、時には食糧や宿泊場所を確保することで苦労をしたかもしれません。無理解な人たちからの迫害を共に受けることもあったでしょう。そういう体験を語ることが受難の証人となることでしょうか。ペトロはそういうことはいくらでも証しすることができました。しかし、ペトロはキリストが最後に捕えられて裁判を受け、十字架に架けられた時には逃げ出した人であります。ペトロは確かに主イエスの伝道活動にずっと同行していたので、その御苦労の様子や主イエスが語られたことを伝えることは出来たでしょうが、肝心の十字架の場面の主イエスの様子を伝えることは出来ないのです。それなのに、ここでなぜ、「キリストの受難の証人」であると言えるのでしょうか。それは、自分が、キリストの御受難によって罪から救い出されたことを体験しているからであります。キリストの受難の証人となるということは、単にキリストのお苦しみの状況を伝えるということではなくて、罪深い自分がキリストの御受難によって救われたという恵みを語ることであります。ペトロは肝心の十字架の時に主イエスを裏切ってしまいました。羊飼いの許から迷い出た羊になってしまいました。しかし、主イエスは御自分が身代わりに犠牲の小羊となってくださって、罪の償いをしてくださいました。そして、復活された主イエスは、裏切り者のペトロに対して、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。迷い出た羊が帰って来たことを喜ばれるだけでなく、もう一度、小羊を飼う働きをする弟子として召し直してくださったのであります。そこには大きな赦しの恵みがあります。この赦しの出来事を語ることが、「キリストの受難の証人」として働くということであります。
 私たちは、主イエスの苦難の状況については聖書に書かれていることしか知りません。しかし、私たちが神様と人に対して罪を犯して来た者であることは、聖書の様々な教えを通して知ることが出来ます。そして、そのような私たちの罪が主イエスを苦しめ、主イエスを十字架へ向かわせることになって、私たちの代わりに神の罰としての苦難を受けてくださったことを知ることができます。私たちはその御受難によって救われて、神様との関係を回復していただきました。このことは、私たちも声を大にして語ることが出来ます。これが、「キリストの受難を証人」となることに他ならないのであります。ペトロは、この役割を一緒に果たそうではないかと呼びかけているのであります。
 
1節でもう一つ注目したいのは、「やがて現れる栄光にあずかる者として」と言っていることであります。「やがて現れる栄光にあずかる」とはどういうことでしょうか。何かとても遠い世界のことで、自分には関係がないことのように思えるかもしれません。しかし、これは私たちが救われることと結びついていることであります。罪から救われるということは、罪が赦されるということですが、それだけではありません。救われるとは私たちが新しくされて、新たな生活が始まるということです。しかし、私たちの生活が聖人のように、全く罪を犯さなくなるというわけではありません。私たちは救われても、残念ながらまた罪を犯してしまいます。それでは救われたことは意味がなかったかというと、そうではありません。今は、完全に罪のない状態にはなっていないのですが、やがて完全に救われる日が来るということが約束されています。それはキリストがもう一度来られる日であり、それがここで「やがて現れる栄光にあずかる」と言われている日であります。主イエスの受難とそれによる罪からの救いを与えられた者は、その恵みの御業の大きさ確かさの故に、このやがて現れる栄光にもあずかる者とされたことを信じることが出来るのであります。キリスト者といっても、今すぐ罪から完全に解放されていません。しかし、やがてキリストがもう一度現れるその日には、キリストの栄光のあずかる者とされるということも信じて証しすることが出来るのであります。

2.羊の群れを牧す――しぼむことのない栄冠を受けるため

1節でペトロは、自分が「キリストの受難の証人」であり、「やがて現れる栄光にあずかる者」であることを述べましたが、2節以下では、長老たち(教会の指導者たち)に対する具体的な勧めを語ります。
 
2節の初めに、あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい、と勧めております。ペトロ自身、復活の主イエスから「わたしの小羊を養いなさい」と命じられたのでありましたが、恐らく、その時のことを思い起こしながら、長老たちに勧めるのであります。ここでペトロは、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れ」と言っております。教会の人びとのことを「羊の群れ」と言っているわけですが、それは「神の羊」であって、それを神から「ゆだねられている」と言っているところが大切です。教会の羊というのは、牧師のものでもないし、長老や委員のものでもありませんし、自分たちの意思で形成している集団でもありません。神がキリストによる救いの業によってお集めになった群れであり、神のものであり、キリストのものであります。
 この神の羊の群れは、何を糧として、どのようにして養われるかと言えば、1節の言葉を用いて言うなら、「キリストの受難の証言」によって、ということになります。「キリストの受難の証言」は聖書に残されていますから、言い換えれば、聖書に記された神の言葉によって、即ち、福音によって養われるということであります。長老は、自分の知識や自分の言葉や自分の指導力で、羊の群れを育てたり養ったり導いたりしなければならないと考える必要はありません。自分を造り変え、自分を養い育ててくれた御言葉を伝えればよいのであります。自分の知識や言葉や力で養ったとしたら、仮に教会が大きく育ったように見えても、神の羊ではないものに育ててしまう恐れがあります。
 神の羊を養うものがキリストの福音だということであれば、長老はどのような態度をとったらよいのか、どのような姿勢で羊たちに接すればよいのかが見えて来ます。そのことが2節の後半から3節にかけて記されています。ここには、対立命題の形、つまり「…ではなく、…しなさい」という形が、三回繰り返されています。
 
第一は、強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい、と言われています。羊を養うという教会の働きは強制されるものではありません。義務ではありません。自ら進んで羊の世話をするのであります。1節の言葉で言えば、神の羊をゆだねられたのであります。ゆだねるということは、信用してあずけられるということであります。本来であれば、主を裏切るような信用できない者でありますが。そのような者をキリストの十字架の故に赦して、信用して、託してくださるのであります。私たちはその信頼に応えて、喜んで、自ら進んで羊の世話をするのであります。奉仕すること、世話をすることは、与えられた恵みに対するお返しのようなものでもありません。奉仕すること、世話をすること自体の中に喜びがあります。福音が伝わり、それによって養われ、救われる様子を見て、世話をする方も、改めて主の恵みを覚えて、うれしくなるのであります。
 
第二は、卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい、と勧められています。教会での奉仕によって金銭的な利益や報酬を得たいと考える信徒はいないと思います。しかし、自分の奉仕や功績が認められて、誉れを得たいという気持ちは、誰の中にもあります。それは否定できませんし、奉仕に対して労をねぎらい合うということは教会の中でもあってよいことであります。けれども、教会の業は先ほど2節で聴いたように、何であれ、主からゆだねられた羊の養いの一環として行うのであって、自分の誉れや栄誉のためにするものではありません。長老や委員の仕事も、名誉職のようなものではありません。また、教会での奉仕を沢山しているから信仰が篤いとか、あまり奉仕をしていないから信仰が薄いというように、信仰のバロメーターのように評価することも間違いです。人にはそれぞれの事情があって、皆が同じように奉仕出来るわけではありません。しかし、誰でも、神の羊を養う役割をゆだねられているならば、パウロが主から言われた言葉として述べているように、「受けるより与える方が幸いである」(使徒2035)と考えて当然であります。神の羊を養うという目的を忘れた途端に、自分に対する見返りを欲しくなってしまいます。しかし、神の羊をゆだねられたということに立ち帰るならば、そのために献身することが喜びになって、自分に対する見返りのことは忘れるのであります。
 第三に勧められていることは、3節ですが、ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい、であります。これはどんな組織や集団であっても言える教訓のように思えます。しかし、この世の組織や集団であれば、本人の能力や努力で権威が出て来るものですが、教会での権威は初めから私たちのものではありません。神様のものであります。私たちには何の権威もありません。ですから、牧師や長老や委員といった指導的な立場にあるとしても、御言葉の権威に立つ以外に自らが持つ権威は何もありません。「むしろ、群れの模範になりなさい」と勧めております。ここで「模範になる」とは、何か立派なことをしてみせて、群れの羊たちを感心させるという意味ではありません。そうでなくて、主の恵みを受けて喜んでいる様子、そして羊たちの養いのために仕えている様子が模範になるということであります。それは威張ることでも、誉れを受けるようなことでも何でもありません。
 4節には、そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります、とあります。人に誉められるのではなくて、大牧者である神様から誉れを受けるということです。羊の本来の飼い主は神であり、主イエスであります。私たちはその方から大切な羊をゆだねられているのであります。ですから私たちが何をするとしても、それは主から誉れを受けるためであります。主は私たちの奉仕を喜んで、しぼむことのない栄冠をくださいます。

3.謙遜を身に着ける――かの時には高めていただける

5節以下は、若い人たちに語りかけています。冒頭で申しましたように、この「若い人」というのは、年齢的に若いということも含まれていますが、信徒としてまだ日が浅いとか、求道中の方々というように受け取った方がよいかと思います。そのような人たちに対しては、こう勧められています。同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。5節)
 ここで「長老」と言われているのは、単に信仰暦が長いとか教会で役職についているという意味ではなくて、先程から見てきたように、神からゆだねられた羊のために進んで世話をし、献身的に働いて、群れの模範となっているような人たちのことであります。そういう「長老」に従うということは、そういう人の言うことによく聞き従うということもあるかもしれませんが、それよりも、そういう人たちに見倣うということでありましょう。自分たちも他の羊たちのために仕えるということであります。「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と言っております。ここで「皆」と言っております。長老も若い人も、教会の全ての人がという意味です。「謙遜を身に着ける」と言われている「身に着ける」という言葉は、奴隷たちがエプロンを着けるという言葉だそうです。つまり、誇るものが何もない奴隷のように謙遜になりなさいということであります。主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われました。客の足を洗うのは奴隷の仕事でしたが、それを自らなさいました。それは、弟子たちに謙遜の模範を示すためでした。それは主が十字架に架かられるほどに弟子たち・神の羊たちを愛されていることを表わしていました。その主イエスの謙遜に見倣いなさいということです。
 
カギの中は箴言の言葉の引用ですが、謙遜が大切であることの理由として引用されています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と言われています。高慢な者とは、人間に対して高慢ということですが、それは神様に対して高慢であることになってしまうので、神様の敵になります。反対に、他人に対して謙遜な者は、神様にゆだねられた羊のために謙遜ということですから、神様に対して謙遜に従っているということで、神様の恵みを受けることが出来るというのであります。このように、謙遜ということは、人と人との関係にとどまらず、神様との関係に直結しているということであります。ですから、6節では、こう言われています。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。ここでは「謙遜」という言葉が「自分を低くする」という言葉に変えられています。「自分を低くする」というのは、自分が思っているより低く見せるというようなことではありません。神様の下で、自分の低さ、至らなさ、罪深さを自覚しているということであります。私たちはそのことを、主イエスの十字架の赦しの恵みの中で知らされます。そこから来る謙遜を身につけることが出来たなら、「かの時」即ち、キリストがもう一度来られる時に、高めていただけるのであります。これは、1節で「やがて現れる栄光にあずかる」と言われていた約束、4節で「しぼむことのない栄冠を受けることになります」と言われていた約束と同じであります。神の国における永遠の命を与えられることであります。  

結.神が心にかけてくださる――思い煩いは神に任せて

最後に7節でこう言われています。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。――なぜここに「思い煩い」のことが出て来るのでしょうか。それは、神様と人に対して、謙遜で、低くなっていない時に、思い煩いが出て来るからでありましょう。神と人に対して高くなって傲慢になっている時に思い煩うが出て来ます。自分で解決しようと思ったり、自分の力で羊の群れを養おうとした時に、思い煩いが出て来ます。だから言います。「何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」――大牧者である神が、御自分の羊たちのことを心にかけていてくださるのです。そして、私自身の奉仕や働きのことも、そして栄光にあずかることも、心にかけていてくださるのであります。だから私たちは神様にすべてをお任せすればよいのです。ここにこそ、私たちキリストの恵みを受けて救われた者の姿があり、喜びと平安に満ちた生き方があります。
 
祈りましょう。

祈  り

大牧者なるイエス・キリストの父なる神様!
 
私たちをあなたの羊の群れの一員に加えていただき、そればかりかあなたの羊の群れをゆだねてくださるまでに、私たちを信頼し、用いてくださることを感謝いたします。
 私たちの中には、絶えず思い上がりが頭をもたげ、自分を誇ろう、よく見せようという思いを抑えることが出来ない罪深い者であります。
 
どうか、そんな私を、イエス・キリストの故にお赦しください。
 
どうか、あなたの恵みを思い起こして、謙遜を身につけることができるようにしてください。
 
どうか、私たちの小さな羊の群れの一人も漏れることなく、かの時に、しぼむことのない栄冠を受ける者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年10月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 5:1−7
 説教題:「
神の羊の群れ」         説教リストに戻る