序.本当の信仰とは

先週は、今日の箇所のすぐ前のルカによる福音書17110節から御言葉を聴きました。そこで主イエスが弟子たちに(そして私たちに)教えておられたことは、弟子たる者のあり方・生き方でありますが、そこで問われることは、「本当の信仰とは何か」ということでありました。本物の信仰に生きるということは、他でもなく、兄弟の罪を赦すことが出来ることに現れるのであって、それは、私たちが御子イエス・キリストの十字架によって贖いとられて神の僕とされたが故に、当然すべきことであり、出来ることであって、そのことが10節の中の「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉で教えられていました。
 
本日の箇所は、その続きの部分で、ここでは主イエスと弟子たちとの対話ではなくて、重い皮膚病を患っていた人たちが主イエスによって癒された出来事が記されています。しかし、最後の19節で、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われていて、ここでも「信仰」がキーワードになっています。10人が同じように重い皮膚病を主イエスによって癒されていながら、神を賛美しながら戻って来て、主イエスに感謝を表したのは一人だけで、その他の九人とは対照的であります。そこに、本当の信仰を持つもののあり方が示されています。今日は、この出来事から、もう一度「本当の信仰」について学びたいのでありますが、ここで注目しなければならないのは、重い皮膚病を癒していただいた人たちの姿だけではなくて、彼らに対する主イエスのお姿であります。その主イエスのお姿をどう受け止めるかというところに、本当の信仰に生きることができるのかどうかの鍵があるように思います。信仰とは、単に私たちの心の持ち方の問題ではありません。神様との関係であり、主イエスが私たちにどう関わっておられるかを知ることによって決まるものですから、主イエスのお姿とお言葉に注目しながら、今日の聖書の箇所を見て参りたいと思います。

1.サマリアとガリラヤの間を通って――赦しのために

まず、11節を見ていただきますと、イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた、とあります。ここからこの時の主イエスの行動について、二つのことを読み取ることが出来ます。
 
一つは先週も申し上げましたが、主イエスは十字架が待っているエルサレムを目指して旅を続けておられたということであります。しかし、エルサレムに向かってまっしぐらに進まれるのではなくて、途中の町々・村々で福音をお語りになったり、癒しなどの御業をなさったりしながら、弟子たちの教育も行いつつ、十字架以降のことも見据えながら、旅を続けておられるのであります。そこには、何とかして多くの人々を救いたい、神の国に導き入れたい、そのためにこそ御自分を献げ尽くしたい、という思いが込められています。
 今一つは、わざわざ「サマリアとガリラヤの間を通られた」と書かれていることです。主イエスは伝道の最初の段階では、ガリラヤ地方で活動をしておられました、そこからエルサレムに向かわれるのに、どういうルートをとられたのか、よく分かりませんが、ここで筆者がわざわざ、このような書き方をしているのは、この後の展開と関係があります。というのは、当時サマリア人というのは、ユダヤ人から蔑まれておりました。サマリアももとはユダヤ人が住んでおりましたが、南北分裂時代に北王国に属していて、大国アッシリアに滅ぼされたために、異邦人との血が混じるとともに、異教の信仰が入り込んでしまったのであります。そこで、南王国の人たちから差別を受けるようになったのであります。よく知られている「善いサマリア人の譬え」では、強盗に襲われたユダヤ人を憐れに思って助けたのがサマリア人であったというところに隣人愛のポイントが示されています。また、主イエスが別の機会にサマリア地方を通られたとき、シカルという町の井戸端でサマリアの女と対話された出来事も思い出されます。そのように聖書は信仰を失って差別をされていたサマリアの人々に特別な関心を払っているのであります。それは、主イエスがサマリア人の救いを強く願っておられたからに他なりません。しかも、12節によれば、そこの村には、重い皮膚病を患った人たちがいました。彼らは町の人からは隔離されて生きなければなりませんでした。彼らはユダヤ人からもサマリア人からも疎外されて、この中間地帯で病のために悲惨な日々を過ごしていたのであります。主イエスは、そのようなサマリアとガリラヤの間をわざわざ通られたのであります。それは、こうした人々を救うためであります。それは、単に重い皮膚病から救うということではなく、今日のテーマである「本当の信仰」を与えるためであります。私たちもまた、主イエスの目から見るならば、体と心を病んで、本当の信仰からも遠い者たちであります。そういう私たちを救おうと、今朝もまた聖書を通して出会ってくださるのであります。

2.祭司たちのところへ行って――信仰を促す命令

12節以下を見て参ります。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方から立ち止ったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。(1213)彼らは、主イエスが来られるという噂を聞いて、期待をもって出迎えたのでありましょう。当時、重い皮膚病を患った人は、普通の人に近寄ることは出来ませんでしたから、遠くの方に立ち止ったまま、声を張り上げて、憐みを乞うたのであります。このルカ福音書の512節以下には、やはり重い皮膚病の人を主イエスが癒された出来事が記されていますが、その時は、主イエスが「手を差し伸べてその人に触れ」て癒されたのでありましたから、この時も、もっと大胆に主イエスに近づいてもよかったのですが、彼らは遠慮しておりました。しかし、主イエスはそのような彼らを見逃されることはありませんでした。14節には、イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、とあります。これは、単にご覧になったということではありません。憐みの心をもって見られたということであり、重い皮膚病を患っている人たちの辛い、差別的な状況をしっかりと見つめられ、彼らを癒して、そのような状況から救い出してやりたいとの思いをもって見られたということでありましょう。
 しかし、主イエスはここでは彼らに近づいて手を差し伸べて癒されるのではなく、こう命じられました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。――先程旧約聖書のレビ記を読んでいただきましたが、そこに書かれていましたように、ユダヤでは皮膚病が癒えたかどうかの判断は祭司が行うことになっていました。「祭司たちのところに行け」ということは、それまでは癒されて清くなったかどうかの最終判断は出来ないということになります。そういう判断をする祭司がどこにいたのかは分かりません。もしかすると、遠くのエルサレムまで行かなければならなかったかもしれません。ここで、彼らは主イエスに対する信頼を問われることになります。しかし、この十人は、「先に皮膚病を癒してもらわなくては、祭司のところまで行けません」とは言わずに、主イエスの言葉を信じて、この主イエスの命令に従って、祭司のところに向かったのであります。もしここですぐ癒されていたなら、主イエスを信じるか信じないかという葛藤もなく癒されたかもしれませんが、主イエスは、そうはされずに、祭司のところに行くように命じられることによって、主イエスを信じる信仰を芽生えさせられたのであります。ここにも、単に病を癒すだけではなくて、彼らを信じる者へと救いだそうという主イエスの愛が込められていることを見ることが出来ます。ですから、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」という命令は、信仰を促す愛の命令だったのであります。
 主は私たちにもこのような形で命令されることがあります。「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ119)と言われました。ペトロたちには「わたしについて来なさい。そうすれば人間をとる漁師にしよう」(マタイ419)と言って、弟子にされました。そう言われて、主を信じて行動を起こさなければ、何も起こりません。生まれつきの盲人には、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました(ヨハネ97)。彼は、「そのことにどういう意味があるのですか」と問うことをせず、言われるままにして目を開かれました。このようにして、主は私たちにも、信仰を促す命令をなさることがあります。その命令に信仰をもって従うとき、思いがけない出来事が起こるのです。重い皮膚病を患った十人も、主イエスの言葉に従って祭司のところへ向かいました。長い間、閉ざされていた、サマリアとガリラヤの間の村を出て、祭司のところに向かったのであります。そして、そこへ行く途中で清くされたのでありました。私たちも、主イエスのお言葉を聞いて、見ないで信じて、出かけなくてはならないということであります。

3.ほかの九人はどこに――探し求める愛

さて、ここまでは十人とも同じでありました。ところが、この後で違いが出て来ます。1516節に進みます。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。十人とも主イエスの言葉に従って歩き出しました。そして十人とも、途中で重い皮膚病が癒されたことを知ったのであります。ところが、ここからの行動が一人と九人に分かれてしまいました。一人だけが大声で神を賛美しながら、すぐ主イエスのもとに戻って来ました。他の九人も癒されたことを知って喜んだでしょうが、主イエスのところに引返しませんでした。どう考えたのでしょうか。癒されたことを早く祭司に見せて確かめてもらおう。そうすれば、大手をふって故郷にも帰れる。――そのように思ったのでしょうか。主イエスのことを忘れたわけではなく、主イエスのお陰だとは思ったかもしれません。祭司のところで完全に癒えたことの証明をもらってから、主イエスのところにお礼に行っても遅くない、と考えたのかもしれません。しかし、一人だけは、そのようには考えずに、大声で神を賛美しながら直ちに主イエスのもとに急ぎました。そして、主イエスのところに戻ると、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したのであります。ここには、神を賛美したことと、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したことが記されています。これらの行動から分かることは、この人は、主イエスがなさった癒しの業の背後に神様の恵みを見ているということです。言い換えると、主イエスがなさったことを神の業と見ているということであり、主イエスを神としているということであります。だから、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したのであります。「ひれ伏す」とは礼拝することです。感謝の礼拝をしたのであります。他の九人も、癒されたことについて主イエスに感謝の気持ちを持ったことでしょう。しかし、礼拝には導かれませんでした。彼らは自分にとって有難かったと思っただけで、神の恵みとは思わなかったのでしょう。主イエスを礼拝した一人は、この癒しには神の御手が働いていることを覚えて、神の恵みに感謝したのであります。ここに違いがあります。
 16節の最後に、「この人はサマリア人だった」と記しています。信仰からはずれてしまったと見られていたサマリア人が、今、神様を賛美し感謝の礼拝をしているのであります。主イエスは、サマリア人に対しても差別なく癒しの業をなさったのでありますが、その恵みに応えて賛美と感謝の礼拝をする信仰にまでも導かれたということです。このサマリア人以外の九人はユダヤ人ばかりだったのか、サマリア人も交じっていたのかは分かりませんが、いずれにしろ、主イエスは、民族の歴史のいきさつと過ちを越えて、癒しをなさました。それは主イエスの憐みによることでありますが、それ以上に願っておられたことは、彼らが神様への賛美と感謝の信仰を取り戻すということであったのではないでしょうか。しかし、その主イエスの願いに応えたのは、一人だけであって、他の九人はその信仰に至りませんでした。
 
私たちはどうでしょうか。私たちは限りないほど多くの恵みを与えられていながら、神様を賛美したり感謝することを忘れがちになります。それどころか、神様はなぜこんな状態に放置しておられるのだろうか、と不平をもらすことの方が多くなっていないでしょうか。祈っているようでいて、呟いていることが多いのではないないでしょうか。私たちは有難いと思うことがあって喜んでも、まず神様に感謝の礼拝を捧げることを怠っていないでしょうか。私たちは九人の人たちに近くて、一人のサマリア人からは遠い姿になっていないでしょうか。
 
さて、1718節には、一人しか帰って来なかった状態に対する、主イエスの言葉が記されています。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」――この主イエスの言葉は、深い嘆きの言葉に聞こえますし、鋭い批難の言葉として聞くことも出来ます。しかし、それ以上に、九人の者たちを何とかして救いたい、本当の信仰へと導きたいという強い思いが込められているのではないでしょうか。主イエスはこのルカ福音書の15章で「見失った羊」の譬えと、「無くした銀貨」の譬えと、「放蕩息子」の譬えの三つの譬えを語られました。この三つに共通しているのは、失ったものを懸命に探し、見つかったら異常なほどに喜ぶということであります。重い皮膚病を患っている人たちも、失われた人たちであり、主イエスはその人たちが普通の日常生活に戻ることを願われたでしょうが、それだけでなく、本当の信仰へと立ち戻ることを、どれほど待ち望んでおられ、一緒に喜びたいと思っておられたかということをこのお言葉から聴き取ることができるのではないでしょうか。
 主イエスのそのようなお心を理解せずに、すぐに戻って来なかった人たちは、再び病に戻されても仕方がないように思ってしまいますが、ルターはその説教の中で、主イエスがそうはされなかったことに、主イエスの忍耐があることを見ています。主イエスは感謝の足りない私たちのためにも忍耐しておられるということでしょうか。

4.「あなたの信仰があなたを救った」

最後の19節には、戻って来たサマリア人に対して、主イエスが語られた言葉が記されています。それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 
この主イエスのお言葉には、聴き取るべき大切なことが三つ含まれているように思います。一番最後の「救った」という言葉から見て参ります。このサマリア人は、重い皮膚病を癒されて、清くされたのであります。ですから、「あなたの信仰があなたを癒した(清めた)」と言ってもよいように思われるところで、「あなたを救った」と言われているのであります。「救った」という言葉の中には、〈これまでの悲惨な生活から救い出された〉という意味も含まれているかもしれませんが、ここに用いられているギリシャ語は「死から命へと救う」、「罪から救う」という意味で用いられることの多い言葉であります。つまり、このサマリア人は単に重い皮膚病が癒されて悲願が達成したというだけでなく、このことを通して、罪から救い出され、死すべき者が命へと甦ったということを主イエスは宣言されたのであります。言い換えれば、神様との関係が回復した、創り直されたということであります。
 しかも、驚くべきことに、「わたしがあなたを救った」とか「神様があなたを救われた」と言った方が正しいように思われるところで、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのであります。重い皮膚病を癒して、辛い生活から救い出されたのは主イエスであります。このサマリア人は、他の九人と同じように、ただ「わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げただけです。しかし、主イエスはこのサマリア人が主イエスのところへ戻って来て、神を賛美し、ひれ伏して感謝したことを見ておられて、そこにこの人の信仰をご覧になって、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのであります。
 
ということは、十人の人たちが重い皮膚病から解放されるだけであれば、それまでの生活とは全く違った、解放された社会生活に戻ったとしても、それだけでは、救われたことにはならないということであって、神様を賛美し、ひれ伏して感謝する生活を始めるのでなければ、救われたとは言えないし、本当の信仰を得たとは言えないということであります。このサマリア人は重い皮膚病を癒されることによって、本当の信仰へと生まれ変わらされたのであります。それは、元をただせば、このサマリア人の功績ではないし、彼の信仰が立派だったから癒されたということでもないのですが、主イエスは、彼が神様を賛美し、感謝の礼拝をしたことを、「あなたの信仰」と見做してくださったということであります。
 
主イエスは、私たちが苦しみの中で声を張り上げて憐みを乞う時に、それに応えてくださるお方であります。けれども、その主の恵みを賛美しひれ伏して感謝することがなければ、救いには至りません。心からの賛美と感謝を捧げることが出来たときに、それを信仰と見做してくださり、救いの喜びへと招き入れてくださるのであります。

結.立ち上がって、行きなさい――主の促し

主イエスはこのサマリア人に、「立ち上がって、行きなさい」と命じられました。この人は主イエスのところに留まるのではなくて、出かけて行くように命じられています。それは、出かけて行く先々で、神様を賛美し、感謝の礼拝を捧げるためでありましょう。その点では、他の九人とは全く違う生活であります。彼らも癒される前とは違った生活が出来るようになったかもしれませんが、神様との関係は一過性に終わってしまった可能性があります。それに比べて、このサマリア人は、主イエスに促されて立ち上がって、生涯にわたって、主を賛美し、感謝する生活を続けることが出来たのではないでしょうか。
 
私たちもまた、御言葉の癒しを受けたこの礼拝の場所、賛美と感謝の場所から、立ち上がって、この世の只中に出かけて行くように命じられます。そこには救われた者の証しの生活が待っています。
 
賛美と感謝の祈りをいたしましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたが、イスラエルの歴史の中で示してくださり、イエス・キリストによって成し遂げてくださり、教会の歴史の中で今も続けておられる大いなる救いの御業を覚えて、御名を賛美申し上げます。
 
今日また、私たちの状態を憐れんで、救いに導き入れようと、御言葉をもって私たちに出会ってくださり、あなたを心から賛美し感謝する本当の信仰へと招き入れてくださいますことを感謝いたします。
 どうか、賛美と感謝の礼拝を生涯続けることが出来る者とならせて下さい。どうかまた、立ち上がって、あなたの恵みの御業を証しする者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年10月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書17:11−19
 説教題:「
賛美と感謝の信仰」         説教リストに戻る