「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」   (ルカによる福音書17910

 主イエスの弟子たちは、主に従うことによって大きな働きが出来て、人々からも神からも大きな評価を受けることを期待していた。そんな弟子たちに主がまず言われたことは、「つまずきは避けられない」ということであった。自分でもつまずくし、他人をつまずかせてしまうのが私たちである。現に主イエスの弟子たちも十字架の主につまずいた。
 そんな弟子たちに対して主は更に、兄弟が罪を犯した場合に、悔い改めたなら無限に赦してやるように教えられた。これまた私たちにはとても出来ないことに思える。そこで弟子たちは、信仰の力が増せば、つまずいたり、他人をつまずかせることもなく、他人の罪を赦すことが出来るようになると思い、「わたしどもの信仰を増してください」と願った。しかし、主は「からし種一粒ほどの信仰があれば、どんなに深く根を降ろした桑の木でも動かすことが出来る」と言われた。私たちが信仰の修練を積んで立派な信仰の持ち主になれば、色々立派なことが出来るのではなくて、小さくても本物の信仰かどうかが大切だと教えられたのである。
 そこで思い起こさねばならないのは、私たちの度重なる罪を、主イエス自らの十字架の犠牲によって、神に赦していただけるようにされた、救いの御業である。私たちは御子イエス・キリストという高価な代償によって贖いとられて、神の僕(=奴隷、弟子のこと)とされたのである。従って、標記のように、僕は主人に仕えるのが当然であって、主人のところにいて働けることが喜びなのであって、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言って当たり前なのである。主の僕とされて、主と共にあることを喜ぶ、「からし種一粒ほどの」本当の信仰を与えられた者は、死の時が来れば、喜んで上記のように言って、永遠の眠りにつくことができるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年10月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書17:1−10 説教題:「取るに足りない僕」 説教リストに戻る