序.主の弟子の生き方を問う

共通聖書日課では、今日の箇所はルカによる福音書175節から10節となっていて、週報や教会ごよみの予告でもそのように記していたのですが、説教の準備をしている中で、1節から4節までを含めてお話しすることに変更させていただきました。というのは、5節で弟子が主イエスに「わたしどもの信仰を増してください」と言ったのは、1節から4節までの主イエスのお言葉を聞いて、弟子たちは自分たちの信仰の足りなさを感じたからであります。そこで、主イエスがどういう話をされたので、弟子たちは信仰の足りなさを感じたのか、そこから聞いて参りたいと思います。
 ところで、今日の箇所は、主イエスが弟子たちと一緒にエルサレムへ向かっておられる中での弟子たちとの会話であります。エルサレムでは主イエスを陥れようとする人たちが待ち構えています。主イエスは御自分が殺されることを既に弟子たちにも予告されておりました。ところが弟子たちは、主イエスが言われることに無理解でありました。彼らが主イエスに期待していることと、主イエスがこれからなそうとしておられることの間には大きな隔たりがあることが次第に明らかになって来ていました。はっきり言えば、弟子たちの不信仰が明らかになって来たのであります。そういう中で、主イエスは弟子たちが自らを省み、弟子としてどのような心構えを持つべきか、どのように生きるべきかを気づかせようとして語られたのが、今日の箇所であります。
 では、私たちはどうでしょうか。弟子たちに比べて、主イエスのことがよく分かっているのでしょうか。今のキリスト者は弟子たちが持っていなかった新約聖書を持っていまので、この後に起こる十字架や復活のことも知っています。しかし、主イエスの御心を本当に理解していると言えるのでしょうか。本当に確かな信仰を身につけているのか、神様に全てを委ねた信仰生活をしているのか、弟子として相応しい生き方をしているのでしょうか。そのことが問われます。
 
今日はまず、主イエスが弟子たちに語られたことを通して、弟子たちと共に、まずそのことを問い、自らを顧みることへと導かれます。そして、そのことから、主イエスが与えようとしておられる本当の恵みに気付くことへと招かれているのであります。

1.つまずきをもたらすな

主イエスはまず12節でこう言われています。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」
 「つまずきは避けられない」と言っておられます。ここで「つまずき」とは、どういうことを指しておられるのか分かりませんが、弟子たちが集団行動している中で、意見の違いや人間関係のもつれなどから起こるつまずきは避けられないかもしれません。教会の中においても、残念ながらつまずきを避けられないのが現実であります。しかし、後半の厳しいおっしゃり方からすると、単に弟子の間の人間的なトラブルによるつまずきではなさそうであります。主イエスが教えておられることに対するつまずき、主イエスの御業についての無理解ではないかと思われます。主イエスの言っておられること、なさっておられることをちゃんと受け止めていないことによるつまずきではないかと思われます。そして、信仰の共同体においては、人間同士の間のつまずきと主イエスに対するつまずきは繋がっています。主イエスの教えや御業に対する本質的な理解が曖昧であったり、きちっと受け止められていないと、人間的なちょっとしたことが信仰生活のつまずきに発展してしまうのであります。主イエスとの関係がしっかり結ばれていると、たとえ人間同士の間でトラブルがあっても、教会を離れたり、教会が分裂したりすることはないはずであります。
 
しかし、弟子たちの中、教会の中には、求道者を含め、主イエスとの関係がまだあいまいな人が必ずいるのであります。つまずきやすい人がいるのであります。主イエスがここで「小さい者」と言っておられるのは、そういう人のことではないでしょうか。けれども、そういう人たちを批判したり、軽蔑することは間違いであります。主イエスはここで、「つまずきをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」という厳しい言葉を語っておられます。つまずいた人に信仰上の弱さもあるかもしれませんが、つまずかせる人の方にもっと問題があるということであります。求道中の方々を導くにあたって、あるいは、信者の牧会をするにあたって、つまずかせていないか、ということを思わなければなりません。私たちはこの主イエスの言葉を、自分に向けられた厳しい言葉として真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

2.罪を犯した兄弟を赦せ

次に、主イエスは34節においてこう言っておられます。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 
ここでは兄弟が罪を犯した場合の対応について教えられています。この場合の罪というのは、神様に対する罪や、他人に対する罪や、信仰共同体に対する罪もあるかもしれませんが、後半に「あなたに対して罪を犯しても」という言葉がありますから、自分に対して誰かが罪を犯した場合のことと考えてよいでしょう。
 まず、「戒めなさい」と言われています。罪を犯しそうになっている段階から、その人が罪を犯さないよう気遣いなさいということです。私たちはすぐに相手を批判してしまいます。口に出さなくても心の中で批判していると、それは相手に伝わってしまいます。そうすると相手もむきになって、自分の正しさを主張して、自分の問題点を省みることをしなくなってしまいます。自分の過ちに気付かないことは、相手を傷つけるだけでなくて、神様に対して罪を犯してしまうことになります。だから、罪を犯さないように、戒める必要があります。しかし、それでも罪を犯してしまった場合は、悔い改めに導くということであります。あんな奴は駄目だと突き放したり、絶交するのでなくて、悔い改めに導く努力をして、幸い、悔い改めが見えたなら、赦してやりなさい、と言われます。しかも、一日に七回自分に対して罪を犯しても、七回悔い改めたなら、赦してやりなさい、と言われるのであります。無制限に赦しなさいと言われているのと同じです。一、二回であれば、相手が心から悔い改めている様子なら、赦すことができるかもしれません。しかし、それ以上になると、本気で悔い改めているのだろうかと疑ってしまって、赦す気にはなれないでしょう。この主イエスの言葉はとても厳しいものです。自分には出来ないだろうと思わざるを得ません。そこでまず思い起こさなければならないのが自分の罪であります。私たちは他人の罪については厳しいのですが、自分が相手をどれほど傷つけ、どれほどの罪を犯しているのか、そのことで神様の御心をどれだけ痛めているかを考えようとせず、自分の正しさばかりを主張いたします。そこに、神様に対する大きな罪があります。自分の罪に気付かず、悔い改めのないところでは、神様の大きな赦しの愛が忘れ去られています。「悔い改めれば、赦してやりなさい」という主の御言葉によってまず気付かなければならないことは、人と神様に対する自分の罪であります。他人を無制限に赦すなどということは、その前にまず、神様が自分の罪をどれほど無制限に赦してくださったかを思い起こさなければ出来ないことです。そこで問わざるを得ないのが、自分の信仰であります。自分が神様によって罪を赦されたことを本当に信じて、感謝しているかどうかが問われることになります。

3.からし種一粒ほどの信仰があれば

弟子たちも、主イエスの言葉を聞いて、自分の信仰の足りなさを感じたのでしょう。そこで5節にあるように、「わたしどもの信仰を増してください」と言いました。ところが、これに対する主イエスの言葉はこうでした。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」――これはどういうことでしょう。弟子たちは自分の信仰が足りないことに気づき始めました。そして、素直な気持ちで、もっと大きい信仰、もっと強い信仰にしてほしいと思いました。ところが、主イエスがからし種の譬えをもって言われたことは、信仰は大小の問題ではないということです。信仰をもっているかどうかが問題であって、信仰が本物であるなら、その信仰によって、不可能と思えることでも可能になる、とおっしゃるのであります。信仰とは何かを成し遂げる自分の精神力のようなもののことではありません。他人を赦すということについても、信仰による忍耐力のようなことを考えたのかもしれません。しかし、信仰とは自分の能力の一種ではありません。神様を信じ切ることであります。神様が不可能と思えることをさえしてくださることを信じることです。罪を赦すということについて言えば、それは私たちが寛大な心になることではありません。神様が御子イエス・キリストの命を差し出してまでして、私たちの度重なる罪を赦してくださった、その神様の愛をもって、自分に対して罪を犯す者にも向き合ってくださることを本気で信じること、それが信仰ということであります。そこには信仰の大小はありません。ただ、神様の赦しの愛を信じるかどうかということだけであります。自分のような罪人を赦してくださったのだから、神様はあの人も赦してくださるはずだ、という信仰へと導かれることから、私たちが人を赦すことも可能となるのであります。しかし、そこで必要なのは、からし種一粒ほどの本物の信仰で、それさえあれば十分なのであります。

4.命じられたことを果たしたからといって

このあと主イエスは7節以下で、もう一つの譬えをもって、本当の信仰を与えられた者の姿を示されます。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。」――これは当時の主人と奴隷の関係を表わしています。奴隷は四六時中、主人に仕えなければなりません。奴隷が一日中働いて疲れて帰って来たとしても、すぐ食事を摂ることは許されず、主人の食事の世話をしなければなりません。それが当然であります。ここで主イエスがそういう奴隷制度を容認しておられるということではありません。当時の現実の姿を借りて、話をされているだけであります。では、この譬えで主イエスは何を言おうとされたのでしょうか。それは神様と私たちの関係であります。神様は、この譬えで描かれている主人のように、私たちを支配しておられる主権者であります。私たちは、その神に仕える僕(奴隷)の立場であります。
 続けて9節以下で、こう言われています。「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」――奴隷は命じられたことをしたからといって、主人が報酬を与えたり、感謝をすることはありません。奴隷はただ生かしていただいて、働かせてもらえることを喜ばねばなりません。神様と私たちの関係もこれと同じであると言われるのです。私たちは神様のために仕えることによって、見返りを期待いたします。私たちが神様のために、また人のために善い働きをすれば、その報酬として、幸せな人生を与えられたり、神の国に入れてもらえると期待をいたします。しかし、この譬えで語られていることは、キリスト者は神様の奴隷であって、神様に生かされていること自体が恵みであって、ただ命じられたことを、当然のこととしてするだけだということであります。そのことをしっかりと弁えることが、本当の信仰を持つということなのであります。
 けれども、こういう教えを聞くと、キリスト者になるということは、奴隷のように何の自由もなく、ただ命じられたことをコツコツとこなすだけの、喜びも希望もない人生を歩むことなのか、と失望されるかもしれません。求道者の方がお聞きになれば、そんなことなら、クリスチャンなんかになりたくないと思われるかもしれません。
 
しかし、私たちが神様の奴隷であるという所だけを聞いて、神様の大きな恵みのことを忘れてしまっては間違いです。そもそも私たちはどのようにして神様の僕(奴隷)にならせていただいたのかということを思い起こさなければなりません。――もともと、私たちは神様に創造された者であります。しかも、神様と善い関係にある者、心を通い合わせることが出来る者として造られました。しかし、私たちは神様の御心に反して、神様を信じることが出来なくなり、神様の言葉に従わず、勝手なことをしてしまうという罪を犯してしまいました。私たちの方から神様との良い関係を壊してしまったのであります。そして、サタンの奴隷になってしまったのであります。神様はそのような私たちを憐れんで、御子イエス・キリストを遣わしてくださって、十字架の救いの御業をしてくださいました。主イエスの十字架は、サタンの奴隷になっている私たちを贖って、神様のもとへと買い戻してくださる御業でありました。そうして、私たちはもう一度神様の僕とされたのであります。そこには神様の無限の愛があります。この神様の愛のもとに生きることが、サタンから解放された本当の意味の自由であり、喜びであります。この恵みの御業を思い起こさなければなりません。ですから、主人である神様にお仕えして働くことは、神様の恵みに応えることであり、神様に対する感謝から出て来る喜びの奉仕であります。神様に仕える奉仕の働きには、色々なことがあるでしょう。伝道の働き、教会の運営に関わる奉仕、困っている隣人を助ける奉仕などが考えられますが、今日の箇所の文脈で言うなら、自分に対して罪を犯した人が悔い改めたなら赦すということであります。そんなことが、神様に仕える奉仕になるのか、と思われるかもしれませんが、キリスト者が赦しによって問題を解決する有様は、キリストの愛を伝える大きな証しになります。神の赦しの愛を知っている者でないと出来ないことだからです。しかし、キリストによって罪を赦されたことを知っている者にはそれが出来ます。それが本当の信仰を与えられた者に出来ることであり、それは、何も大きな信仰でなくても、からし種一粒ほどの本物の信仰によって出来ることなのであります。

結.「わたしは取るに足りない僕です」

今日は、主イエスの弟子たる者のあり方・生き方について、主の御言葉を聴きました。弟子たちは主イエスに従うことによって、大きな働きが出来て、人々からも神様からも大きな評価を受けることを期待しておりました。しかし、主イエスが最初に言われたことは、「つまずきは避けられない」ということでありました。自分でもつまずくし、他人をつまずかせてしまうのが弟子たちであり、私たちであります。現に、主イエスの弟子たちも、十字架の主イエスにつまずいてしまいましたし、私たちも十字架の主イエスについて行くことをためらったり、避けたりしてしまうのであります。
 そんな弟子たちに対して主イエスは更に、兄弟の罪を無限に赦してやるように教えられました。これまた、私たちにはとても出来ないことのように思えます。そこで弟子たちは、「わたしどもの信仰を増してください」と主イエスにお願いしました。信仰の力が増せば、つまずいたり、他人をつまずかせることもなくなるし、他人の罪を赦すことができるようになると思いました。しかし、主イエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、どんなに深く根を降ろした桑の木も動かすことが出来る」とおっしゃいました。私たちが信仰の修練を積んで、立派な信仰者になれば、色々な立派なことが出来るのではなくて、小さくても本物の信仰かどうかが大切なことだと教えられました。そこで思い起こさなければならないのは、主イエスが私たちの度重なる罪を自らの犠牲によって赦してくださったという救いの出来事でありました。弟子たちがそのことに気付いたのは、主イエスの十字架と復活の出来事の後になってからでありましたし、私たちもそのことを忘れがちです。でも、私たちはこうして、神様に贖いとられて僕とされた(弟子とされた)のであります。ですから、神様のために仕えることは当然であり、そのことが喜びとなるのであって、弟子たる者は、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言って当たり前だと言われるのであります。
 加藤常昭先生はこの箇所の説教の冒頭で、スウェーデンのルター派の教会の指導者であるゼーデルブルームという人が、生前に自分の墓碑銘を決めていて、それは、今日の箇所の最後にある「わたしは取るに足りない僕」という言葉であったということを紹介しながら、自分がこの言葉を墓碑銘として選べるであろうかという問いを抱いたということを述べておられます。これは謙遜な言葉ではありますが、主イエスに仕え切ったという満足をもあらわす言葉でもあると思います。私たちは、とてもそんな境地にはなれないのではないか、という思いがいたします。しかし、ここで主イエスが私たちに伝えようとしておられることは、<神様があなたがたを買い取ってくださって僕としてくださったのだから、神様の許でなすべきことは全部させてくださる。だから、あなたがたは、「自分に命じられたことをみな果たしました」と言えるし、「取るに足りない僕です。しなければならあにことをしただけです」と言って、永遠の眠りにつけるのだよ>ということではないでしょうか。ですから私たちは自分の墓碑銘に、「わたしは取るに足りない僕」と書いてよいのです。からし種の信仰さえあれば、神様は私たちをこのような僕として生かして用いてくださり、私たちの思いを超えた働きをさせてくださるということであります。
 感謝して祈りましょう。

祈  り

私たちを僕として召してくださる、父なる神様!
 
他人を赦すことが出来ないばかりか、つまずかせることのみ多く、あなたを証しすることの出来ない不信仰な者でございますが、そのような者をも用いて、御心にかなう働きをさせてくださる恵みを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、取るに足りない者でございますが、残された人生を、あなたの僕として仕え切ることができるように、導いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年10月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書17:1−10
 説教題:「
取るに足りない僕」         説教リストに戻る