序.私たちは神の富の管理人

毎月一回、ペトロの手紙から御言葉を聴いておりますが、8月に聴いた箇所の中にこういう言葉がありました。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」(Tペトロ4:10)。つまり、キリスト者というのは、「神の恵みの管理者」だと言われているのであります。「神の恵みの管理人」とはどういう意味だったでしょうか。――それは、キリスト者は神様から大きな恵みの賜物を授かっていて、それを生かして用いる役目を与えられている、ということでありました。その恵みの賜物とは、数々の恵みもあるでしょうが、何と言ってもその中心は、〈主イエスの十字架による罪の赦し〉という救いの恵みを、他ならぬ自分にも与えられたということであります。
 
今日与えられているルカ福音書の16章の譬えでも、「ある金持ちに一人の管理人がいた」という出だしで、「管理人」が登場いたします。この「管理人」とは、ペトロの手紙で言う「神の恵みの管理者」であるキリスト者のことを表わしていると言ってよいでしょう。そして、その「管理人」が仕えている金持ちの主人というのは、父なる神様のことを表わしています。「管理人」は神様の恵みという財産を預かって、それを生かして用いる役目を与えられているのであります。
 
さて、今日の譬えでは、この管理人が極めて不正なことをするのでありますが、主イエスはこの譬えの8節で、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と語られるのであります。なぜ、この不正な管理人がほめられるのか、私たちは大変理解に苦しむのでありますが、主イエスがこの譬えを通して私たちに語ろうとしておられることは、神の恵みの管理者としてのキリスト者は、この不正な管理人を見習え、ということであります。この不正な管理人のどこを見習えと言っておられるのでしょうか。大変解釈の難しい箇所ですが、これを聴き取るのが今日のポイントであります。
 
先程朗読していただいたコヘレトの手紙5章の12節には、こんな言葉がありました。「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。」――これは、神様から預かっている富の管理が悪いために、富の持ち主である神様が損をしておられる、ということが語られているのであります。私たち「神の恵みの管理者」が恵みの富をうまく管理していないということであります。では、どうすることが、「神の恵みの管理者」に相応しいことなのか、そのことを今日の主イエスの譬えから聴き取らなくてはなりません。8節で「不正な管理人」がほめられたのは、「抜け目のないやり方」でありました。この譬えを通して学ぶべき「抜け目のなさ」とはどういうことなのか。そのことを今日は聴き取って、私たちもまた「抜け目のない」「神の恵みの管理者」にならせていただきたいと思います。

1.神の富の管理人の問題点

さて、譬えを見て参りますが、まず1節では、この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった、とあります。財産の管理人の任務というのは、一つには財産が損なわれないように大切に守るということがあるでしょうが、それだけではなくて、主人の財産を有効に生かして、更に財産を増やすということでしょう。主イエスの他の譬えで、「タラントンの譬え」というのがありますが、その譬えでは、主人が僕たちに自分の財産を預けて旅に出るのですが、一人には一タラントン、一人には二タラントン、もう一人には五タラントンを預けますが、五タラントンを預かった者と、二タラントンを預かった者は、それを生かして倍にしたのですが、一タラントンを預かった者は、それを穴の中に隠していたという話です。旅から帰って来た主人は、三人と清算するのですが、倍にした二人には「忠実な良い僕だ」と言って、更に多くのものを管理させるのですが、タラントンを地に中に隠しておいた僕は、その働きが悪かったので、その一タラントンまでも取り上げられてしまうのであります。つまり、主人の財産の管理者がすべきことは、主人の財産を単にそのまま守るということではなくて増やすことであります。ところが今日の譬えの管理人は、主人の財産を増やすどころか、無駄使いしたというのであります。それは、必要な支払を切り詰めないで無駄にしたということなのか、自分のために用いるというような不正を働いたのか、詳しくは述べられていませんが、ともかく、主人の財産を増やすどころか、減らしてしまったということで、管理人としての役目を果たさなかったということであります。
 
このことは、この譬えで語ろうとしておられることの中心部分ではありませんが、「神の恵みの管理者」としての私たちの姿を現していると言えるのではないかと思います。つまり、先程触れた「タラントンの譬え」の一タラントンを地の中に隠していた僕よりも始末の悪い管理者が私たちではないか、ということであります。私たちは神様から預かった恵みの賜物を活かすどころか、無駄使いして、擦り減らしているのではないでしょうか。救われた恵みを周囲に分かって、恵みを増やすどころか、恵みを感謝することさえ忘れていないか。罪が赦されて神様との関係が回復されたのに、神様との間がまた疎遠になってしまっていないか、ということが問われているように思います。
 
さて、譬えでは、無駄遣いの告げ口を受けた主人は管理人を呼びつけて言います。「おお前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」――「会計報告を出しなさい」とは、私たちが神様から預かった恵みが如何に活かされたかということを示す報告書を、神様に提出する時が来る、ということであります。そうなると、帳尻があっていないばかりか、大きな欠損が出ていることが明らかになってしまいます。神様の恵みの賜物が目減りしてしまっていることがはっきりいたします。神の恵みの管理者としては、完全に失格であります。
 主人の通告を受けた管理人は考えました。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」――私たちにとって、管理の仕事を取り上げられるとは、神様によって与えられた恵みの座から放り出されるということ、神の国から締め出されるということであります。私たちは神の国から放り出されても生きて行けるのでしょうか。神様との関係が断たれたとしても、これまでの人生経験があるし、それなりの蓄積もあるし、この世での生き方くらいは心得ていると、どこかで思っているのではないでしょうか。本当にそうでしょうか。この譬えの管理人は、「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」と、自分の無力を認めています。自分の力をよく知っています。それに比べると、私たちは少々傲慢ではないでしょうか。神様の恵みを受けてこそ、ここまで何とか生きて来ることが出来たということの自覚に乏しいのではないでしょうか。私たちは本来ならば、ずっと前に滅んでいて当然であったのに、今まで守られて来たことを思い起こすべきであります。そして、人生の収支報告書を神様に出さなければならない時が来ることに対しての危機感を抱くべきであります。

2.管理人の抜け目のないやり方

そのような危機感の乏しい私たちと違って、この譬えの管理人は強い危機感をもって、必死で対処方法を考えます。そして、考え付きます。4節以下ですが、「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分の家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と考えます。そこで、主人に借りのある者を呼び出して、証文に書かれている借り入れの量の書き直しをさせることによって、恩義を売るのであります。そうしておけば、自分が管理人を辞めさせられた時に、その人たちが恩義を感じて自分を迎えてくれるだろう、というのであります。自分の地位を悪用した、ずる賢いやり方であります。
 
ところが、8節によると、主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている、と言われています。不思議な主人であります。管理人は明らかに主人に損失を負わせているのであります。「不正な管理人」と言われているように、管理人のしていることは正しいことではありません。それなのに主人は「ほめた」と言われています。また、「光の子ら」、すなわちキリスト者よりも「賢くふるまっている」と言われています。どこがほめられ、どこが賢いのでしょうか。
 
第一は、この管理人の考えていること、またやったことの後ろには、先程見たように、はっきりとした危機感があるということであります。私たちが、終わりの日の裁きに対する切迫感に乏しいのに対して、管理人は辞めさせられた時のことを真剣に考えて、そのための対策を考えて、今の自分に出来ることを直ちに行動に移しています。私たちもまた、終わりの日に主の前に立たなければならないということを真剣に捉えて、残された生涯におけるすべての行動をその観点から決めるべきであります。それがこの譬えから学ぶべき第一のことであります。
 
第二は、この管理人は今の自分の立場を最大限に活かしています。やっていることは不正なことです。主人に損失を及ぼすことです。そのことを見倣えというわけではありません。ポイントは今の自分に出来ることをしっかりと見据えて、それを実行したということです。そこに、この管理人の抜け目なさがあり、賢さがあります。私たちも神様から多くの賜物をいただいています。能力、立場、環境、それに何よりも神様とのつながり、そして聖書の御言葉があります。それを活かせば、神の国に留まるために出来ることが沢山ある筈です。しかし、それらの賜物を活かし切っていないのではないでしょうか。その点で私たちには抜け目なさや賢さが足りないと言われているのであります。神様から与えられているものが、どれほど大きくて豊かであるかを、もう一度思い起こして、抜け目なく行動に移すべきであります。
 
第三に注目すべきは、8節で「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と、仲間との関係を良くしたことが強調されていて、9節でも、そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさいと、良い人間関係を築くことが勧められています。ここで、仲間とか友達と言われているのは、もともと親しい関係にあるとか、利害が一致している友人であるよりは、譬えでは主人に借りがあるような、困っている人たち、助けを必要としている人たちであります。そういう人たちに助けの手を差し伸べることが、神の国に留まることにつながる、ということではないでしょうか。主イエスは別に、こんな譬えも話されました。主イエスが栄光の座に着かれる時に、右側にいる人に、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われるのです。するとその人たちは、「いつそのようなことをしたでしょうか」と言いますと、主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるのであります。(マタイ25:3140)これと同じことが、ここでも言われているのではないでしょうか。困っている人、助けを必要としている人に、自分が出来ることでもって手を差し伸べることが、友達を作ることになり、そのことを主イエスが喜ばれるのであります。9節の後半では、そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる、と言われています。この譬えの管理人自身は、もともとお金を持っているわけではありません。主人の財産を預かっていたに過ぎません。私たちも同様に、もともと自分の力量で豊かなものを持っているのではなくて、全て神様から預かった賜物であります。それは、間違ったら奪い去られるものであります。しかし、それを、隣人のために使うならば、永遠の住まいに入れてもられることにつながるのであります。

3.二人の主人に仕えることはできない

10節以下は、「富」についての教えが述べられています。この部分は、元々は別の記事であったものを付け加えたのではないかと考えられています。それをなぜ加えたかと申しますと、9節で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という勧めが出て来て、富について不正な用い方をすることが奨励されているかのような誤解を与えかねないからであります。
 そもそも、富とかお金というもの、それ自体は善い物でも悪いものでもありません。しかし、多くの富やお金を持つことは、人間の欲望を満たすことにつながりますので、誰でも富やお金を沢山持ちたがることになって、そこに様々な争いが生じたり、何が大切かということを見失ったりすることになります。富やお金は手段に過ぎないのですけれど、それを多く持つことが目的になってしまいがちです。そして、いつのまにか富やお金の奴隷になってしまうのであります。
 10節から12節で、こう言われています。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。――ここで「ごく小さな事」というのは、「この世の富」と考えてよいでしょう。それはお金のことだけではありません。才能とか学歴とか地位や名誉も、また健康もこの世の富であります。そうしたものは、お金と同様、それ自体が悪いものではありませんが、それを沢山持つことが目的化するとおかしなことになります。では、反対に「大きな事」とは何でしょうか。それは、「神の国のこと」であります。これが本来の目的であります。その「神に国のこと」のために、不正にまみれた富であろうと、他人のものであろうと、総動員しなさい、ということでありましょう。
 
1314節を見ますと、こう言われています。どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。――これは福音書の他の箇所にも出て来る、主イエスの大切な教えであります。今日の箇所の譬えでも、このことを忘れてはいけないし、誤解してはいけないので、ここに付け加えたのでありましょう。「この世の富」も大いに利用しなくてはなりません。しかし、大事なのは神に仕えることであります。
 しかし、今日の箇所の譬えで、誤解を恐れず教えられていることは、管理人が、ここで言われている「小さな事」、「この世の富」について抜け目なく、賢くふるまったことを主人である神様がほめられた、ということであって、「小さな事」に忠実でなければ、「大きい事」をも任せられないということであります。言い換えれば、最も「大きな事」である「神の国のこと」を成し遂げるためには、「小さい事」である「この世の富」にも忠実であり、熱意をもって取り組まなければならないということであります。私たちが神様から預かっている様々の賜物――財産をはじめ、様々能力、立場、それらを最大限に活かして、終わりの日に神の国に入れるように備えなさい、ということであります。

結.光の子として賢くふるまえ

最後に、もう一度8節の言葉を聴きましょう。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」――この言葉をもって、主イエスは私たちに不正を働くことを奨励しておられるのでないことは明らかです。主イエスはこの譬えをもって、私たちが終わりの日に向けて、この不正な管理人ほど切迫感をもっているか、ということを厳しく問われているのであります。私たちに残されている地上の歩みの日々は限られています。私たちに与えられた賜物を最大限に活用して、その日のために備えるべきであります。ここで、「この世の子ら」と「光の子ら」が対比されています。そして、「この世の子ら」が不正なやり方ではあるけれども、自分の仲間に対して賢くふるまっているのに対して、光の子の真剣さと賢さが足りないことを指摘しておられます。これも、私たちに対する鋭い指摘であります。
 しかし、私たちはこのような厳しい問いと指摘の中に込められている主イエスの愛の御心を聴き取らなければなりません。主イエスはあくまでも弟子たちを、そして私たちを「光の子」と見ていてくださっているということであります。終わりの日に救いに入れよう、神の国に入れようとなさっているということであります。そして、「光の子」として、もっと徹底しなさい、そのために必要な賜物は十分に備えられているし、その賜物を活かして用いるべき仲間もいる、とおっしゃっているのであります。それらを活かせば、あなたがたは必ず「永遠の住まい」である神の国に迎え入れられる、と約束しておられるのであります。その主の御心を感謝して受け止めたいと思います。そして、今日から、残された生涯の日々を、光の子として賢く生きて参りたいと思います。祈りましょう。

祈  り

光の源である主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちを光の子として扱ってくださり、神の国に招き入れようと、今日も御言葉をいただくことが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちは、あなたが賜わった様々な富を活かすことをせず、中途半端に日々を生きてしまっております。どうか、お赦しください。
 
どうか、光の子として、備えられた賜物と仲間を活かして、残された地上の歩みを賢く生きる者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年9月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書16:1−13
 説教題:「
神の富の管理人」         説教リストに戻る