あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
                        (ペトロの手紙一41213 

 キリスト者がこの世で生活するときに、苦しい思いをしなければならないことがあることは、ある程度理解できるが、大きな困難に遭遇すると、なぜこんな目に遭わねばならないのかと信仰が萎えそうになることがあるかもしれない。だが、聖書はそれを、標記のように、神の「試練」だとし、「驚き怪しんではなりません」と言う。なぜか。それは「キリストの苦しみにあずかる」ことだからである。キリストは私たちの罪のために十字架の苦難を負われた。私たちが苦難に遭うと、このキリストの犠牲の愛に触れ、共有することができるので、喜びにつながるのである。それは、終末において現れるキリストの栄光を先取りすることでもあるのだ。
 だが聖書は続けて、自分の方に問題があったり、至らなさがあって、周囲の人々から批判を受けたり、人間関係がうまく行かなくなった時に、それをキリストのための苦しみだと勘違いしないように警告する。主イエスの受けられた苦しみに重なっているかどうかを吟味して、重なっているようであれば、決して恥じることはないと言う。
 ところが聖書は更に、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と語る。つまり、教会の中にこそ、問題があり、神はそこから裁きを始められるというのだ。しかしそれは、裏返せば、神は教会をこそ大切に愛しておられ、何よりも先にそこから救いを実現しようとしておられることの表れではないだろうか。神の裁きは、救いの業と表裏一体の恵みの業なのだ。
 最後に聖書は、「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と勧める。神がその御心によって、キリストの苦しみの中に導き入れてくださるのであるから、そこでは不安も伴うかもしれないが、神の救いを信じて、神にすべてをゆだねて、「善い行い」即ち、キリストの苦しみを担い続けたらよいのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年9月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 4:12−19 説教題:「試練を喜べ」 説教リストに戻る