序.苦しみを喜べるか

毎月1回、ペトロの手紙から御言葉を聴いて来ております。これまでにも何度か申し上げて来たことですが、この手紙の宛先は小アジアの教会の人々でありまして、彼らは異教社会の中にあって、キリスト者に対する迫害などの苦難を受けて、試練の中にあるのであります。ペトロがこの手紙を書いた目的は、そうした試練の中にある人たちを励ますためでありまして、初めの1章から、試練のことが述べられて来ておりました。1章7節ではこう書かれていました。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」――このように、今は苦難が多いかもしれないけれど、試練を通して信仰が本物であることが証明されて、キリストが現れる終末には大きな光栄を受けることになる、と言っておりました。
 しかし、そうは言われても、苦難が続く中で、なぜ何時までもこんな目に遭わなければならないのだろうか、いっそ信仰を捨てた方が楽なのではないか、といった思いが込み上げて来るようなことがあったのではないかと思われます。
 
そんな読者に向かってペトロは、今日の箇所の冒頭で改めて、愛する人たち、と呼びかけながら、こう言っております。あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。――信仰を持つことによって苦難を受けるのは、思いがけないこと、驚き怪しむことではなくて、むしろ必然的なもの、当然のことであって、むしろ、キリストの苦しみにあずかるほど喜びなさい、と言うのであります。
 しかし、皆様はこの言葉をどのように受け止められるでしょうか。信仰には苦難が伴うということは、経験的にご理解いただけることかもしれません。現代の日本では、この手紙の時代のような迫害を受けたり、命を狙われるということはないにしても、信仰をもってこの世で生活しますと、周囲の人々からどうしても違和感をもって見られるということが起こります。家庭生活や職場での営みに何か満たされないものがあるのではないかとか、精神的にどこか弱い面があるのではないかと疑われたり、周囲の人たちが普通にしていることや大事にしていることを同じようにやれなくて、浮世離れしているように見られたり、時には批難されたりする。周囲の人に問題がある場合はまだしも、周囲の人が善意の人たちで、世間的には何の問題もないような生き方をしている場合には、大変肩身が狭い思いを抱いてしまいます。しかし、信仰を持つということは、持たない人とでは何を大切にするかという点で、どうしても一致出来ないことが出て来てしまいます。そこで人間関係に亀裂が生じたり、冷遇されたりして、苦難が生じてしまいます。ですから、信仰を持つことに苦難が伴うということは、ある程度理解出来ます。しかし、ここで「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と言われていることは、大変理解に苦しむところであります。なぜ、苦しみが喜びとなるのか。苦しみにあずかればあずかるほど、そこから離れたくなるのが普通で、そこに喜びなど見出せるのだろうか。信仰を持つことの喜びがあるとしても、それは苦しみとは別のところにあるのであって、その喜びを確保するために、やむを得ず苦しみにも耐えるしかないということなのではないのか。――そのように、私たちは苦難や試練を、あってほしくないもの、避けたいものと考えてしまうのであります。しかし、聖書は、苦難が喜びに結びついているというのです。どういうことなのでしょうか。今日は、この苦難と喜びの関係について、与えられた箇所から御言葉を聴き取ることによって、私たちも喜びに満たされたいと思うのであります。

1.キリストの苦しみにあずかる喜び1214節)

まず、12節をもう一度よく見ますと、ここには「苦難」とか「苦しむ」という言葉はなくて、「試みる」とか「試練」という言葉が使われています。「苦難」と「試練」とはどう違うのでしょうか。小アジアの教会の人が苦しんでいるという状況自体は「苦難」と呼んでも「試練」と呼んでも同じです。違うのは、「試練」という言葉の後ろには、神様の御意志に基づく苦難という理解が込められています。つまり、キリスト者が受けている苦難は、神様の御心に反して起こっているのではなくて、その背後に、本物の信仰を与えようとしておられる神様の御意志が働いているということであります。苦難の中には自業自得のような、自分に問題があることによる苦しみもあるかもしれませんが、信仰の試練というのは、先程見た17節でも述べられていたように、本物の信仰へと精錬するためのものである、ということであります。ですから、試練としての苦難は恵みなのであります。
 次に、13節ですが、ここでは「苦しみ」という言葉が出て来るのですが、単なる「苦しみ」ではなくて、「キリストの苦しみ」と言われています。キリストと無関係の苦難ではなくて、キリストが受けられた苦しみであります。主イエスがその御生涯の中で受けられた苦しみ、そして十字架の上で受けられた苦しみであります。その主イエスの受けられた苦しみとは、何のための苦しみですか。それは私たちが罪の結果として受けるべき裁きを、代わって担われた苦しみではありませんか。死すべき私たちに代わって死んでくださったのではありませんか。そこには主イエスの大きな犠牲の愛があります。――私たちキリスト者が受ける苦難というのは、その主イエスの苦しみの一端に担うということなのであります。ということは、主イエスの大きな愛に直に触れるということであります。もちろん、主イエスが受けられた十字架の苦しみと、私たち信仰者が受ける苦難との間には、その大きさにおいて違いがあるだけでなく、質的にも、主イエスは罪がないのに受けられた苦しみであるのに対して、私たちは罪人として当然受けるべき苦しみがあるという違いがありますが、それにしても、ここで言われている「キリストの苦しみ」とは、主イエスの苦しみに共にあずかるということであり、主イエスと一体になるということであります。それはとても光栄なことであり、主イエスの愛に直接触れさせていただけるという、喜びに満ちたことではないでしょうか。
 13節の後半には、「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」とも書かれています。これはキリストがもう一度私たちの所に現れてくださる終末の時のことを言っています。キリストの苦しみに共にあずかることは、現在においても喜ばしく、光栄なことですが、キリストが栄光を持って来られる再臨の時には、喜びが絶頂に達する、ということを言っているのであります。今、キリスト者として生きることは、キリストの苦しみを共に担う喜びであり、そこには人間的な苦しみも伴わざるを得ませんが、終わりの日の喜びは、全ての苦難から解放される喜びであります。その喜びに満たされることが、キリストの苦しみにあずかることの先に保証されているということであります。
 
14節は、同じ趣旨のことを別の表現で語っています。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。――ここでは、キリストの苦しみにあずかるということが、「キリストの名のために非難される」と言い換えられ、「喜び」ということが「幸い」と言い換えられています。そして、その「幸い」の中身が「栄光の霊、すなわち神の霊」、言い換えれば、聖霊が、私たちの上にとどまってくださることとして語られています。聖霊が私たちの上にとどまるということは、何か私たちが夢見心地のようになったり、特別な力を与えられることのように想像するかもしれませんが、ここでは「キリストの名のために非難されること、キリストと共に苦しむことによって与えられる喜びや幸いと結び付けられていることに注目しなければなりません。キリストの苦しみの一端を担うことが、聖霊の働きであり、神様の恵みの導きを受けるということであります。

2.恥じることのない苦しみ1516節)

ここまで述べられて来たことは、キリストの苦しみにあずかる喜び、幸いのことでありましたが、そこでの苦しみとは、あくまでも「キリストの苦しみ」ということであって、苦しみなら何でもよいということではありません。そこで15節ではこう述べられています。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。――ここにはいきなり、人殺し、泥棒などという犯罪行為が挙げられていて、違和感があります。当時の小アジアのキリスト者の中にはこんなことをした人がいたのだろうかと思ってしまいます。しかし、私たちはここで立ち止まって、自分が本当にこのような犯罪行為と無縁だと言えるのかどうかということを見つめ直す必要があるのではないでしょうか。主イエスは山上の説教の中で、こう言われました。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:2122)つまり、人に「ばか」とか「愚か者」と言ってののしることは、その人を殺すのと同じことだと言われたのであります。私たちは平気で人の人格を損なうようなことをしてしまっているのではないでしょうか。「泥棒」ということについても、実際に他人の物を盗むということはなかったとしても、自分の利益や欲望を満たすために、他人に迷惑を及ぼしていることがないかということを思い巡らす必要があります。「悪者」と言われていることも同様です。もう一つの「他人に干渉する者」という言葉はここにしか出て来ない言葉ですが、その意味は、自分の基準に他者を従わせようとする者、他人を支配しようとする者ではないかと言われています。そういうことであれば、私たちが犯してしまいがちなことであります。こうしたことで、自分の方に問題があったり、至らなさがあって、周囲の人々から批判を受けたり、人間関係がうまく行かなくなった時に、それをキリストのための苦しみだと勘違いしないようにしなければならないということです。それは、13節で「キリストの苦しみ」と言っていたこととは全く別物だ、ということであります。
 しかし、16節にあるように、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい、と言われています。ポイントは、本当にキリスト者としての苦しみかどうか、主イエスの受けられた苦しみと重なっているかどうか、という点であります。もし本当にキリストの苦しみに重なっているのであれば、決して恥じることはないし、キリストの名のために苦しんだのですから、大いに喜んでよいし、神様の恵みを心からあがめることが出来るのであります。

3.神の家から裁きが始まる1718節)

ところが、次の17節前半では、再び厳しい言葉に出会わなければなりません。今こそ、神の家から裁きが始まる時です、と言われています。「神の家」とは、旧約においては神殿のことであり、イスラエルの民を指していて、裁きは神の家から始まるという思想は預言書の中に見られるものであります。ここでは「神の家」とは教会のことであり、私たちキリスト者のことであると受け取るべきでしょう。私たちは自分たちの中にある問題点や過ち・罪を棚に上げて、自分たちが受ける苦難を周囲の異教社会の所為にしてしまいがちであります。しかし、神様により近い筈のキリスト者や教会の中にこそ問題があるのであって、神様はまずそこから裁きを始められるということでしょう。
 
しかしそれは、裏返して考えれば、神様は神の家をこそ大切にしておられ、愛しておられ、何よりも先に罪からの救いを実現しなければならないと考えておられるということではないでしょうか。神様の裁きというのは、単純に切り捨てるということではありません。神様は私たちを裁く代わりに、愛する独り子を裁かれました。そして、神様の裁きに耐えることが出来ない者たちが、イエス・キリストを信じることによって救われる道を開いてくださいました。神様の裁きというのは、そのように愛のこもったものであり、救いの御業と表裏一体のものであります。裁きも恵みの業であります。
 
だからと言って、私たちは堂々と大手を振って、救いに入るのではありません。あくまでも、神様の恵みによって、主イエスの十字架の犠牲の故に、かろうじて救われるのであります。それは、キリスト者として「神の家」の一員として、キリストの苦しみの一端にあずかっているからこそ受けることの出来る恵みであります。だから、キリスト者の受ける苦難は喜ぶべきことなのであります。
 
もう一つ注目すべきは、「今こそ、神の家から裁きが始まる時」と「今」の時が強調されていることです。キリストの苦しみにあずかっている「今こそ」であります。キリスト者としての苦難の中にある時、あるいはキリスト者になろうとして、この世の事柄との板挟みの中で悩んでいる時、その今こそ、神の家の裁きが始まる時、救いの御業が私たちに上に具体的に行われる時なのであります。
 
17節の後半から18節にかけては、神の福音に従わない者たちの行く末のことが、嘆きをもって語られています。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われています。これは、キリスト者以外の人のことを心配しているようにも受け取れますが、自分たちの罪深さを思い起こしながら、自分たちが本当に救われるのだろうか、と心配しているようにも受け取れます。実際、名ばかりのキリスト者であって、キリストの苦しみにあずかることを避けて、優柔不断の状態を続けているならば、恵みの裁きに加えられないかもしれないのであります。

結.創造主に魂をゆだねなさい19節)

そこで、この日与えられる最後の勧めが19節で語られています。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。――ここでは、「苦しみを受ける人」の前に、「神の御心によって」という修飾がついています。キリストの苦しみにあずかることが出来るかどうかは、神の御心によるのであります。私たちに対して苦しみの中に飛び込む勇気が求められているというよりも、神様が私たちをキリストの苦しみの中に導き入れてくださるのであります。いつのまにか、キリストの苦しみの一端を担う者とされるのであります。そして、そのことに気付いて、神様の恵みを覚えるのであります。
 そのような恵みに気付いた人は、「善い行いをし続けて」、「創造主に自分の魂をゆだねなさい」と勧められています。「善い行い」とはどういう行為でしょうか。具体的な説明はありませんが、今日の箇所の文脈からすれば、キリストの苦しみにあずかり続けるということでしょうか。この世にあって、キリスト者としての様々な困難を担い続けることを、現実の日常生活の中で続けて行くということでしょうか。――しかし、それには、なお不安が拭いきれないかもしれません。そのような私たちに対して、「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と言います。創造主であられる神が真実の愛をもって、私たちを救おうとしておられるのですから、私たちはただその主に全身全霊を委ねたらよいのです。そうすれば、罪深く、信仰があやふやな私たちをも、創造主はキリストの苦しみにあずかる者としてくださり、キリストによる永遠の救いに導いてくださるのであります。
 祈りましょう。

祈  り

創造主にして、真実の愛をもって私たちを救いに導いてくださる、父なる神様!
 
ちょっとした苦難の中でもくずおれそうになり、キリストの愛から離れそうになる弱い信仰の者ですが、どうか、愛の御手をもってお救いください。どうか、私たちのような者をも、キリストの苦しみの一端を担うことのできる者としてください。
 
どうか、神の国の喜びに連なる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年9月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 4:12−19
 説教題:「
試練を喜べ」         説教リストに戻る