「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
            (ルカによる福音書
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 主イエスは十字架が待っているエルサレムへと旅を続けておられた。だが、そうとは知らぬ群衆は、主イエスから良きものを得ようと期待して、ついて来ていた。そんな彼らを本物の弟子にしようと、標記のように語りかけられた。親、妻子、兄弟といった最も大切である身内の者を「憎む」とは違和感のある表現だが、彼らと敵対するとか縁を切るという意味ではなく、主イエスとの関係を優先するということである。自分の命を「憎む」というのも、命を粗末にするということではなく、旧い自我を捨てて、キリストとの関係における自分を大切にするということである。「自分の十字架を背負う」とは、一般的な苦難を負うということではなく、キリストが負われた十字架を共に負うということである。
 だが、そのような生き方には誰も尻込みをしたくなる。そこで主は二つの譬えを語られた。一つは、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけるだろうというものである。ここで計算すべきは、その工事を完成できるために必要な費用(自分の力)だけではなく、主イエスに従って共に歩む時に支えてくださる主の愛を計算に入れることを忘れるな、ということであろう。もう一つの譬えは、王が戦いに行こうとするとき、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうかとの問いかけである。そのとき、自分たちの力だけを考えたら勝負にならないとしても、主が共に戦ってくださることを考えて、主の愛の力に委ねるなら、勝利を確実にすることができるのである。
 主は続けて、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえないと言われた。逆に言えば、自分にこだわることをやめて、主に信頼することによって、弟子になる道が開けるということである。
 主は、更に、「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味がつけられようか」と述べておられる。弟子にとっての「塩」とは、主イエスに対する優先的な愛である。こ塩気を失っては、弟子として救いの御業の味付けの一端を担うことはできないのだ。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年9月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書14:25−35 説教題:「弟子の条件」 説教リストに戻る