序.群衆が弟子となるために

今日与えられておりますルカによる福音書1425節以下は、主イエスが十字架の待っているエルサレムへと向かっておられる旅の途中で語られたものであります。冒頭の25節に書かれていますように、主イエスの旅には、弟子たちばかりでなく大勢の群衆が一緒について来ていました。その群衆の方を振り向いて言われたのが、今日の箇所であります。ですから、今日の箇所で語られていることは、弟子たちに向けてではなくて、群衆に向かって言われたということを、筆者のルカははっきりと記しているのであります。
 
弟子と群衆とではどこが違うのでしょうか。弟子たちというのは、彼らが召し出されたときの記事にもありますように、それまでの職業や家族を捨てて主イエスに従うようにされた者たちであります。それに対して群衆というのはどうでしょうか。彼らも町から町へと進まれる主イエスと一緒について来ていたようですから、彼らなりに主イエスに対する強い思いを持っていたことが伺えます。彼らは主イエスに対して大きな期待を寄せていたからこそ、ついて来たのであります。自分や家族の負っている心や体の重荷を軽くしていただこうという期待があったでしょう。ユダヤの国をローマの支配から解放してくださるのではないかという期待を抱いている人たちもいました。ラビと呼ばれる律法の教師とは違う何物かを与えてくださるお方、人間を超えたお方であると考えていた人たちもいたかもしれません。しかし、弟子とは違うのであります。彼らは主イエスに自分を差し出すのではなくて、主イエスから何物かを得ようとしていたのであります。いくら熱心に主イエスの話を聞き、主イエスの行く先々までついて来ていても、それだけでは弟子とは言えないのであります。主イエスの近くに来ていながら、依然として罪から解放されていないのであります。
 私たちはどうでしょうか。信仰を告白してキリスト教の信者になった者は、主イエスの弟子とされた者であります。そうでありながら、<群衆どまりになってはいないだろうか>ということが今日の箇所で、まず問われなければなりません。私たちは曲りなりにも、主イエスについて来ています。そして、主イエスから多くの物を得たいと思っています。それなりの物を献げてさえいます。しかし、それだけでは弟子とは言えなくて、群衆どまりなのであります。主イエスとの関係・人生の生き方が、まだ弟子としての関係、弟子の生き方とは言えなくて、群衆どまりになっていないかということであります。
 
主イエスは、そういう群衆を弟子にまで引き上げようとして、彼らの方を振り向いて語られたのが今日の箇所であります。主イエスは今日、私たちの方も振り向いて、私たちを本物の弟子に作り変えようと、語りかけてくださっているのであります。
 
今日の箇所の小見出しは「弟子の条件」となっていて、説教の題もこれに倣って「弟子の条件」といたしました。しかし、「弟子の条件」というと、ここで語られることを満たせば弟子になれる、そうでなければ弟子としては失格だということになります。主イエスはここで、そういう意味の「弟子の条件」を語られたのであろうか。そうであれば、私たちの前には大きな壁が立てられることになるのではないか。自分はとても弟子なんかになれない、ということになってしまうのではないか。今、求道中の方々にとってみたら、<とても、主イエスの要求を満たすことは出来ないから、洗礼なんか受けられない>と思ってしまわれるのではないでしょうか。主イエスはここで、そんな高い壁を群衆や私たちの前に立てるために、この箇所の話をされたのでしょうか。その問いを念頭に置きながら、今日の御言葉を聴いて参りたいと思うのであります。と申しましても、主イエスの言葉を勝手に割り引いて聞いたのでは、御心を聴いたことにはなりません。厳しいお言葉をそのままに受け止めて、その中に込められた、主イエスの思い、何とかして私たちを弟子にしよう、救いに入れよう、との深い愛の御心を聴き取りたいと思います。

1.親、兄弟、自分の命を憎む

では、主イエスは群衆に、そして私たちにどのように語られるのでしょうか。まず26節ではこう言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」――この言葉によれば、親、兄弟、子供、それに自分の命を憎むことが弟子としての条件だと言われているのであります。両親、妻子供、兄弟と言えば、最も強い絆で結ばれた関係であります。そればかりか、普通は最も大切だと思われる自分の命さえ憎むことが求められています。ここで、「憎む」と訳されている言葉は、原文どおりでありますが、これはユダヤ的な表現でありまして、「選ばない」とか「身を引き離す」という意味であります。主イエスへの愛に目覚めるならば、肉親への愛は色あせざるを得ない、距離を置いてしまわざるを得ないのであります。弟子たる者には、それほどに主イエスへの絶対的な愛が求められる、ということであります。肉親と敵対せよとか、肉親への愛を捨てよと言われているのでは決してありません。しかし、主イエスとの関係が優先されるということであります。先程、旧約聖書の朗読で、アブラハムが神様の命令に従って、息子のイサクを献げた物語を読みました。念願の跡取りが与えられたのに、神様はこともあろうに、その子を献げよと言われる。理解しがたい要求であります。しかし、アブラハムは御命令に従ってイサクを連れて黙々とモリヤの山に登るのであります。ヘブライ人への手紙では、このことを、「信仰によってアブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」(11:17)と記すのであります。神様との関係、主イエスとの関係というのは、これほどに厳しい関係であるということであります。更に、「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言っておられます。「自分の命」というのは、「自分の魂」とか「自分の心」とか「自分の生き甲斐」と言い換えることも出来ます。その「自分」を捨てないと弟子に相応しくない、と言われているのであります。と言っても、自分を嫌うとか、自分は生きていても仕方がないとする、ということではありません。自分より主イエスを大切にし、主イエスの御心を第一にするということです。古い自我を棄てて、キリストとの関係における自分を大切にするということであります。
 27節を見ると、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」とも言っておられます。十字架と言えば、一般的には苦難のことを指しますが、聖書で十字架というのは、主イエスの十字架と切り離された一般的な苦難ではありません。主イエスの弟子としてついて行くときに、主イエスが背負われた十字架の一端を自分なりに担うのが「自分の十字架」であります。このとき主イエスは十字架が待っているエルサレムへと向かっておられました。それは主イエスに従う弟子たちのため、私たちのためでありました。主イエスは御自分を捨てて、弟子たちのために十字架に架かろうとしておられたのであります。ですから、弟子たちも自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことになるのであります。このとき、群衆はもちろん弟子たちも、まだそのことに気付いていませんでした。ですから、そのことをここではっきりと言われたのであります。私たちも、主イエスの弟子になるということは、主の十字架の一端を自分なりに背負うということであります。それは自分のために生きる生き方から、主のために生きる生き方に変わるということであり、主の労苦や痛みの一部を担う生き方をするということであります。しかし、その労苦や痛みは、主と共に背負うものですから、そこには大きな喜びがあるし、それに耐える力も与えられるということであります。
 
けれども、そのように言われても、私たちはどうしても、そのような厳しい生き方に尻込みしたくなるのではないでしょうか。自分たちの利益を求めて主イエスについて来た群衆にとってもそうであったに違いありません。そこで、主は二つの譬えを語られるのであります。

2.塔を建てるときの計算(第一の譬え)

第一の譬えが28節から30節に語られています。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することができなかった』と言うだろう。」
 主イエスと共に十字架を背負ってついて行く弟子になろうとするときに必要なことが、この譬えでは、塔を建てるときに、完成するまでに必要な費用(資金)が十分にあるかどうかを、腰を据えて計算することで譬えられています。「塔」というのは、ぶどう畑を見張るための塔であります。立派な塔を建てるには費用がかさみます。口語訳聖書では「邸宅」と訳されていました。いずれにしても、相当の費用がかかるので、安易に着工して完成出来なかったら物笑いになります。では、私たちが主イエスの弟子になろうとするときに、腰をすえて費用の計算をするとはどういうことでしょうか。
 
主イエスの弟子であるためには、先程2627節で聴いたように、家族や自分の命さえも憎み、自分の十字架を背負わなければならないとすれば、それは塔や邸宅を建てるほどに、人生における大きな決断であり、相当大きな犠牲を伴うことになります。そのような犠牲を払い続けることが出来るかということを、腰をすえて計算しなければならないということであります。蓮見和男先生は、この計算は普通私たちがやる利益の計算ではなくて、捨てる計算だと言っておられます。人生の中で、捨て続けることが出来るかどうかという計算であります。そんな計算は、とても成り立たないように思えます。この人生の工事は、とても完成など出来ないように思えるのであります。
 
しかし、ここでよく考えてください。この工事は私が一人で、私の財産を取り崩しながらやるのではありません。十字架を背負っておられる主イエスが、私たちの先に立って歩いて行かれるのであります。私たちはその背中を見ながら、あるいは主イエスと軛を共にしながら、進んで行くのであります。私たちが自分の力だけで造り上げるのではない。私たちが持っているものだけで建て上げるのではない。苦難があったとしても、大変な費用の負担があるとしても、主イエスと共に担う苦難であり、主イエスの愛が支えてくださるのであります。ここでの計算とは、自分の力だけの計算ではなく、主の愛を計算に入れなければなりません。自分が支出出来るものの計算をしているだけでは、とても着工できません。自分をすべて捨てて主に委ねて、主の愛とそのお力を信頼するとき、完成に至るのに十分な費用(資金)のあることが分かるのであります。先日の誕生会の時に、倉田保子さんが私の受洗のことをお尋ねになりました。私の受洗は高校1年のクリスマスでしたが、そのとき、私は信仰を持ち続けられるかどうか、自信がありませんでした。ところが、祖父が、洗礼というのは入学だ、ということを言ってくれたので、決心が出来た、という返答をしました。洗礼は良い加減な気持ちで受けてもよいというものでは決してありませんが、自分だけの計算をして成り立つから受けるものではありません。主イエスの存在を計算に入れてよいということであります。それがここで、腰をすえて計算すると言われていることではないでしょうか。

3.不利な相手を迎え撃つための考え(第二の譬え)

もう一つの譬えが31節から32節に語られています。「また、どんな王でも、ほかの王との戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」――信仰生活においては、戦いが避けられません。しかし、その戦いに負ける訳には参りません。しかし、敵は二万の兵に対して、こちらは一万の兵で迎え撃たなければならないのが、信仰生活の戦いであります。特に異教社会の中ではそうであります。そこで、腰をすえて考えなさいと言われているのであります。しかし、二万と一万では腰をすえて考えるまでもなく、勝負になりません。しかし、ここで主イエスは「どんな王でも、腰をすえて考えてみないだろうか」と言っておられます。それは、この大きな兵力の差があるように見える戦いにおいても、勝利の可能性があるということを示しておられるのではないでしょうか。腰をすえて考えた末の答えは、先程の第一の譬えと同じであります。主イエスが先頭に立って戦ってくださる、ということであります。私が自分の意志の強さや、苦難に耐え抜く力や、困難を乗り越える知恵によって勝ち抜くのではありません。主の愛と力に信頼して委ねるならば、勝利を確実にすることが出来るのであります。大切なことは委ねきることであります。

4.持ち物を一切捨てる

33節で主イエスはこう言っておられます。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ1人としてわたしの弟子ではありえない。」――自分の持ち物で塔や邸宅を建てようとしても計算は成り立ちません。自分の兵力だけで戦ったのでは、とても勝ち目がありません。信仰の人生を完成するにも、信仰の戦いを戦い抜くにも、自分の持ち物や兵力に頼っていたのでは失敗いたします。むしろ、自分の持ち物を一切捨てることが必要だと、主は言われるのであります。私たちの力や知恵や熱心さといった持ち物を一切捨てなさいと言われるのです。なぜでしょうか。私たちの持ち物が全然役に立たないということなのでしょうか。そうではないでしょう。私たちが自分の持ち物に拘ることを捨てなさい、そして、主イエスが必要なものを必ず備えてくださると信頼しなさい、ということでしょう。主との愛の結びつきがあれば、他のどんな持ち物を捨ててもよいということに気づきなさい、と言っておられるのであります。

結.塩になる

34節以下の部分は、共通聖書日課では含まれていなかったので、「教会ごよみ」でも外した形で予告していたのですが、説教の準備をする中で、この部分は25節からの主イエスの話の結びに当たるものであること気づかされましたので、付け加えさせていただきました。
 
ここでは、弟子になることが塩に譬えられています。塩には料理に塩味をつけるという役割と、防腐剤としての役割がありますが、ここでは味付けの役割が用いられています。塩がその役割を果たすためには、塩気を失ってはなりません。イスラエルでは、塩は大抵、死海から採れる岩塩が用いられました。しかし、中には塩気を失って、塩としての役割を果たすことが出来なくなるものがあって、それは、人に踏みつけられる砂利の代わりにされたそうであります。塩気を失った塩は味付けにはならず捨てられてしまいます。弟子にとっての塩とは何でしょうか。それは、今日の箇所で教えられたように、主イエスに対する優先的な愛であります。この愛を失っては弟子としては役に立たず、捨てられるしかありません。
 
塩が弟子の役割に譬えられたのには、もう一つの意味合いが込められています。料理に塩が用いられる場合、塩は料理の中に溶け込んで形を留めません。塩は自分の姿を消しても、塩気として存在して、その役割を果たします。ところが、塩が自分を主張して、「ここに塩が入っている」というような入り方をすると、料理全体の味を損ねてしまいます。あくまでも料理の引き立て役として料理に味付けをするのが本来の役割であります。私たちが主の弟子としての役割をする時も同じだということです。弟子の役割は、主イエスの恵みを引き立てることであって、自分を表に出すことではありません。考えてみると、主イエス御自身が御自分を捨てて、私たちのための塩となってくださいました。御自分の命をさえ捨ててくださったことで、神様の救いの御業に決定的な味付けをされたのでありました。その主イエスの弟子たるものが、その救いの業の味付けの一端を担うためには、自分を主張するのではなくて、目に見えない姿で愛の味付けをする役割に徹しなければならない、ということであります。
 
最後に、このような塩としての味付けの役割に徹して生きた、パウロの言葉を聞きましょう。ガラテヤの信徒への手紙2:19節以下を読みます。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19,20)私たちも、微力ながら、このような弟子の一人に加えられたいものであります。
 
祈りましょう。

祈  り

私たちのために塩となって命を捨ててくださったイエス・キリストの父なる神様!
 
主イエス・キリストの御業と御言葉によって、あなたの大いなる愛を知らされた恵みを感謝いたします。
 
私たちはこうして、あなたの弟子として生きることへと招かれておりますが、なお、地上の絆や、自分の命や誉れに捉われていて、主を信頼し切ることが出来ない、弟子に相応しくない者でございます。
 
しかし、そのような者のためにこそ、主イエス・キリストをお遣わしくださり、今日も恵みの御言葉を与えていただきました。どうか、この恵みを、腰をすえて計算し、サタンの力に勝利し給う主の御力を深く考えて、主に従って行く者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年9月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 14:25−35
 説教題:「
弟子の条件」         説教リストに戻る