序.宴会の譬えで何を聴くか

今日与えられていますルカによる福音書の箇所には、二つの譬え話が含まれています。どちらも、宴会が題材になっています。主イエスはしばしば婚宴や宴会を題材にして譬えを話されました。その多くは神の国の譬えであります。今日の二つの譬えも、直接には「神の国」という言葉は出て来ませんが、神の国のことを話そうとしておられると考えて間違いありません。婚宴や宴会というのは、喜びの席であります。普段の食事の席も楽しみですが、婚宴や宴会ではご馳走が出て、多くの人たちとの楽しい会話もはずむ、喜びの場であります。神の国というのも、そのような喜びの場であります。もちろん、婚宴や宴会の喜びと神の国の喜びとは、質的に違います。では、どんな喜びなのでしょうか。主イエスは、婚宴や宴会の譬えを用いて、神の国の喜びがどのようなものであるのか、を伝えようとしておられ、またその喜びに私たちを招き入れようとしておられるのではないでしょうか。
 二つの譬えの最初のものは、婚宴の席に招かれた客への教訓の形をとっており、後の譬えは、宴会に招く側の人への教訓の形をとっていますが、これらは単なる社交のエチケットや知恵を教えるものではありません。これらは私たちの生き方そのものに切り込むような鋭い指摘を含んでいると同時に、神の国の恵みの豊かさを指し示しています。今日はその豊かなメッセージをここから聴き取りたいと思います。

1.末席に座りなさい(第一の譬え)

まず、最初の譬えですが、<婚宴に招待されて、会場の上席に着いていて、あとから身分の高い人が来て、席を譲らなければならないようなことになると、恥をかくから、末席についていて、招いた人から「もっと上席に進んでください」と言われる方が、面目を施すことになる>、というものです。これは、私たち日本人には大変分かり易い譬えではないでしょうか。
 主イエスがこの譬えを話されたきっかけは、7節によると、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、話された、ということですが、日本人はこういうことをいたしません。ユダヤ人と日本人とでは感覚が違うのかなとも思います。でも、日本人が末席の方に行きたがるのは、本当に自分は末席が相応しいと思っているのではなくて、謙譲の美徳を誇っているだけであって、内心では自分はもっと上の席に座って当然だと思っていることが多いのではないでしょうか。私たちは皆、本心では人々から敬われたいし、高い処遇を受けたいと思っているのであります。そして、もし自分が考えているような処遇をしてもらえなかった場合は、相手を批難したり、呟いたりするのであります。そういう意味では、日本人もユダヤ人と変わりません。こういう点では、キリスト者も同じことです。キリスト者というのは、キリストに出会って、自分は何も誇るものがない罪人だということを知らされた者であります。しかし、「自分は罪人です」などと言ったり祈ったりしていながら、いつのまにか、自分を正しい者だと自負し、奉仕も献げ物もちゃんとして、信仰者に相応しい生き方をしていると思ってしまっていて、そのことが認められないと、自分は正当に評価されていない、などと考えて、呟きや不平の気持ちを持ってしまうのであります。
 
主イエスがこの譬えで教えておられるのは、控え目にしておいた方が、あとで面目を施すことになるという、謙譲の美徳や人間関係の知恵のようなものを教えておられるのではありません。むしろ、私たちの心の奥にある、人間が自分を誇りたいという醜い根性を指摘しておられるのではないでしょうか。私たちはこの譬えによって、まず自らの醜さを覚えるべきであります。
 しかし、主イエスがこの譬えを通して教えようとされていることはそれだけではありません。先程申しましたように、この譬えは神の国の譬えであります。私たちが神の国の喜びの席に招かれていることの譬えであります。私たちは、本来ならこのような席に招かれる資格のない者であります。そこに神様は主イエスによって私たちのために喜びの席を用意してくださった、ということであります。末席に座らせていただけるだけで、大変光栄なことであります。その招きに私たちがどのように応じるか、その姿勢が問われるのであります。
 
私たちのこの世の人生にはずいぶん辛いことや苦しいことがあります。自分の能力や頑張りが評価されず、冷遇されることがあります。この世においてだけではなく、教会においてさえ、そう感じてしまうことがあるかもしれません。そうした中で、私たちは神様の恵みが見えなくなることがあります。なぜ、こんな不遇な目に遭わねばならないのか、なぜこんな末席に座らなければならないのか、神様は自分を正しく扱っていてくださらないのではないか、教会は自分の働きをちゃんと評価していないのではないか、などと思い始めるのであります。そうして神様の恵みを見失ってしまうのであります。せっかくの神の国の喜びが損なわれてしまうのであります。
 
主イエスは譬えを語られたあと、11節でこう言っておられます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」――「へりくだる者」とは、自分の持っている価値を隠して、価値の低いような姿をとっているということではありません。見かけの謙遜や、遠慮ではありません。やがて本来の価値が認められて、評価していただけることを待っている者のことではありません。そういう人はむしろ、「高ぶる者」であります。ここで「へりくだる者」とは、自分では神様の前に正しさを主張することが出来ず、神様に憐みを求めるしかない者のことであります。ルカ福音書のこのあと18章に、「ファリサイ派の人と徴税人の譬え」があります。神殿に上った二人のうち、ファリサイ派の人は自分の功績を誇って、徴税人のような者ではないことを感謝する祈りをしました。それに対して、徴税人の方は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。彼は、神様の前に立つことすら出来ない者であることを覚えて、ただ憐みを乞うしかなかったのであります。これが、「へりくだる者」ということであります。自分は末席にも座ることが出来ないと本気で思わざるを得ない者のことであります。では、そのような者が「高められる」とはどういう意味でしょうか。いずれは高い評価を受けることができる、ということでしょうか。――そのことは、次の譬えを聴いてから改めて考えましょう。

2.お返しできない人を招きなさい(第二の譬え)

次に、第二の譬えでは宴会に招く側の人へ語られました。<宴会を催すときに、友人や、兄弟や、親類や近所の金持ちを呼ぶと、その人たちがお返しに招いてくれることになってしまうので、むしろ、お返しができないような貧しい人や、体や足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい>という譬えです。
 人を食事に招待するということは、人間関係を作るために行われる常套手段であります。私もこの世の仕事をしていた時には、この手段をよく用いました。いわゆる「接待」というものです。当然、仕事の上での見返りを期待して行うわけであります。部下を飲みに連れて行ったりするのも、彼らが自分の言うことをよく聞いて働いてくれるという見返りを内心期待しています。先日は、ある料理屋に子供達家族を集めて食事をしました。別に見返りを期待して集めたつもりはありませんでしたが、この主イエスの話を聞くと、将来子供たちに面倒を看て貰わなければならなくなった時の見返りを求める気持ちが潜んでいたのではないかと思わされます。
 
ところが主イエスは、こういう人間関係ではなくて、お返しを期待しない人間関係を作るように勧めておられるのであります。そのためには、お返しを期待出来ないような人を宴会に招きなさいと言われるのであります。宴会に限ったことではないかもしれません。困っている人の助けになる善い業なら何でもよいのかもしれません。しかし、宴会を譬えに用いておられるところがミソかもしれません。共に食事をするということは、その人たちを同等の仲間として受け入れるということであります。教会には色々の人がやって来ます。しかし、教会にはいつの間にかカラーが出来てしまって、同じカラーの人たちの仲好しグループになっていて、そのカラーに合わない人は馴染みにくいということがあります。しかし、教会はどんな人も受け入れられるところでなければなりません。しかも、大事なことは、そんな異質な人や困っている人をも招き入れることによって、称賛や誉れという見返りを期待することになってもいけないのであります。主イエスは、私たちに徹底した無償の愛を要求しておられるのであります。

3.神の国における報いとは

さて、二つの譬えによって、私たちは自分自身が末席にしか座れない者であることを知るべきことと、お返しを期待しないで、困っている人たちと接するべきことを教えられたのであります。これは大変厳しい教えではないでしょうか。このような教えに従おうとするなら宴会のような喜びはないし、まして、神の国の喜びには程遠い自分たちであることを思わざるを得ないのではないでしょうか。ところが主イエスは、12節では「へりくだる者は高められる」と言われ、14節では「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言っておられます。「高められる」とか「幸いだ」とか「報われる」というのは、周囲の人々による評価が高まるとか、人々から称賛や誉れを受けて報われるという意味ではないことは、ここまで見て来た通りであります。では、「高められる」とか「幸いだ」とか「報われる」というのはどういうことでしょうか。どこに神の国の喜びがあるのでしょうか。その喜びを聴き取ることが、今日の箇所のポイントであります。
 その喜びを聴き取るヒントは、この譬えが語られた前後の状況の中にあります。13章を見ますと、「主イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」(1322)と書かれていますし、更に主イエスは「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(1333)と言っておられます。そして、このあとの18章に参りますと、「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(183133)と、十字架と復活の予告をなさっています。弟子たちは主イエスのおっしゃっている意味を理解してはいませんでしたが、主イエスは着々と十字架のエルサレムへの道を進んでおられたのであります。つまり、主イエスは、罪深く、様々な苦難を背負っている人々を神の国に招き入れようと、十字架への道を進んでおられる中で、この譬えを語られたのであります。今や、主イエスは、神の国の末席にも着く資格のない者をも招き入れようとなさっているのです。その深い愛を、この譬えから聴き取らねばならないでしょう。
 
また、今日の箇所のすぐ前には、安息日に、水腫を患っている人を主イエスが癒された出来事が記されています。ファリサイ派の人々は何とか主イエスを陥れようとうかがっています。しかし、主イエスは自分が貶められることも厭わず、水腫を患っている人に寄り添っておられるのであります。つまり、神の国の宴会の主宰者であるお方が、何のお返しも期待されることなく、苦難を背負った人に寄り添って、自分が不利になることも厭わず、癒されるのであります。
 
これらのことから、私たちが聴き取ることの出来ることは、私たちこそ、神の国の末席にも着くことが出来ない者であるにもかかわらず、主イエスは、何のお返しも期待されないどころか、十字架という大きな代償を負いながら、私たちを神の国に招き入れようとしておられるということであります。主イエスが、「へりくだる者は高められる」と言われ、「あなたは報われる」とおっしゃっていることの中身とは、正にそのこと、つまり、私たちをも神に国に入れてくださり、神の国の喜びの宴会に加えてくださるということなのではないでしょうか。

結.末席に主がおられる

今日の説教の題は「末席に座れ」とさせていただきました。この題から皆様が予想されるメセージは、「謙譲の美徳」、ないしは、謙遜の教えであろう、と思われたかもしれません。しかし、ここで教えられていることは、<末席に座っていると、「もっと上席に進んでください」と言われて面目を施すことになる>というような礼儀作法ではなく、自分が誉れを得るための知恵でもありません。あるいは、<お返しを出来ないような、困っている人に親切にすれば、結局は報われる>という無償の愛の行いの勧めでさえありません。
 
そうではなくて、これらの譬えから私たちが聴き取ることが出来るのは、<主イエスこそ、末席にいてくださる>ということであります。主イエスこそ、末席にも連なることの出来ない私たちのために、最も末席である十字架にかかってくださったように、私たちの近くに寄り添って、私たちを神の国の宴席に押し上げようとしてくださっている、ということであります。だから、主イエスは私たちに「上席に着いてはならない。…むしろ末席に座りなさい」と言ってくださるのであります。そこには、主イエスがおられるのであります。そして、主イエスとともに、神の国の祝宴にあずからせていただけるのであります。
 主の日ごとに行われる礼拝、そして、今日行われる聖餐式は、この神の国の祝宴の先取りであります。主イエスは今日も、御言葉と聖餐によって、私たちに、<一緒に神の国の末席に座ろう>と呼びかけてくださっているのであります。感謝して祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 
今日も私たちを、御言葉をもって神の国の祝宴にお招きくださり、主の食卓を示す聖餐にも与らせようとしていてくださって、神の国の祝宴の喜びを先取りさせてくださいます恵みを感謝いたします。
 
私たちは、自分が人から高められることばかり求めて、末席に座ることによってすら、自分を高くしようとする、浅ましい者であります。そのような者に、主イエスが近く寄り添ってくださるだけでなく、命を捨てるほどの愛を注いでくださり、私たちが喜びの席から落ちてしまわないように支えてくださっていることを覚えさせられています。
 
どうか、私たちも、主イエスの恵みのゆえに、喜んで末席に座る者とならせてください。どうか、私たちのような者も、人に寄り添い、愛に生きる喜びに与る者とならせてください。どうか、この群れに連なる者たちを、一人残らず、神の国の宴席に連ならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年9月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 14:7−14
 説教題:「
末席に座れ」         説教リストに戻る