荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。       (イザヤ書351 

 バビロンにおける捕囚が続く中で、ユダの民は神の救いが信じられなくなり、信仰が萎え、希望を見失い、バビロンの人々に迎合するようになってしまっていた。それは、現代の私たちが閉塞感に捕えられている状況と共通しているのではないか。
 そうした中で、イザヤはまず、「もろもろの民よ、近づいて聞け」(341)と呼びかけ、「主はすべての国に向かって憤りを発し、怒りはその全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め、彼らを屠るために渡された」(342)との厳しい審きを伝え、「天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る」(345)と、イスラエルの民と歴史的に敵対関係にあったエドムの名を借りて、強国に対しても神が主権を行使されることを告げた。しかし、この審きの宣言には「小羊と雄山羊の血にまみれ」との言葉も続いていて、「神の小羊」である主イエスの十字架の福音が隠されている。神はエドムを滅ぼされるように、主イエスによってサタンに勝利され、私たちをサタンの支配から解き放ってくださるのだ。
 そして、イザヤは標記のように、荒れ野や砂漠に花が咲き、「水が湧きいで、川が流れる」(356)時が来ることを告げ、「雄々しくあれ、恐れるな」(354)と励ます。「荒れ野」や「砂漠」はカナンの地の荒れた状況であるとともに、ユダの民の心の状態を表したものであろう。彼ら自身の中には、そのような状態から抜け出す力はない。だが、神が働かれるなら、事態は変わるのである。
 イザヤは更に述べる。「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。…主が贖われた人々は帰って来る」(35810)と。罪深いユダの民も、主の贖いによって、バビロンからシオン(エルサレム)に帰る道が備えられるのだ。現代版の捕囚状態にある私たちにも、礼拝へと立ち戻る道が備えられている。私たちは、「とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオン(礼拝の場)に帰り着く」(3510)ことが出来るのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年8月25日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書34:1−35:10 説教題:「荒れ野よ、喜び躍れ」 説教リストに戻る