序.主の書に尋ね求めよ

今日は、予告ではイザヤ書34章から御言葉を聴くことにしておりました。しかし、先程の朗読をお聞きになってお分かりのように、34章に書かれていることは、殆んど恐ろしい審きのことであります。説教というのは、そういう箇所からでも、喜びの福音を語らねばなりませんし、後程、そのことにも触れますが、聖書の註解者の多くが指摘しておりますことは、34章と35章はひとつのまとまりをなしているということであります。34章では審判(審き)が語られ、35章では救済(救い)が語られていて、この2つの章がセットで神様の御心が示されているということであります。そういうわけで、少し長いのですが、35章までを含めて、ここで預言者イザヤを通して語られている神様の御心を聴き取ることにいたしました。
 34章の16節にこう述べられています。主の書に尋ね求め、読んでみよ。15節までずっと審きが述べられて来て、突然、「主の書」が出て来るのですが、この「主の書」が具体的に何を指しているのか、よくは分かっていません。34章でここまで書いてきたことを指していると見ることもできますし、次の35章も含んでいると見ることも出来ますし、34章と35章に書かれていることは、イザヤ書の他の箇所で書かれていることを暗示している部分も多いので、「主の書」とはイザヤ書全体を表わしていると受け取ることも出来ます。では、この呼びかけは誰に対してされているのでしょうか。341節には、もろもろの国よ、近づいて聞け、とあります。この「もろもろの国」は、イスラエルと関係するすべての国々と考えられますが、16節で呼びかけられているのも、1節と同じ「もろもろの国」の人々とも考えられますが、彼らは「主の書」と言われるような神の言葉を知らないわけですから、6節の呼びかけは、むしろ、イザヤが今、直接語りかけているイスラエル(ユダ)の民と考えた方がよいでしょう。伝道所の図書に小林和夫先生の「イザヤ書講解説教」というのがありますが、それではこの16節の言葉だけで、「イザヤ書におけるみ言葉」という題の説教をしておられます。その説教では、〈イザヤによって語られる主の言葉〉についての一般論が述べられていて、今日の3435章の箇所には殆んど触れられていないのですが、私たちは、今日与えられている3435章において、イザヤは何を語ろうとしているのか、そしてそこから今の私たちが何を聴き取るべきかを考えて行きたいと思います。

1.エドムの審判

さて、イザヤ書のこの部分が書かれたのは、イスラエルの民がバビロンによって捕囚の身となっていた時期ではないかと考えられています。その時期にイスラエルの民がどのような思いでいたかということを、ギュンター・ヤーコブという人のイザヤ書55章の説教から引用して、ご紹介したいと思います。
 
「紀元前587年、バビロンの征服者たちにエルサレムから引きずり出されていったイスラエルの人びとは、初めのうちは、わらにもすがる思いで、すぐにでも故郷に帰り、自由を回復することができるのではないかと望みをつないでおりました。いったい、神は、ご自分で選ばれた民を、異郷の地、捕囚の状態のままで、悲惨にも滅亡するのを、そのままにされるのであろうか。いったい、神は、ご自身の愛する者たちの最後、その敵の勝利を真剣に欲しておられるのであろうか。しかし、それから、年月が過ぎていきました。30年、40年、長い時が過ぎ、若者は白髪の老人になりました。この年月の間に、世界史に、目に見える変化はありませんでした。そのような出口のない状況にあって、私どもであったら、どのような態度を取るでありましょうか。当時の人びとが、神によって呼び起された、栄光ある将来についての信仰を塵芥のように捨ててしまったのをいぶかることはできません。懐疑と憂愁の思いに落ち込み、黙りこくって思いに沈むほかありません。多くの人々が日和見を決め込み、バビロンの人びとに迎合し、自分の父祖たちの神をも、その約束をも、もはや見向きもせず、何も聞こうとしませんでした。」(「説教黙想集成1」のイザヤ55511の説教より)
 
現代の私たちは、この捕囚のような厳しい状況に置かれているわけではありませんが、先行きの見通せない閉塞感が漂っているという点では共通点があるように思います。そうした中で、多くの人々が時代の潮流に流され、力ある者に迎合しています。キリスト者までもが、信仰を見失ったかのように、希望を見出しにくくなってしまっているという状況があるのではないでしょうか。
 
そうした中で、イザヤはまず、「もろもろの国」に対する神の審きを語ります。それが1節から4節までであります。1節ずつ全部を細かく見て参りませんが、2節をご覧ください。主はすべての国に向かって憤りを発し、怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め、彼らを屠るために渡された。ここには、神様の激しい怒りと、徹底的な審きが、すべての国に向けられていることが述べられています。「すべての国」とは、全世界とも読めるし、イスラエルに敵対するすべての国とも読むことが出来るし、イスラエル自体をも含むとも読めます。その解釈は定かではありませんが、いずれにしても、この審きの言葉を誰も他人事として聞くことは出来ないのではないでしょうか。私たちは皆、神様の御心に従わず、神様を信じないで、神様を蔑ろにして参りました。そのことに対して、神は憤っておられ、私たちは死を免れない者であることを、はっきりと認めなければなりません。
 
5節から15節までは、特にエドムに対する神様の審きが語られています。エドムというのはどういう国でしょうか。地理的には死海の南東の国でありますが、エドム人の先祖というのは、あのヤコブが長子の特権を奪った兄エサウであります。イスラエルの民がエジプトを脱出してカナンの地に入ろうとしたときに、このエドムの領内を通ろうといたしましたが、エドム人はそれを禁じました。それ以来、イスラエルはエドムを敵視して参りました。ここでは、そのエドムを神様が審かれることを告げているのであります。しかし、ここでエドムというのは、かねてからイスラエルと敵対関係にあったエドムのことだけではなくて、4節までに述べられた、神様を信じず、イスラエルに敵対するすべての国々の代表として取り上げられていると解釈されています。特に、イスラエルは大国アッシリアやバビロンによって苦しめられて来ましたが、そうした国々を象徴して、ここでエドムの審きが語られているのであります。直接、名指しでバビロンの審きのことを語れないので、エドムの名を借りたということかもしれません。更に言えば、エドムというのは、単に、イスラエルに敵対し、イスラエルを苦しめる敵国の象徴というだけではなくて、イスラエルを神から引き離そうとするサタンを暗示するものと受け取ることが出来るのではないでしょうか。
 
ここには、エドムに対する、神様による血なまぐさい殺戮と破壊のことが延々と語られています。全部を取り上げる余裕はありませんので、56節だけを見てみましょう。天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る。絶滅に定められた民を裁くために。まことに、主の剣は血にまみれ、脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ、雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ。目を覆いたくなるような惨状が描かれています。ここで「ボツラ」という地名が出て来ますが、これは古代エドムの首都の名であります。この後、7節以下では、土地は荒れ果て、町は廃墟になることが告げられて参ります。
 
ここでイザヤが示そうとしていることは何でしょうか。ただ、憎い敵が滅ぼされる様を描いて、イスラエルの民に溜まったストレスを解消しようということではありません。イザヤが告げようとしているのは、世界を治めておられる神様の主権であります。今、ユダの民の運命はバビロンによって握られているように見えています。しかし、イザヤは、ユダの運命を握っているのは、バビロンなんかではないし、人間を悪に導くサタンでもなく、歴史を導く主権者である神様である、ということを告げているのであります。そして、その神様によって将来において救いがもたらされること、その神様をこそ、もう一度信じ直すことへと導こうとしているのであります。

2.小羊のいけにえ

ここで、6節で注目したい点があります。それは、「小羊と雄山羊の血にまみれ」とあり、「主がボツラでいけにえを屠り」と言われていることであります。ボツラの町が滅ぼされて、小羊がいけにえとして屠られ、血にまみれるのであります。「小羊」と言えば、私たちは洗礼者ヨハネが主イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったことを思い起こします。もちろん、イザヤが主イエスのことを知っているわけではありませんが、罪のない小羊がエドムの人間の罪のために犠牲になるのであります。そのことは、イスラエルの民がエジプトを出る時に、羊の血を家の鴨居に塗ったことによって、イスラエルの赤子が救われたことを思い起こさせるものであり、更には、神の小羊としての主イエスの十字架の犠牲によって、人々の罪が赦されたことを私たちに思い起こさせるものであります。そして、主なる神は、エドムを滅ぼされたように、主イエスによってサタンに勝利されて、私たちをサタンの支配から解き放ってくださったのであります。エドムの滅びは、単にバビロンからの解放を暗示するだけではなくて、小羊である主イエス・キリストのいけにえによって、サタンに対する決定的な勝利が行われたことを、私たちに覚えさせる出来事なのであります。
 先程、ギュンター・ヤーコブという人の説教を引用して、現代の私たちもバビロン捕囚のような状態にあるということを申しましたが、そこに働いているサタンは、小羊のいけにえによって滅ぼされる運命にあるということを、ここから聴き取りたいと思います。

3.砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

35章に進みます。ここには「荒れ野」、「荒れ地」という言葉がそれぞれ2回出て来ます。そして「砂漠」という言葉も2回あって、これと同じような意味の「熱した砂地」、「乾いた地」という言葉が出て来ます。これらの言葉で表現されているのは、荒れ果てたカナンの地の有様であると同時に、バビロンに捕囚となっているユダの民の、喜びがなく、恐れと不安が支配していた心の状態でありましょう。
 
と申しましても、バビロン捕囚というのは、牢屋のような場所に幽閉されたような状態にあったのではなくて、エレミヤ書29章によれば、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べ、…妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませる」(エレミヤ2956)とあるように、自由な生活を営んでいて、経済活動にも参加して、財産を蓄えた者もいたようで、中には奴隷を持つ者までもいたようであります。宗教的には、エルサレムの神殿は破壊されていて、それに代わるような礼拝場所をバビロンに作ったという記録はありませんが、毎日の祈りを捧げる生活を続けることが許されていたことは、ダニエル書などで分かることであります。
 このように、経済的にはある程度満たされて、日常生活には特段の不自由がなかったとしても、故郷を離れた異郷の地で、親しかった人々とも離れ離れの生活するということは、寂しいことであり、将来に対する不安を抱かざるを得ない状態であったことと思わされますし、何よりも、〈神様は自分たちを本当に守ってくださるのだろうか〉、〈神様は何をしておられるのだろうか〉、という疑問のうちに、信仰がぐらつき、神様を信頼できない状態に見舞われたのではないかと思われます。信仰というのは、信仰の共同体の中で、礼拝生活を続けることによって養われ、維持されるものであります。「荒れ野」とか「砂漠」という表現は、物理的に荒廃した潤いのない状態というよりも、霊的に荒れた、喜びのない、満たされない状態を表わしているのでありましょう。
 
こうした状態に陥ることは、現代の私たちも同じであります。経済的、社会的、文化的に、ある程度安定した状態にあったとしましても、生活の中心に神様のおられることが信じられなくなってしまうならば、不安や恐れに見舞われます。霊的な荒れ野状態、砂漠のような潤いのない状態、喜びのない満たされない状態に陥ってしまうのであります。現代の私たちが陥りやすい閉塞感というのも、物事が前に進まないという事態から生じるというよりも、信仰が怪しくなって、神様が信じられなくなるところから起こるのではないでしょうか。
 
預言者イザヤは、そのようなユダの民に向かって、呼びかけます。荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
 東日本大震災の被災地の人々を励ますためにNHKが作った「花は咲く」という歌は、とても良い歌で、復興がなかなか進まない中で、被災地の人々に希望を与え、元気づける歌であります。「花」は可憐な野の花であっても、人の目を楽しませるだけでなく、命の営みを覚えさせてくれて、元気を与えてくれます。
 
しかし、その花も、神様によって生かされなければ、美しく咲き続けることは出来ません。預言者イザヤは407,8節でこう言っております。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」人々に元気を与える花も、神様が熱風を吹きつけさせられるならば、枯れてしまいます。ユダの民もそうでありました。そのユダの民がもう一度命を吹き返すことが出来るのは、神様の御言葉を聴くことによってであります。先々週の礼拝でルカ福音書に記された主イエスの言葉を聴きました。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」(ルカ122728)この主の御言葉に信頼して、委ねるときに、私たちも花を咲かせることが出来るのであります。2節に挙げられているレバノンというのは良質の木材を算出する山地であり、カルメルというのは地中海沿いに伸びる肥沃な低い山地であり、シャロンというのは、地中海の海岸に広がる平野地帯を指します。それらの地域が神様の栄光を輝かしているように、イスラエルの人々も、信仰を回復するときに神様の栄光を輝かすことが出来る、というのであります。
 
続く3節、4節では、心が萎えそうになっているユダの人びとに励ましと約束の言葉が述べられています。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちは救われる。」弱った手に力を込めても、重い物を持ち上げることは出来ません。よろめく膝を強くしようとしても、自分の力では立ち上がることはできません。しかし、神が働かれるならば、事態は変わります。5節では、こう言われています。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。――これは、主イエスが洗礼者ヨハネの質問にお答えになる時に引用された言葉として有名であります。主イエスが来られたことによって、このイザヤの言葉が実現していると言われたのであります。それは主イエスによって、神に国が既に始まっているということであります。ユダの民は約束として聞いたのでありましたが、私たちは主イエス・キリストによって、既に実現したこととして聴くことが出来ると言う幸いを与えられています。
 
6節後半と7節では、再び「荒れ野」と「熱した砂地」、「乾いた地」が出て来ます。今度は「花」ではなくて、「水」であります。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる、と述べられています。水と言えば、また主イエスの言葉を思い起こします。ヨハネ福音書で主は言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ73738)水は、熱中症で明らかなように、人が生きて行くのに欠かせません。そのように、主の御言葉は私たちの霊的な命を保つのに欠かせないものであります。水をこまめに摂らないと熱中症になるように、御言葉をこまめに摂らないと信仰の命に関わるのであります。教会は信仰の命の水呑み場であります。神様はここで、私たちの乾いた心に、御言葉の水を川のように注いでくださるのであります。

4.大路が敷かれる

8節以下には、「大路」や「道」のことが述べられています。これは、ユダの民がバビロン捕囚から解放されてシオンの地へ帰る道のことであります。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み/主に贖われた人々は帰って来る。
 ここには、シオンの地へ帰る道について、大切なことが言われています。まず、その道は「聖なる道」であって、汚れた者、愚かな者は通ることは出来ない、ということであります。「汚れた者」とは真の神を知らない異邦人のことで、「愚かな者」とは、神を畏れない者のことであります。ユダの民はどうなのでしょうか。異邦人ではありませんが、神を畏れるという点については、バビロンでの長い生活の中で、損なわれかけていたのではないでしょうか。それでは、彼らはシオンへの道を進むことが許されないのでしょうか。そうではありません。「解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る」と言われています。ここで「贖われる」というのは、身代金を払って買い戻すという意味の言葉が使われています。つまり、ユダの民自体にはシオンへの道を歩む資格を失っていたのだけれども、奴隷を買い戻すようにして神様がシオンへの道を歩めるようにしてくださった、という意味が込められているのであります。先程の「小羊の血」と言い、この「贖い」と言い、主イエスの十字架の贖いを指し示す言い方であります。そして、その道には「獅子がおらず、獣が上って来て襲いかかることもない」のであります。神様の守りがあるのです。
 
今の私たちも、現代版の捕囚状態にあるということを申しました。現代の異教的な世相や風潮の中で、信仰を保ち続けることが損なわれそうになっています。神様だけを信頼していて大丈夫なのだろうかという不信仰に陥りがちであります。神を畏れ、礼拝する生活が疎かにされそうになります。しかし、そんな私たちを、神様はお見捨てになりません。不信仰な私たち自身にはシオンへの道(礼拝に立ち帰る道)を歩む資格はありませんが、神様が私たちを買い戻してくださる(贖ってくださる)ので、捕囚から解放されるのです。不信仰から救い出されるのであります。そして、何者にも邪魔されることなく、無事にシオンに帰らせていただくことが出来るというのです。

結.喜び、躍れ

最後に、10節の2行目から、こう言われています。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。――シオンに帰る喜び、礼拝することの喜びを忘れそうになっていたユダの人々、そして私たちでありますが、「とこしえの喜びを先頭に立てて」、主によって備えられた「聖なる道」を進んで、遂に「喜び歌いつつシオンに帰り着く」、と約束されています。そこで迎えてくれるのは、「喜びと楽しみ」であり、「嘆きと悲しみは逃げ去る」のであります。花もない、水もないような「荒れ野」の生活から、一面に花が咲き乱れ、命の水が湧きいでるシオンの地、喜びと楽しみに満ちた礼拝生活へと立ち戻るのであります。私たち自身には、そのような道を進む資格も信仰もありません。しかし、神様は私たちのために、そのような「聖なる道」を主イエス・キリストの贖いの故に、備えてくださるのであります。私たちはただ、喜び歌いつつ、その道を歩ませていただくだけであります。一人でも多くの人がこの道を歩むことが出来るよう、祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 
私たちは、あなたを蔑ろにした罪の故に、審きを受けざるを得ない者であり、滅ぶべき者でありますのに、小羊なる主イエス・キリストの血の贖いの故に、花が咲き命の水が湧き出るシオンの地へ連れ戻してくださいます約束の御言葉を聴くことが許され、感謝いたします。
 私たち自身、シオンの地の喜びを忘れてしまいそうになる者でありますが、どうか、この恵みに満ちたあなたの計らいを絶えず思い起こして、喜び勇んで、「聖なる道」を立ち戻る者とならせてください。
 
どうか、礼拝から遠ざかり、あなたが備えておられる喜びから離れている人たちを、連れ戻してください。どうか、荒れ地においても、共々に花を咲かせ、命の水に与る者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年8月25日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 34:1−35:10
 説教題:「
荒れ野よ、喜び躍れ」         説教リストに戻る