序.残りの生涯をどう生きるか

私たちがこうして礼拝に来て、神様の前に立つ時に、いつも問われることは、<これまで、あなたはどのように生きて来たのか、そして、これから、どう生きようとするのか>ということであります。これはある意味で大変厳しいことでありますが、神様がそれほどに私たちのことを心配してくださっていることの証しであり、生きる新しい力を与えられる恵みの時であります。
 今日与えられております箇所の42節に、それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです、とあります。ここでも、私たちの「残りの生涯」をどう生きるかが問われています。「残りの生涯」という言い方は、高齢の人に対する言い方のように聞こえるかもしれませんが、聖書がここで語りかけているのは、高齢者だけではなくて、信仰に入ってからの残りの生涯という意味ですから、若い人にも呼びかけているわけですし、まだ信仰を告白していない求道者であっても、もし洗礼を受けたら、残りの生涯をどのように生きたらよいのかを教えようとしているのであります。
 
5節をご覧いただきますと、こう書かれています。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。――これは終わりの日の裁きのことを言っているのでしょうが、その時には、既に死んだ者も、まだ生きている者も、主の前に立って、自分のそれまでの生き方について、申し開きをしなければならないのであります。大変恐ろしいことでありますが、その時のためにこそ、主は今から残りの生涯をどう生きるかを考え直す機会を与えてくださっているのであります。
 
更に7節を見ますと、万物の終わりが迫っています、とも記されています。この言葉には、この手紙が書かれた頃の教会の緊迫感が反映しています。当時は、終わりの日がすぐにでも来ると考えられていました。厳しい迫害の中にありましたから、一日も早く終わりの日が来て、主の決定的な勝利によって解放されることを待ち望んでいました。では今はそういう切迫した状態ではないのかというと、そうではありません。時間的なことは分かりませんが、「万物の終わりが迫っている」ことには変わりがありません。明日、終わりの日が来るかもしれないのです。だから、躊躇せずに、残りの生涯をどう生きるかを決断しなければならないのです。主日ごとの礼拝の場は、そういう意味で神様が与えてくださっている、かけがえのない機会なのであります。
 
主は今日、ペトロの手紙を通して、私たちにどのような生き方をお示しになるのでしょうか。

1.かつての欲望と偶像礼拝の生活

さて、これからの新しい生き方について聞く前に、かつての生き方がどのようなものであったかを振り返っておきましょう。それは3節に書かれています。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた、と。――「異邦人が好むようなこと」と書かれています。この言葉で、先週のルカ福音書の説教を思い出した方がいらっしゃるかもしれません。私たちが衣食住など、この世の富のことで思い悩むのは、「世の異邦人が切に求めているもの」と同じだと言われていました。「異邦人」というのは、真の神様を知らない人という意味です。ここでも、私たちが真の神様に出会う前、即ち、信仰を持つに至る前のことが書かれています。
 ところが、その後に並べられていることは、可なり乱れた状態で、自分の過去の生活はこれほど悪くなかった、と思われるかもしれません。しかし、ここで並べられていることが示していることは、最後に偶像礼拝が挙げられていることからも分かりますように、神に従うのでなく、人間の欲望や自分の思いに従って生きる生き方であります。そういう意味では、誰もが陥っていた生き方である筈であります。もちろん、キリスト者になる前も、自分のことだけでなく、家族や友人や隣人のことも考えて生きてきたし、他人に迷惑をかけず、むしろ他人に役立つような生き方を目指して来た、と言う方は多いかもしれません。しかし、聖書は、本当にそうであろうか、と問いかけているのであります。問われているのは、キリスト者になる前のことだけではありません。私たちが神様と出会い、信仰を持った後でも、ここに挙げられているような生き方をしているのではないか、自分の思いではなく、神様の御心に従って生きているであろうか、神様以外のものに心惹かれて、そちらの方を大切にしてしまっているのではないか、と問われているのであります。これは、毎週教会に来て、礼拝しておれば大丈夫という問題ではありません。仏壇を拝まず、神社にも行かなければ偶像礼拝をしていないかというと、そうではありません。先週も聞きましたように、様々なこの世の富が私たちの中で偶像化されてしまいます。礼拝で神様の言葉として聞くことに従うよりも、自分の都合や自分の誉れを優先してしまいます。それは偶像礼拝であります。神様を蔑ろにしてしまっているのです。それは、好色、情欲、泥酔などと書かれていることと、本質的には変わらないのです。私たちはそのような罪深い生活を今も続けていることを認めなければなりません。
 
そこで聖書は、3節の最後で、もうそれで充分です、と言っております。ちょっと皮肉っぽい言い方ですが、もういつまでもそのような生き方を続けるのを止めなさい、ということです。
 
では、そうした神様のことを知らない異邦人のような生き方をすることから離れることは、何の問題もなく簡単に出来ることなのでしょうか。この手紙の宛先の小アジアの諸教会の信者たちは、周囲の異邦人たちに大変苦しめられていたということは、これまでも聞いて来たことであります。4節はそのことを言っております。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。――キリスト者が神様の言葉に忠実に生きようとするとき、それを不審に思うだけでなく、そしるようになるというのです。自分の我侭や自分の欲望と戦うだけでなくて、周囲の人の無理解や反発と戦わなくてはならないということです。これは難しい戦いであります。周囲の人々というのは、元々良い関係の人であれば、私たちがキリスト者になって自分たちと違う生活を始めることを不審に思ったとしても不思議ではありません。しかし、やがて、キリスト者は、自分たちの生活に同調できない生き方をすることが分かって来ると、彼らはキリスト者に反発を覚えざるを得なくなります。私たちはそのような躓きを与えないように配慮することが必要ですが、配慮ばかりしていると、結局、こちらの信仰が崩れてしまいます。どうしても、どこかで戦いが必要になります。これは、信仰を持っていない人たちとの戦いというよりも、自分自身の信仰の戦いであります。では、どのようにして戦えば良いのでしょうか。

2.肉に苦しみを受ける

最初の1節に戻ります。こう記しています。キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
 
私たちの信仰の戦いの原点は「キリストが肉に苦しみをお受けになった」ということにあります。ここで「肉」というのは、「肉体」という意味もあって、主イエスが十字架上で肉体の苦しみを受けられたことも指していますが、それだけでなくて、「肉」というのは人間の罪深さを指す言葉で、主イエスは人間の罪深さに苦しまれたということであります。つまり、私たち人間は、信仰を持っていない人はもちろん、信仰を持っている人も、神を神として崇めず、御心に従わない罪深さを持っているわけで、主イエスがその人間の罪の故に十字架の苦しみを担われたということが、私たちの信仰の戦いの原点なのであります。
 
そして、この原点に立って、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と教えています。ここは、口語訳聖書では「同じ覚悟で武装しなさい」と訳されていました。「心構え」よりも「覚悟」の方が強い意志が感じられる言葉ですが、大切なことは、「キリストと同じ」覚悟であり、心構えである、とういうことです。私たちが初めて独りで戦うのではありません。私たちの苦しみはキリストが既に苦しんでくださった苦しみであり、キリストが既に戦ってくださり、勝利を勝ち取ってくださった戦いであります。
 
「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」と言っております。「肉に苦しみを受けた者」とは、冒頭にもありましたように、人間の罪に苦しむ者のことで、自分自身の罪と神様を知らない周囲の人たちの罪に苦しむ者ですが、その者は、「罪とのかかわりを絶った者」だと言い切っています。大変強い言葉になっています。確かに主イエスは罪との関わりを絶たれました。だからこそ、十字架にお架かりになりました。けれども、私たちは罪との関わりを絶つことに躊躇する側面があります。周囲の人たちとの関係も気になって、異教的なものとの関係を断ち切れないところがあります。しかし、主イエスと同じ心構えで武装するということは、主イエスと一緒に罪との関わりを絶つ覚悟で臨むということであります。何も周囲の人たちと喧嘩せよとか、周囲の人を否定せよと言っているのではありません。主イエスの負われた苦しみと同じ苦しみの一端を担うということであります。その覚悟、その心構えで臨むとき、主イエスの勝利が私たちにも与えられるということです。
 
2節に進むと、それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです、と言っております。1節で教えられたような心構えで生きるということは、先程3節で見たような、人間の欲望に従って生きるのではなく、神様の御心に従って、これからの生涯を歩み続けるということになります。「肉における残りの生涯」と言っております。神様の御心に従って生きる決心をしたら、「肉」との戦い、罪との戦いがなくなるわけではありません。自分自身や周囲の人たちの罪に苦しむことは続きます。しかし、その中でキリストと同じ心構えをもって武装するなら、御心に従った生涯を生き抜くことが出来る、というのです。
 
6節の言葉は、非常に難解だとされています。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。ここで言われていることは3章の19節で、「そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました」と書かれていたことと関係があると考えられます。しかし、死んだ者にも福音が告げ知らされるということが何を意味するのか、難解であります。けれども私は、ここで言おうとしていることは、信仰を持たずに死んだ者にも、福音が知らされ、救いに入れられる可能性が残されているということが言われていると解釈したいと思います。私たちの周りには、信仰を持たないまま生涯を閉じる人が多くあります。何とか救いに入ってもらいたいと願いますが、その願いも叶わないまま亡くなることがあります。人間の見方からすれば、救われる望みも絶たれたとしか考えられないのですが、神様は終わりの日が来るまでに、私たちが考えの及ばない仕方で、そうした人をもお救いになる可能性があるということを示唆していると受け止めたいと思います。

3.思慮深く、身を慎み、よく祈る

7節以下では、改めて「万物の終わりが迫っています」と言われています。その時までに悔い改めて信仰に入らなければ、もはや救いの可能性はなくなります。私たちが優柔不断で曖昧な態度をとっている場合ではないことを告げています。私たち自身もそうですが、私たちの周囲の愛する人たちも、同様であります。
 では、私たちはどうすればよいのでしょうか。残された生涯をどのように生きればよいのでしょうか。この段落には大切ないくつかのことが書かれています。
 
まず、7節では、だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい、と勧められています。「思慮深くふるまう」と訳されている言葉は、理性をしっかりと保ち続ける、分別を持ち続ける、冷静に受けとめるという意味を持ちます。終わりが近づいているからといってあたふたとするのでなく、事態をしっかりと把握するということです。私たちは既に主イエスによって救いの道筋は示されているのであります。だから迷うことなくその道を進むだけであります。「身を慎む」という語は、元来「酔わない」と言う意味の言葉だそうです。陶酔して夢見心地の生き方をするのでなく、また反対に、自堕落になって責任放棄するのでなく、分別と責任を持つということであります。救いの道筋を知らされている者として、責任ある発言なり行動をするということであります。それに加えて、「よく祈りなさい」と勧められています。理性的に、冷静に、そして責任ある生き方をするだけでは、信仰者の生き方とは言えません。いくら理性的で、責任ある行動をするといっても、人間の知ることには限界がありますし、人間が行うことには間違いもあります。大きな道筋は弁えているつもりでも、日々の営みの中で、まだまだ罪を犯してしまう弱さがあります。ですから、絶えず、神様との対話をしながら歩むべき道を教えられなければなりません。そのためには祈りは欠かせません。

4.愛は多くの罪を覆う

次に8節、9節ではこう教えています。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。――ここまでは神様との関係における私たち自身のありかたについて教えられて来たのですが、ここでは他の人との関係について教えられています。他の人との関係で何よりもまず大切なことは「心を込めて愛し合う」ことだと言われています。その具体例として「不平を言わずにもてなし合う」ことが勧められています。聖書の世界では、旅人をもてなすということが大切なこととされていました。見ず知らずの人をもてなすのはトラブルが起こりかねず、勇気のいることですし、煩わしいことでもあります。そこで必要になるのが、愛の心であります。今では見ず知らずの旅人をもてなすという場面はあまりありませんが、大きな災害が起こった場合などに求められるのがもてなし合いであります。しかし、気心を知らない者たち同志が身近で助け合わなければならないときに、どうしても出て来てしまうのが、人間の罪であります。今、災害の時の話をしましたが、平常時におきましても、自治会活動や近所づきあいの中で、思いがぶつかり合うことがあります。結婚を通して二つの家庭が初めて交わりをする時も、それまでの全く違う生活体験や習慣がぶつかり合います。また、このペトロの手紙では、異教徒の中でのキリスト者が受ける軋轢のことがずっと取り上げられて来ました。人間が社会生活を営む時に、異質な習慣や考え方でどうしてもトラブルが起こります。そしてそこに罪が持ち上がって来ます。教会の中でも例外ではありません。そうした時にキリスト者はどうあるべきかが問われます。聖書は言います。「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」これは愛の働きを大変的確に言い表していると思います。「罪を覆う」というのは「罪を赦す」ということに他なりませんが、上から目線ではなくて、広い愛で包むようにして赦すということであります。「覆う」と言いましても、大目に見るとか、目をつぶるということではありません。主イエスによって開かれた赦しの道を共に歩むということであります。人は誰でも神に対して罪を犯しているように、人に対しても、どんなに親しい間柄であっても、罪を犯してしまいます。トラブルが起こるときに、一方だけが悪いということは極めて稀であります。ですから、双方が神の前で神の大きな赦しの愛を覚えて、互いに赦し合わなければなりません。主イエスは山上の説教の中でこう教えられました。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない」と。まして、終わりの日、最後の裁きの時が迫っているのであります。まず、互いに赦し合って、目の前のトラブルを解消しなければ、間に合わないかもしれないのです。主の愛に立ち帰るならば、目の前の人の罪を赦すことが出来ますし、自分の罪を赦していただけるのであります。

5.恵みの管理者として

10節には、すばらしい勧めが語られています。今日の段落の小見出しにもなっており、今日の説教題にもなっている言葉であります。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい。ここで「賜物」という言葉が2回出て来ますが、その言葉は「恵みの管理者」と言われている「恵み」という言葉と同じ語源であります。私たちキリスト者は神様から大きな恵みの賜物を授かっているのです。そして、その恵みの賜物の善い管理者としての役割を与えられているのです。だから、その恵みの賜物を生かして用いなければならない、と言うのです。では、その「恵みの賜物」とは何でしょう。それは、言うまでもなく罪の赦しという賜物であります。十字架の主イエスの犠牲の故に、一方的に与えられた赦しの恵みであります。その赦しを受けた私たちは、それを最大限に生かす役目を与えられているのであります。それをうまく生かさないでは管理者として失格であります。「愛は多くの罪を覆う」と言われています。私たちの小さな愛が罪を覆うのではありません。神の大きな愛が私たちの罪も、私たちと不幸な関係に陥っている他の人の罪をも覆い尽くすのであります。私たちはその恵みを語ることが出来るだけです。
 
11節には、こう書かれています。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。――「神の言葉を語るにふさわしく語る」とは、神の大きな赦しの恵みを受けた者に相応しく語るということであります。それはもちろん、神の赦しの福音を語るということでありますが、人の罪を赦さずには語れない筈であります。牧師としてそれが出来ているかと問われるならば、出来ていないので、万物の終わりの日が迫っていることを恐れなければならない者であります。どうか、皆様も、もし赦せないことがあるなら、一刻でも早く、神の大きな赦しを覚えて、人を赦す者となり、また赦しの恵みの賜物を授かった者として、人々の赦し合いを管理できる者になっていただきたいと思います。

結.神が栄光をお受けになる

最後に11節後半で、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです、と語られています。私たちは自分の正しさを主張し、うまく行かないことの責任を他人に転嫁して、自分の栄光を輝かせようといたします。しかし、それでは、「万物の終わり」を喜んで迎えることは出来ません。しかし、神様の愛と赦しに満ちた大きな栄光と力が私たちを覆っているので、そのことに気付けば、私たちもまた、人の罪を覆うことが出来る者とされます。そして、教会や社会において、神がお与えになった力に応じて奉仕することさえ出来る者とされるのであります。
 
栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、と心から祈り、賛美しつつ、残された生涯を歩む者とされたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたの大きな愛を受けながらも、あなたを蔑ろにし、自分中心に生きて来た罪深い者でございます。そのような者をも、イエス・キリストの故に、なおも赦してくださって、恵みの管理者としての役割を与えてくださっていることを覚えて、感謝いたします。
 
私たちの愛は、なお小さく、罪を覆う働きに相応しくありませんが、どうか、あなたの恵みの愛が、聖霊において働いてください。
 
どうか、私たちの残された生涯が、キリストの歩みに合わせられるものとされますように。また、この小さな群れが、この地にあって、あなたの御栄光と力の一端でも表わす働きをすることができますように、お導きください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年8月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 4:1−11
 説教題:「
恵みの管理者」         説教リストに戻る