序.心配は尽きない

今日の説教の箇所は、予告では1222節から40節までとしておりましたが、22節から34節までと改めさせていただきます。
 
先週はすぐ前の13節から21節までの段落の御言葉を聴きました。そこでは、ある金持ちが遺産分けのことについて主イエスに相談を持ちかけたところ、主イエスは「貪欲に用心しなさい」と言われて、一つの譬えを話されました。それは、畑が豊作だったので倉庫を建て直して、そこに収めて、これで安心と、食べたり飲んだりしていると、神様が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたという話で、その話のあと、主イエスは「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われたのでありました。そこで教えられていることは、命の主権者は神様であるということを忘れて、貪欲に陥って、地上に富を積むことの愚かさであり、神の恵みを覚えることにこそ、本当の豊かさがあるということでありました。
 
今日の箇所はその続きであります。一読して、先週の箇所と話の主旨が似ているとお感じになったかもしれません。というのは、どちらも「富を積む」ということに関連することが語られていて、先週の箇所では、地上に富を積んでも、神の前に豊かにならない者の愚かさが述べられているのに対して、今日の箇所では、33節のところで「富を天に積みなさい」と言われているからであります。
 
それならば、今日の箇所は先週の箇所の繰り返しで、二番煎じかというとそうではありません。むしろ先週の箇所で言われたことを更に発展させた内容になっていると言えるのではないかと思います。注意して比較しますと、主イエスが話された相手は、先週の箇所は13節にありますように、「群衆の一人」に対して語られたのでありました。恐らく、まだ信仰を持っていない人であります。それに対して、今日の箇所は22節にはっきりと書いてありますように、「弟子たちに言われた」ことであります。先週の人は、遺産の相談に来るくらい、金持ちの人であったのでしょう。持てるものの悩みを相談に来たのであります。それに対して今日の箇所では、日々の生活のことで思い悩んでいた貧しい弟子たちが相手であります。先週の人との話では、ますます豊かになろうとする「貪欲」ということが問題にされていたのに対して、今日の箇所では、日々の衣食に関する「思い悩み(心配)」のことが問題にされています。そういう意味では、より私たちにとって身近な問題が取り上げられていると言えるでしょう。また、弟子たちということで、私たちの教会生活とも重なり合うところがあります。32節では「小さな群れよ」という呼びかけもなされています。教会の群れの貧しさ、経済的な貧しさや教勢の上での貧しさ、信仰の弱さと、それに伴う思い悩み(心配)のことについて、思い巡らすことへと導かれるのであります。そういうわけで、今日の箇所は今の私たちにとってより切実な問題を投げかけてくれる箇所ではないかと思います。
 
そのように、先週の箇所と今日の箇所では問題の対象が若干違うわけですが、ここで「富」と言われているものは、金・土地・建物とか食べ物や衣服といった目に見える富のことだけでなくて、それぞれの人間の持つ能力・知識・地位・名誉なども含めて考えてよいと思います。そういうこの世の富については、どこまで得られれば満足でき、どこまで得なければ困るのかというはっきりとした線を引くことが出来ないものであって、相対的に富んだ者であっても、貧しい者であっても、私たちの「思い悩み(心配事)」は尽きないわけであります。富める者には富める者の悩みがあり、貧しい者には当然苦しみさえ伴う悩みがあるわけであります。今日の箇所はそうした私たちの日常の「思い悩み(心配事)」について、主イエスは重要なメッセージを語っておられます。しかも、そのメッセージというのは、単なる処世訓ではありません。どの宗教も、人間の思い悩みに対して、何らかの解答を与えようとしますが、主イエスの解答は、他の宗教家や道徳家の答えとは根本的に違います。そこをよく聴き取りたいと思います。

1.思い悩むな

さて、今日の箇所に入りますが、この箇所のキーワードの一つが、先程からも触れていますように、「思い悩む」という言葉で、(新共同訳では)4回出て来ます。心配するということであります。
 
まず2223節で主イエスはこう語っておられます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」――ここで「命」というのは「食べ物」によって支えられ、「体」というのは「衣服」によって装われるというように単純化されていますが、大切なのは「命」や「体」であって、「食べ物」や「衣服」は大切な「命」や「体」を支えるものに過ぎない。だから「食べ物」や「衣服」のことで「思い悩むな」と言われています。それなら、「命」や「体」のことで「思い悩む」のは良いのかというとそうではありません。その後で自然界の動物と植物の例を挙げて、何が大切かを教えておられます。
 
まず、24節から26節では、「烏(カラス)」のことが取り上げられていて、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事を思い悩むのか。」――ここで大切なのは、「神は烏を養ってくださる」ということです。そのように、私たちも神様が養ってくださるのだから、思い悩むな、とおっしゃっているのであります。つまり、私たちの問題点は、神様との関係のことが忘れられている、ということであります。そこに「思い悩み」の根本原因があるという指摘であります。
 
次に、27節から28節では、「野原の花」のことが取り上げられていて、「野原の花がどのように育つか考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」――主イエスが言おうとしておられることは、烏の場合と同じで、「神は装ってくださる」のだから、思い悩むな、ということであります。神様の恵みを忘れて思い悩んでしまうので、「信仰の薄い者たちよ」と言われるのであります。
 
続けて2930節では、烏と野原の花の例によって教えられたことのまとめが語られています。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。」――ここに「異邦人」が出て来るのは、彼らは神様を知らないから、食べ物や衣服のことで思い悩んでしまうけれども、あなたがたは父なる神様が必要なものは与えてくださることを知っている筈ではないか、ということです。それだのに、その神様を見失ってしまっているのではないか、そのことが思い悩みの根本原因だ、とおっしゃりたいのであります。
 
ティーリケという人は、「思い悩む」ということは偶像礼拝だと言っております。つまり、食べ物や衣服のことで私たちが思い悩む時には、それらが偶像になってしまっているということであります。このことは食べ物や衣服だけでなく、先程も挙げた、お金・能力・知識・地位・名誉などと言ったものも、偶像になりやすいものであります。
 
ところで主イエスは烏や野原の花を模範として話されたのですけれども、だからと言って、何もしないで無為に過ごす怠惰な生活を勧めておられるのではないことは、言うまでもありません。人間は働くべき者であるということは、旧約聖書以来、神様によって示されて来たことであります。大切なことは、私たちが働いている中でも、神様への信頼を失ってはならない、ということであります。

2.神の国を求めよ

このように、主イエスは、神様が養ってくださり、必要なものを与えてくださるということを信頼しておれば、思い悩むことはない、ということを教えられたのでありますが、続けて、31節では、反対に、積極的に求めるべきものがあることを述べておられます。それは、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」ということであります。
 
「神の国」とは、どこかに遠くに理想の国があるということではありません。「神の国」とは神様の御支配のことであります。私たちは、何でも自分が支配しコントロール出来る範囲を拡大したいと思います。先週の譬えの金持ちも、大きな倉を作って、作物を保管してコントロールすれば、安心だと思ってしまいました。しかし、命を支配しておられるのは神様でありました。全てを支配し、コントロールしておられるのは神様であります。その神様の御支配を信頼するということが「神の国を求める」ということであります。
 主イエスは伝道を開始されると、「神の国は近づいた」と宣言されました。神の御支配が近づいたということであります。そして、その御支配は、権力を振るって、敵を力でねじ伏せるというやり方で実現されるのではなくて、人々のために御自分の命を十字架に架けるという仕方で実現されたのでありました。そのようにして罪の世を御支配なさったことを信じ、その神様を信頼することが、「神に国を求める」ということであります。
 
主イエスは「神に国を求めなさい」と言われたのに続いて、「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と約束しておられます。口語訳聖書では、「これらのものは添えて与えられる」と訳されていました。「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩んで」いたものでありますが、衣食に限定する必要はありません。先程から挙げて来たような、私たちが生きるために切実に求めて来た、富や知識や能力などが含まれると理解できます。しかし、それらを得ることが最終の目的ではありません。あくまでも「加えて(添えて)」与えられるのであります。けれども、神様はこれらのものが必要であることをご存知であります。そして必要なだけ与えてくださる、と約束されているのであります。ある人は、このことをこんな譬えで語っています。赤ん坊は母親がどこかへ行くと、泣きわめきます。その赤ん坊に、それミルクだ、おもちゃだと渡しても、泣き止みません。ただ、母親が戻って来たら泣き止みます。母親が来れば、乳は加えて与えられます。そのように、神様が私たちの近くにいてすべてを御支配しておられることを信頼できれば、すべての必要をご存知である神様が満たしてくださるのです。だから、安心して神の国を求めればよいのであります。神様の御支配を信じておればよいのであります。

3.小さな群れよ、恐れるな

 更に主イエスは32節でこう言っておられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」――この主イエスの言葉を聞いている弟子たちの群れはほんの「小さな群れ」でしかありませんでした。ルカ福音書が書かれた1世紀末であっても、強大なロ−マ帝国の支配の中で、教会はまだ小さな存在でしかありませんでした。ユダヤ人からの迫害があり、やがてローマ帝国からの迫害も受けるようになります。そうした中で、教会は思い悩み、大きな恐れの中にありました。私たちもまた、今日の状況の中で、教会は内にも外にも危うさを抱えていて、先行きを恐れています。今、私は日本キリスト教会の教育委員会のお仕事をさせていただいております。教育委員会の主な仕事は「日曜学校」という教案誌を発行することです。ところが最近、その購買数がジリジリと減っているのであります。それは、読者である日曜学校教師が少なくなっているということであり、それは、日曜学校に来る生徒が減っていることを反映しています。
 
その先には、教会がますます「小さな群れ」になって行くことが予想されます。先日の教育委員会でもそのことが大きな危機感をもって話し合われました。そのように、教会は今、ますます「小さな群れ」になって行くことを恐れざるを得ない現状にあります。私たちの米子伝道所も同様であります。ちょっとしたことが起れば消えてしまいかねない「小さな群れ」であります。しかし、主イエスはそんな私たちに、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束しておられるのであります。教会も、ここが足りない、あそこが問題だと指摘できる問題をいっぱい抱えています。そしてあれが欲しい、これが足りないと思い悩んでいます。しかし、そんな私たちのことを主イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われるに違いありません。そして、「それはみな、(神様を知らない)異邦人が切に求めているものだ」と言われるに違いありません。父なる神は、私たちの教会に必要なものを全部ご存知であります。私たちは、「ただ、神の国を求め」ればよいのです。そうすれば、必要なものは加えて与えられるのであります。父なる神様は、「喜んで神の国をくださる」と言われています。神様は全世界を御支配なさっています。そして、この「小さな群れ」もその御支配に一端を担うことを許されるのであります。先程読んでいただいた旧約聖書の申命記76節以下には、神の民であるイスラエルの民が神様によって選ばれた理由が述べられています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記778)と。これと同じことが私たちと教会についても言えるということです。私たちの目には必ずしもはっきりと見えているわけではありませんが、主の日ごとに行われる礼拝において、主の救いの業は行われていて、主の御支配は着々と進められているということであります。そのことを信じたいと思います。

4.富を天に積む――自由へ

では、このような約束の言葉を与えられている教会とそれに属する私たちは、どのように生きればよいのでしょうか。33節ではそのことが語られています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこでは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」と言われています。
 「自分の持ち物を売り払って」貧しい人々に「施す」ことが富を天に積むことになると言われています。これはなかなかハードルの高い要求のように受け取れます。福音書の別の箇所に「金持ちの青年」の話があるのをご存知だと思います。金持ちの青年が主イエスのところにやってきて、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問しました。すると主イエスは「掟を守りなさい」とおっしゃいました。青年は、「掟ならみな守って来ました」と言います。すると主は、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われました。今日の箇所とほぼ同じことを言われたのであります。結局、青年は悲しみながら立ち去りました。けれどもここで主イエスが求めておられる大切なことを聴き落としてはなりません。大切なのは「自分の持ち物を売り払って施す」という行為そのものではありません。大切なのは「富を天に積む」ということであります。「富を天に積む」とは、今日の箇所で学んで来たように、地上の諸々の富に信頼しないで、神様に信頼するということであります。地上の富を偶像化しないで、必要なものは神様が備えて下さることを信じるということであります。だから、もう自分が持っているものに固執することがなくなり、それらから自由にされるということです。「持ち物を売り払って施す」という主イエスの言葉は、私たちに大きな犠牲を要求するような気がしてしまいますが、実は、富に縛られた状態から私たちを解き放って自由にする言葉であります。ここに、貪欲からも、思い悩みや恐れからも解放された自由な生き方があります。こうして、天に積まれた富は、擦り切れる心配はないし、盗人に狙われることもないし、虫に食い荒らされることもありません。最も確かな財産であります。
 
最後に34節でこう言われています。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」――私たちの心は、自分が最も大切にしているものに向けられます。この世の富を大切に考えていれば、私たちの心はそこに縛り付けられます。しかし、私たちが神の国のことを大切にしておれば、私たちの心は神の国で満たされるということです。私たちの心は神様の御支配を受けて、私たちを縛り付けるすべてのものから解放されるのであります。それが神の国に入るということであり、永遠の生命に生きるということであります。

結.主はすぐ近くに

結びとして、フィリピの信徒への手紙でパウロが記している言葉を聞きたいと思います。フィリピ4:4−7(p366)をご覧ください。
 
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」――主イエスは今日も私たちのすぐ近くに来られて、すべてのことを心から神様に委ねることによって、あらゆる思い悩みから解放される幸いへと招いてくださっています。 祈りましょう。

祈  り

今日も私たちの近くに来てくださり、神の国の御支配のもとへと招いてくださる主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちは信仰が薄く、地上の富や誇りのことで思い悩むこと多く、それらに縛られているものでございます。しかし、そのような者をもこうして、礼拝にお招きくださり、御言葉によって主の許にある自由へと、解放してくださいましたことを感謝いたします。
 
また、私たちの小さな群れがサタンの様々の妨げによって乱されることを恐れておりますが、あなたに信頼しているならば、神の国をくださるとの約束をいただくことが出来て、ありがとうございます。
 
どうか、あなたから賜わっているすべての富を、天に積むことのできる者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年8月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 12:22−34
 説教題:「
思い悩むな」         説教リストに戻る