序.何のための命か

今日のルカによる福音書1213節以下の箇所は、一読しただけでよく分かるのではないかと思います。
 
ある人が兄弟との財産分与のことで主イエスに相談に来た。ところが主イエスは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とおっしゃって、相談に乗ることを拒否された上で、「貪欲に注意しなさい。人の命は財産によってどうすることもできない」と警告を与えられて、一つの簡単な譬え話をされた。ある金持ちの畑が豊作であったため、作物をしまっておく場所がない。そこで倉を建て直して、これで安心と思った途端、神様が「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われた。そして主イエスは最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と語られた。
 
要は、地上の富のために貪欲になって、いくら富を積んでも、死んでしまったら何の役にも立たない。地上の富を積んでも、天国には持って行けないのだから、天国に富を積みなさい、という教えだと理解出来ます。しかし、地上に富を積むことの愚かさとか、貪欲を慎めという教えであれば、改めて主イエスに教えていただかなくても、他の宗教家や道徳家でも言うでしょうし、私たちも人生経験を積む中で、弁えていることではないかと思います。普通の道徳訓と少し違うのは、「神の前に豊かにならない」のでは生きる意味がない、言い換えれば「天国に宝を積め」という教えですが、これもクリスチャンであれば何度も聞いていることで、特に異論はないと思います。
 けれども、そういう聞き方で、この箇所の主イエスの御言葉を聴いたということになるのでしょうか。別に難しく考える必要はありませんが、ここで主イエスは私たちの命について、つまり私たちの生き方について問うておられる、そして、豊かさに満ちた命、本当の生き甲斐を与えようとしておられる、そのことを聴かなければ、御言葉を聴いたということにはならないのではないでしょうか。主イエスは私たちに警告を与えたり、反省を促したりしてくださるだけではありません。私たちの生き方を変え、喜びに満ちた生き生きとした人生を与えようとしておられる、そのことを聴き取る必要があります。私たちの命とは、人生とは何のためにあるのか、そして「神の前に豊かになる」とはどのようなことなのか、そのことを今日の箇所から聴き取り、主が与えてくださる喜びに与りたいと思います。

1.だれがわたしを調停人に

そこで、もう一度、13節の、群衆の一人が主イエスの許に来たところから見て行きましょう。
 やって来たのは、群衆の一人であります。弟子の一人ではありません。主イエスの許に押しかけていた大勢の群衆の一人であります。彼は他の大勢の人たちと一緒に主イエスの話を聞いていたのでしょう。しかし、主イエスの話が心に響いていなかったのかもしれません。主イエスの話が自分の関心事と違っていて、神様の言葉として聴くことが出来ないでいたのではないでしょうか。――そんなことは私たちにもあります。礼拝で聞く聖書の話が他人事にしか聞こえなかったり、理想的な話だけれども現実とは結びつかないといった思いで聞くことがあるのではないでしょうか。
 
そこでこの人は、思い切って自分の当面の関心事について主イエスに相談を持ちかけるのであります。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」――当時のユダヤでは、ラビと呼ばれる律法の教師たちに、身近な問題を相談することは珍しいことではありませんでした。主イエスもラビの一人のように受け取られていましたから、この人なら遺産についての兄弟の理不尽な態度を改めさせてくれるのではないかと期待したのでしょう。ここには主イエスに対する一定の信頼をみることが出来ます。私たちが教会にやって来る場合にも、自分が日ごろ困っている問題を聞いてほしい、そして自分が期待している方向で解決してほしい、という思いがあるのではないでしょうか。
 ところが14節で、イエスはこの人にすぐにこう答えられます。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」――主イエスは、この人の相談に乗ることを拒否されました。それは何故でしょうか。ご自分はそういうこの世の面倒な問題の解決の専門家ではない、ということでしょうか。この世の専門家の扱う問題と、教会が扱える問題は別だ、ということでしょうか。あるいは、主イエスはどんな問題でも解決するお力はあるのだけれども、私たちの勝手な目的のために利用されるようなお方ではない、ということをはっきりとおっしゃった、ということでしょうか。確かに、私たちが主イエスを自分の都合の良いように利用しようとすることは間違っていますし、教会にこの世のどんな問題を持ち込んでも解決できるというものではありません。しかし、ここで主イエスがこのように答えられたのは、単にこの人の勝手な期待を否定されたということではありません。もしそうであれば、会話はここで途切れてしまった筈で、次の言葉は出て来なかったでしょう。会話をここで終わらせられなかったところに主イエスのこの人への愛があります。更には、この場にいた多くの人々に伝えたい思いがありました。

2.貪欲に用心しなさい

15節には、こう書かれています。そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。――「一同に言われた」とあります。「一同」とは、この人も含めた、その場にいた弟子たちや群衆であります。主イエスはすべての人に向かってお語りになります。私たちは皆、ここから語られる主イエスの言葉を必要としているのです。主イエスはこの人の中にある大きな問題、そしてそれは私たちの中にもある問題ですが、それに挑戦しようとしておられるのであります。挑戦という言葉が適切でないなら、問いかけと言ってもよいかと思いますが、この人の不満、怒りを起こさせる元にある問題点に迫ろうとしておられるのです。この人が受け取る遺産が増えさえすれば、それで解決する問題であろうか、という問いかけであります。この問題というのは、私たちの中にもある問題でもあり、主イエスが私たちに向かっても問いかけておられることであります。
 
主イエスは言われます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」――「どんな貪欲にも」と言っておられます。ですから、ここで貪欲というのは、ただ財産やお金に関係するものだけではなくて、あらゆるものを貪る欲のことです。肉体的・精神的な欲望・楽しみ、地位や名誉を得る欲望など、あらゆる欲望に関係することであります。もっと強い体になりたい、もっと美しくなりたい、もっと多くの知識を得たい、もっと皆から評価されたい、もっと高い地位を得たい、もっと多くのものを手の内に支配したいという欲望などが含まれます。この後に、「有り余るほど物を持っていても」と言われているように、「貪欲」というのは、持っていないものを欲しがるというだけではなくて、持っていても、もっとほしいと思う、もっと自分のものにしたいという思いであります。――こういう思いは誰にでもありますし、そういう向上心がなければ進歩も産み出せないという側面もあります。欲望を持つことがいけないとか、向上心など必要がないということではないでしょう。前向きなことに貪欲に取り組むことも必要であります。しかし、もっと多くのものを得て欲望を満たすということで満足してよいのか、と問いかけておられるのであります。15節の終わりで、「人の命は財産によってどうすることもできないからである」と語っておられます。私たちの命というのは、財産や地位や名誉をより多く手に入れることで満足することなのか、あなたの生き甲斐というのは、そういうことなのか、あなたの命、あなたの人生はそんなに安っぽいものなのか、と問いかけておられるのであります。
 パウロはコロサイの信徒への手紙3章(p371)の2節で、「上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と述べた後、5節でこう言っております。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」と。貪欲を満たすものを求めていると、真実の神を礼拝することが出来なくなって、貪欲を満たすものが神とされるようになるのであります。いつの間にか貪欲の虜になって支配されてしまいます。そんな人生で良いのか、と問うておられるのであります。
 
皆様は、自分はそれほど貪欲ではない、と思っておられるかもしれません。慎ましい生活で満足していると言われるかもしれません。確かに、豪邸に住んだり、高価なもので身を飾ったり、贅沢な食道楽をしておられるわけではないかもしれません。身の丈に合った生き方をしておられるのでしょう。しかし、生き甲斐をどこに求めておられるのか、生きることの喜びをどこに見い出しておられるのかというと、自分や家族が健康であって、この世の幸せや楽しみを出来るだけ豊かに持ち、自分の誉れや名誉が立てられることが目的になってしまっているのではないか。ささやかに欲望を満たしているだけと思いながら、いつの間にかそれが偶像になってしまっていないだろうかと、私自身、思わされます。そんな私たちに対して主イエスは、もっと大切な命があるのではないか、と問いかけておられるのであります。

3.命は取り上げられる

そこで主イエスは、非常に分かりやすい譬えを話されました。
 
「ある金持ちの畑が豊作だった。」――主イエスは貧乏で困っている人について語っておられるのではなくて、金持ちについて語っておられます。生活するには困っていない人であります。その人の畑が豊作でありました。豊作であっただけに悩んでいるのです。これまでの倉では入り切らないほどの豊作だったというのです。入らないものを貧しい人に提供するというようなことは考えなかったようです。それより、将来襲うかもしれない飢饉のことを考えて、自分の手元に置いておきたいと考えたのでしょう。結局、倉を大きいものに建て直して、そこに保管しておけば、仮に飢饉がやってきても安心だと、自分に向かって、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言うのであります。
 私たちはこれほどの金持ちではないかもしれません。しかし、与えられている範囲で、将来のために心配のないだけのことはしておこうと考えて、貯蓄をしたり、保険をかけたりします。堅実な考え方であります。金銭的な事柄だけではありません。自分や家族の将来の働きのために、能力を高めておこうと教育に投資をします。健康で丈夫な体を作るために体を鍛えます。こうしたことは極く当たり前のことで、批難に当たるようなことではないでしょう。主イエスも、そうしたことを批難しておられるのではないでしょう。
 
しかし、主イエスは譬え話を続けられます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」と。神はこの人に「愚かな者よ」と言っておられます。どこが愚かなのでしょうか。「愚か者」どころか、用意周到な「賢い者」であります。目先がきいています。ところが、今夜にも命は取り上げられるということを考慮に入れていなかった、ということです。せっかく用意した物は自分の役には立たなくなります。それは確かに愚かなことであります。しかし、神が「愚かな者よ」と言われるのは、用意した物が役に立たなくなることではありません。では、今夜にも命が取り上げられるかもしれないと考えて、生きている間に使いたい放題に使った方がよいということでしょうか。それとも、今夜にも死ぬかもしれないと考えると、人間は不安に過ごすしかないということでしょうか。そういう人間のはかなさを主イエスは教えようとされたのでしょうか。そうではないでしょう。では、主イエスはどこが愚かだと言っておられるのでしょうか。はかない命かもしれないということを弁えて、どうすればよいとおっしゃっているのでしょうか。
 この人の愚かさについて、色んな言い方が出来るでしょう。
 
<この人は、神様のことを考慮に入れていなかった点で愚か者であった>と言うことが出来ます。いずれは神様の前で申し開きをしなければならない時が来るのに、そのことを忘れていたということです。それに、この人は自分のことだけを考えて、周囲の人や困っている人のことを考慮している様子がありません。さびしい人生であります。心の豊かさがありません。それも確かに愚かなことであります。自分の豊かさのことだけを考えて、神様のことを忘れ、隣人のことを顧みなかった貧しさは、愚かなことであります。
 
別の言い方として、<この人は、自分の命のことを深く考えていなかった点で愚か者であった>と言うことができます。神は、「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたと主イエスは語っておられますが、この「命は取り上げられる」という言葉は、原語では「命を返還要求される」という意味です。つまり、私たちの命は神様からの預かり物であります。私たちは神様に生かされているのであります。その「命」とは何でしょうか。問題は肉体的な生命のことではありません。預かった命をどう生かすかということであります。「生き甲斐」というのは、神様から預かった命であれば、自分が満足して生きることではなくて、神様の喜ばれるような生き方をすることこそが本当の「生き甲斐」でしょう。そういう命のことを考えなかったところに愚かさがあると言えます。
 この二つの言い方の共通点は、自分のことだけを考えて、神様や隣人のことを考えなかったということの愚かさであります。

4.神の前に豊かになる

では、主イエスはこの譬えの人の、どこが「愚か者」だと考えておられるのでしょうか。どうあるべきだったとおっしゃっているのでしょうか。21節で、こう言っておられます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」――ここで主イエスはまず、「自分のために富を積んでも」とおっしゃっています。この点では、先ほど述べた二つの言い方と共通しています。この人は神様や隣人のことを考慮に入れず、自分のため、自分の富(自分の豊かさ)だけを考えていたところに愚かさがあった、ということです。しかし、主イエスは続けて、「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言っておられます。これはどういうことでしょうか。神様のことを考慮に入れていなかったということではありますが、「神の前に豊かになる」ということは、神様を豊かにするという意味、即ち、神様の栄光を輝かすという意味もあるでしょうが、考えてみると、私たちが神様を輝かせたり、豊かにすることが出来るのでしょうか。神様は私たちがお世話しなくても、十分に豊かなお方であります。だとすれば、ここで「神の前に豊かになる」とは、「神の前で私たちが豊かになる」ということであります。自分のために富を積むのではないけれど、神の前で私たちが豊かにされるということであります。先ほどの二つの言い方ですと、私たちは自分を殺して、神様や隣人のために仕えるという生き方が求められることになりますが、確かにそうした生き方に豊かさがあるとも言えるのですが、そういう回りくどいことではなくて、神様の前にいること自体の豊かさを言っておられるのではないでしょうか。主イエスはこの譬えによって、死の不安を呼び覚まそうとされているのではありませんし、神様と隣人に仕えよと言って、私たちが自己放棄することを求めておられるのではありません。神様の前には豊かさがある、食べたり飲んだりして楽しむ以上の喜びがある、ということを言っておられるのではないでしょうか。
 では、「神の前に豊かになる」とはどういうことでしょうか。以前に読書会で読みました、加藤常昭先生の『主イエスの譬え話』という本では、こう書いておられます。「神に対して富みなさいということは、神の前に立った時に、自分が、ほんとうにこのように生きていてよかったと神に対して知り得る生き方をすることです。神のまなざしにおいて値打ちのある生き方をし、神から、あなたは豊かに生きたと言っていただけるような生き甲斐のある生き方を作るかどうか。そのような問いが、ここで主イエスから投げかけられているのです。」――ここまでですと、神様から評価されるような、信仰者に相応しく、神様と隣人に仕える生き方をしたかどうかが問われているように思われて、確かにその通りなのですが、何か重い荷を負わされた感を免れないのですが、加藤先生は続けて、「そして、言うまでもなく、神に対して富むということは、そこで死に勝つ富に生きるということです。神にとっての富に生きる者は、そこで死を越える命に生きます。永遠の命を受け継ぎます。命の根源は神です。神が私どもにこの命を与えてくださっています。その命の根源である神の前で、神よ、あなたが与えてくださった尊い命を喜んで生きてきましたと言える、そのような生き方ができれば、いつ死んでもいい。いつでも死に備えて生きる生き方をすることになる」と言っておられます。
 
また、別の説教集で加藤先生はこう言っておられます。「神に対して富むとは、神の前で、いつでも自分を豊かな者として示し得るということです。それは、私どもが、精一杯正しい生活を作り上げて、たとえ物質的な財産には、何一つ誇ることがなくても、自分は正義に生きたと豊かな誇りを抱くことではありません。・・・そうではなくて、主イエスが告げる喜びは、迷い出た一匹の羊のような生き方をした者、家庭を捨てて飛び出し、放蕩の限りを尽くして絶望に沈む者に、喜びを告げ、平安を与える言葉です。あなたもまた喜びに招かれている。喜びの中に帰ることができる。あなたを待ち続ける父なる神のふところに帰ることができる。そうイエスは言い、また招かれる。神の前に立ち得る豊かさとは、まさにこの神ご自身を喜ぶことであります。この神を、私どもの財産とすることができるのです」と。つまり、神様の赦しの愛の中に生きるということであります。
 主イエスは、私たちのために、御自身という神の富を十字架の上に献げて、私たちを新しい命に生き返らせてくださいました。こうして私たちを神の前に豊かな者とならせてくださったのであります。神の前に豊かになるとは、このような恵みを備えてくださった神様の前に感謝してぬかずくこと、礼拝することであります。パウロはローマの信徒への手紙1133節で、こう叫んでおります。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。私たちは礼拝において、神様の前に出て、この豊かな富に与るのであります。

結.主イエスの息づかいに生きる

今日の箇所のすぐ前の12節で、主イエスは「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」と弟子たちに言っておられます。ある人は、「聖霊に深く信頼して生きることは、主イエスと同じ息づかいに生きることではないか。・・・主イエスは弟子たちに信仰の息づかいを与えて行こうとされている」と言っています。私たちが神の前に豊かになるということは、私たちが努力して出来ることではありませんが、礼拝において主イエスと出会い、主イエスの息づかいである御言葉の富に触れることによって、豊かにされるのであります。そして、私たちのような者も、主イエスの息づかいを受けて、その豊かさを人々に分け与える者となることが出来るのであります。パウロはガラテヤの信徒への手紙220節でこう言っております。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」このような豊かさに私たちも招かれているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

豊かさに満ち給う父なる神様!
 
今日も、あなたの豊かさの前に引き出されて、主イエスを通して与えてくださった限りない恵みに生かされておりますことを覚えて、感謝するとともに、御栄光を賛美申し上げます。
 
私たちの地上の命は、明日取り上げられるかも知れません。私たちの倉には、私たちの働きの結果の作物は何もないのかもしれません。しかし、私たちには、あなたによって備えられた豊かな恵みの富がありますので、何の心配もありません。
 
どうか、この地上にある間も、そして、地上の命を取り上げられた後も、あなたの前にあることの豊かさの中に留めてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年8月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書 12:13−21
 説教題:「
神の前に豊かになる」         説教リストに戻る