まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。  (イザヤ書3322

 南王国ユダは、アッシリアのセンナケリブ王によってエルサレムを包囲され、重い貢物を支払わねばならなくなっていた。そんな大きな苦難の現実の中で、預言者イザヤは、ただ単に嘆いたり、敵を呪ったりするだけではなく、神の憐みを求める祈りを捧げる(2)とともに、信仰において、将来の救いを見通している。
 イザヤの目には、敵が滅ぼされる時の来ることが見えている(1)。神の民を苦しめる者が横暴に振る舞う期間は限られているのだ。イザヤは祈りの中で、敵が退散する幻を与えられ(34)、正義と恵みを満たされる神を見上げ、「主を畏れることは宝である」(6)と言い切る。
 一方、目の前には、戦乱によって荒れ果てた大地が広がっている。そこには人間が神との契約を破った罪が見える(79)。だが、神はそのような状態を放置されず、立ち上がられるのを見る(1012)。預言者は、遠くにいる者()に対する裁きを語るだけでなく、近くにいる者(ユダの民)の悔い改めない人たちも裁きを免れないことを告げる(1315)。だが、イザヤはその先に「麗しく装った王」(17)が登場し、苦難から解放されることを告げ(1719)、新しいエルサレムの平安な様子を描く(2021)。これらの預言は、単に頭で思い描いた理想や夢ではない。イザヤは、信仰において、主が「我ら」の王であることを見つめているのである(22)。
 私たちはイザヤの時代とは違って、地上を歩まれた神の子イエス・キリストの救いの業を既に見ている。地上においては、なお罪が顔を出し、それ故に苦難が続く。しかし、イエス・キリストを信じる者には、終わりの日に王なるキリストの前に進み出る幸いが約束されている。
 苦難に遭うことは辛いことであるが、その中でこそ与えられる祝福がある。苦難の時こそ、神と向き合う絶好の機会なのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年7月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 33:1−24 説教題:「主は我らの王」   説教リストに戻る