序.苦難は祝福のとき

4月以来、月末の主日礼拝では、イザヤ書から御言葉を聴いております。今日与えられている33章の背景を振り返っておきましょう。南王国ユダの王ヒゼキヤは、預言者イザヤの言葉に耳を傾けず、アッシリアのセンナケリブ王に抵抗したため、結局、紀元前701年にエルサレムを包囲され、重い貢物を支払わねばならなくなりました。そうした大きな苦難の中で、預言者イザヤは、敵に対する災いを告げる一方で、ユダの民の救いのために祈ります。更には、主が王として立ち上がって、ユダの民を救ってくださることを宣言するのであります。
 
この箇所を通して、私たちが苦難に遭う時、どのような態度をとるべきかを学ぶことが出来ますし、何処に目を注ぐべきかを教えられるのであります。苦難に遭うことは辛いことではありますが、その中でこそ与えられる祝福があります。苦難の中で、不幸を嘆いたり、敵を非難しているだけでは、成長につながりません。しかし、苦難の時は神様と向き合う絶好の機会であります。苦難を、神様が与えられた懲らしめと受け止めて、自らを反省し悔い改めて、神様の方に向き直る機会とすることが出来るなら、人生にとっての大きな祝福を受けることが出来るのであります。
 
ところで、今日、与えられている33章の中には、「我ら」という言葉が何度も繰り返されています。これは、直接的にはユダの民のことですが、これを私たち教会の群れと読み替えて、困難な状況の中にある教会に対して語られた言葉として受け取ることも出来ますし、教会に連なる皆様お一人お一人に当てはめて、苦難に遭遇したときに聞くべき御言葉として受け取ることも出来ます。いずれにしましても、ここには、苦難を通して私たちを大きな祝福に導く言葉が連ねられております。今日は、与えられたイザヤの言葉を通して、神様の大きな祝福に与らせていただけたらと思っています。

1.苦難のときは祈りのとき

さて、1節は、災いだ、という言葉で始まっています。続けて、略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され、欺きを終えたときに、欺かれる、と厳しい言葉が語られています。これは、ユダ王国を苦しめ、略奪するかのように重い貢物を要求するアッシリアのセンナケリブ王のことを言っていると考えられます。ここでイザヤはセンナケリブ王の仕打ちを嘆き、呪っているように聞こえるのですが、単なる嘆きや呪いの言葉ではありません。イザヤは、信仰において、将来を見ています。「お前は略奪し尽くしたときに、略奪され、欺きを終えたときに、欺かれる」と言っております。やがてアッシリアが滅ぼされる時が来ることを見越しているのであります。実際、その後、新バビロニア帝国が起こって、アッシリアは滅亡することになるのであります。神の民には、神様を信頼しないで、力に頼ろうとする罪がありました。だから、略奪の苦難を受けなければなりませんでした。しかし、神の民を苦しめる者が横暴に振る舞う期間は限られているということです。
 
私たちも、罪のゆえに、苦難を免れるわけには参りません。しかし、私たちの悔い改めのために必要だと神様が定められた期間が過ぎれば、苦難を与える役目を与えられた者は去らねばならないのであります。
 
では、私たちは、苦難の中にある間、どのようにして過ごせばよいのでしょうか。2節を見ると、イザヤはこう言っております。主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。――これは祈りであります。苦難が続くと、神様に対する私たちの信仰が弱まってしまいがちです。祈ることさえ忘れてしまいそうになります。しかし、苦難の時こそ、私たちは神様の憐みを求めなければなりません。イザヤは、ユダの民を代表して、神様が朝ごとに(いつも)ユダの民の腕となり、救いとなってくださることを祈っています。
 
すると、3節にあるように、どよめきの声によって、もろもろの民は逃げ、あなたが立ち上がられると、国々は散る、と言います。神様が立ち上がって、介入を始められると、苦しめていた敵たちは逃げ去ります。そして、4節に、いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り、ばったが跳ねるように、人々はそれに飛びつく、とあるように、敵が逃げながら投げ出した略奪物を奪い返すことができる、というのであります。略奪物を奪い返す様子をいなごやばったの姿で表現しているのが面白いですが、砂漠地帯では、いなごの大群が押し寄せて、大量の作物を食い荒らすことがあります。神様に祈るならば、戦力などを用いなくても、不思議な力が働いて、簡単に奪い返すことが出来る、ということを言おうとしているのでしょう。
 
5節、6節は豊かな救いを与えてくださる神様に対する賛美が語られています。主は、はるかに高い天に住まわれるお方です。私たちには手の届かない存在であります。しかし、その神が、シオンに正義と恵みの業を満たされるのであります。シオンとはエルサレムのことです。ユダの指導者たちは神様の守りを信頼出来ずに、エジプトの戦力に頼ろうとする罪を犯してしまいました。しかし、主はあなたの時を堅く支えられる、とあります。神様を信頼しないことによってもたらされた苦難の時が、主に信頼する恵みの時に作り直されるのであります。エルサレムを滅びに導いた偽りの知恵と知識に代えて、神様を知る本当の知恵と知識が取り戻され、救いを豊かに与えるというのであります。6節の最後で、主を畏れることは宝である、と言い切っております。私たちは苦難を恐れます。苦難をもたらす敵を恐れたり、運命を恐れたり、自分の弱さを恐れます。しかし、私たちが畏れるべき対象は、私たちの時を支配し、これを堅く支えられる神様であります。苦難の時にも、私たちがこの主を畏れて、主の憐みを求め、救いを祈るならば、主は必ず応えてくださいます。主を畏れることは、何物にも代え難い人生の宝なのであります。

2.主が立ち上がるのを見るとき

7節から9節には、再び、現実の荒れ果てた状況が描かれています。見よ、アリエルの人々は巷で叫び、平和の使者たちはいたく嘆く。大路は嘆き、荒れ果て、道行く者は絶える。人は契約を破り、証人を退け、人を人と思うこともない。「アリエル」とはエルサレムのことです。町には苦しみの叫びが溢れています。「平和の使者」とは、敵と平和協定を結ぶために派遣された者のことでしょうか。しかし、協定は結ばれず、いたく嘆くばかりです。「人は契約を破り、証人を退け、人を人と思うこともない」とは、このような荒れ果てた状態になった理由を説明しているのでしょう。「契約」とは神様との間で結ばれた律法による約束のことでしょう。神様との約束を破り、神の恵みを伝える証人としての預言者たちを退けたということでしょうか。そのために、人を人とも思わなくなったというのです。神を畏れない社会においては、神との関係だけでなく、人間関係も崩れるのであります。
 崩れるのは人間関係ばかりではありません。9節には大地は嘆き、衰え、レバノンは辱められて、枯れ、シャロンは荒れ地となり、バシャンとカルメルは裸になる、とあります。ここに挙げられている地名は、カナン地域の中でも肥沃で美しい森や平野や高地や山として知られていた所であります。そのような豊かな自然が破壊され、農林・牧畜の営みも出来なくなってしまったというのであります。これも、アッシリアによる侵略の結果でありましょうが、その後ろには神様への信頼を失ったイスラエルとユダの民の不信仰があります。
 
ここに述べられているような状況は、今も世界の各地で繰り返されていますし、私たちの国でも進んでいることであります。神様との関係が疎かにされると、人と人との関係が崩れ、自然も破壊されるのであります。苦難というのは、結局、人間が神様の恵みを忘れて、自分たちの力を誇り、勝手気ままに振る舞うところから起こってくることであります。
 しかし、神様はこのような状態を決してそのまま放置されません。主なる神が立ち上がられます。10節には、「今や」という言葉が3回繰り返され、「身を起こし」「立ち上がり」「自らを高くする」と語られています。2節にあった祈りに応えて、神様が新しい救いの御業が始まることが告げられています。
 
11節、12節は、神様の業によって敵対者たちが滅ぼされる様子が描かれています。彼らがどれだけ暴虐をふるっても、焚きつけに使われる「わら」を産むようなもので、神の怒りが「火のような霊」となって敵を焼き尽くし、「石灰(灰)」しか残らないほどに焼き尽くされることになるというのです。
 
そこで、13節において警告が語られます。遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。――「遠くにいる者」とは、アッシリアをはじめとする敵対者たちですが、ここでは「近くにいる者」、即ち、エルサレムの悔い改めない罪人たちにも呼びかけられています。苦難の中で私たちが聞かなければならないのは、私たちを苦しめる者たちへの裁きだけではなくて、私たち自身の不信仰の罪に対する裁きの言葉であります。
 
その言葉を受けて、14節では、「シオン」、即ちエルサレムの「罪人」や「神を無視する者」の「恐れ」と「おののき」が語られます。我々のうち、誰が、焼き尽くす火の中にとどまりえようか。我々のうち、誰が、とこしえに燃える炉の中にとどまりえようか、と問いかけています。ここで私たちは自らを省みる必要があります。私たちは、神様の「焼き尽くす火の中にとどまる」ことが出来るのでしょうか。
 15節には、どのような者が神様の裁きの中でも生き延びることが出来るのかが述べられています。正義に歩み、正しいことを語り、虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み、耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者、と6種類の人が挙げられています。私たちはこれらに当て嵌まると言い得るのでしょうか。多くの人は、この規準であれば、何とか合格できそうだ、と思うかもしれません。確かに、私たちは平穏な日常生活の中では、十分合格できる生き方をしているのでしょう。しかし、自分に不利益が及びそうになったり、大きな苦難がふりかかって来た時には、このような態度を守り続けることが出来るのでしょうか。また、個人レベルではともかくも、企業レベル、国家レベルでは、私たちは気づかないうちに、ここに挙げられたことに反するようなことに加担してしまうというという恐ろしい現実があるのではないでしょうか。かつての戦争の時代がそうでありました。原発問題もそうであるかもしれません。今回の選挙で出来た新しい政治体制も、大きな危険を秘めています。
 
16節には、15節に述べられた規準に合格した人の様子が述べられています。このような人は、高い所に住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない。「高い所」とか「高い塔」とか「堅固な岩」というのは、敵が侵略出来ない安全な場所を示すと同時に、神が住まわれる所でもあります。そこでは、安全が保たれるだけでなく、必要な糧や水も備えられるというのです。
 
しかし、ここまで聴いて来たように、ユダの民には神を信頼しない大きな罪がありました。私たちにも神様に対する根深い不信仰があります。悪いのは敵だけではありません。隣人に対する悪や愛の足りなさについても、決して免れているわけではありません。ユダの民も私たちも、15節で言われているような資格があるとは言えないのであります。私たちは自力で高い所に住むことは出来ません。努力しても、苦難を受けることのない安全な場所に辿りつくことはできません。
 「我々」と言われていたユダの民の現実は、依然として厳しい状況にありました。我々の教会の群れが問題をかかえている現実も、改善の兆しは見えて来ませんし、一人一人が負っている様々な形での重荷も、軽くなるという兆候が見えていないかもしれません。

3.主は我らの王となって

ところが、預言者イザヤは17節以降で、私たちの目と心を新しい現実に向けさせます。
 あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ、遠く隔たった地を見る。あなたの心はかつての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか、量った者はどこにいるのか、やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。あの傲慢な民をあなたはもはや見ない。その民の唇は重くて聞き分けることができず、舌はどもるので理解しえなかった。  (1719節)
 
ここでイザヤが示している「麗しく装った王」とはユダの民を救いに導く新しい王とみることも出来ますが、救い主メシヤを指していると受け取ることも出来ますし、神様を意味しているのかもしれません。いずれにしろ、神様によって、苦難の状態からの解放される時が来るとの宣言であり約束であります。私たちはこれを、救い主・イエス・キリストの到来と重ねて聴き取ることが出来るでしょう。
 
「遠く隔たった地」とは、主が御支配なさる広大な土地のことであります。主イエスは地の果てに至るまで福音を宣べ伝えるように命じられました。福音が宣べ伝えられるところは、主の御支配のもとに置かれる広大な土地であります。
 
18節で「数を調べた者」とか「量った者」とか「やぐらを数えた者」と言われているのは、アッシリアの王センナケリブが、ユダの捕虜の数を調べ、ユダから巻き上げた貢物(金銀)の量を量り、エルサレムの防御施設であるやぐらの状況を調べたことを指すのでありましょう。そんなセンナケリブ王は滅ぼされていなくなります。19節で「傲慢な民」と言われているのは、征服後、移住してきたアッシリアの人々のことですが、彼らは違う言葉を話すので、理解できなかったのです。そんな征服民の姿も見ることがなくなる、というわけです。このように、かつての苦難の時の情景は過去のものとなるのです。
 
変わって、20節以下には、新しいエルサレムの姿が描かれます。エルサレムのことを「祝祭の都」と言っております。祝祭はエルサレムが果たす最も大きな役割であります。祝祭において神の恵みの歴史が思い起こされ、犠牲の動物が捧げられました。礼拝が行われたのであります。そこに、エルサレムが「安らかな住まい」であることの根拠があります。私たちの教会で行われる礼拝も同じです。礼拝にこそ、「安らかな住まい」、即ち、安定した私たちの生活の基礎があります。
 
移されることのない天幕」とか「杭は永遠に抜かれることなく、一本の綱も断たれることはない」というのは、移動式の天幕で礼拝していた時代から立派な神殿において礼拝出来るようになったことの譬えを用いながら、エルサレム神殿がもはや敵の手によって破壊されることもなく、永遠に続くことを語っているのでしょう。これは、キリスト以後の私たちにとっては、教会がどんなことがあっても決して滅びることがないという約束として受け取ることが出来るでしょう。
 21節では、まことに、そこにこそ、主の威光は我らのために現れる、と言われています。エルサレムにこそ、そしてそこで行われる祝祭においてこそ、神様の御威光を仰ぐことが出来るということです。私たちもまた、教会で行われる礼拝でこそ、神様と出会うことが出来、神様の御威光を仰ぐことが出来るのであります。そこには多くの川、幅広い流れがある、とありますが、実際のエルサレムは高台になっていて、川の流れはないので、導水路を建設して水を引かなければなりませんでした。けれども、イザヤはそのエルサレムに豊かな水を湛えた広い川が流れている幻を見ているのであります。そして、そのような川があるにも拘わらず、櫓をこぐ舟はそこを通らず、威容を誇る船もそこを過ぎることはない、と言っているのは、敵の船が近づくことが出来ないということでしょう。
 
以上のようなエルサレムの絶対的な安全は、どのようにしてもたらされるのかと言えば、22節にあるように、主が我らを正しく裁かれる方であり、主は我らに法を与えられる方であり、主は我らの王となって、我らを救われるからだ、と言うのであります。ユダの国にも歴代の王が立てられましたが、神様を信頼することが出来ず、正しく民を導くことが出来ませんでした。そして、敵の王に翻弄されました。しかし、ここには、主なる神こそが王として、ユダの民を救ってくださる、との信仰が述べられています。私たちもまた、現実の弱さや間違いを越えて、王なるイエス・キリストによって、永遠の救いがもたらされることを信じております。
 
22節にも「我ら」という言葉が4回繰り返されております。ここで「我ら」とはユダの民でありますが、それは単なる一民族のことではなくて、神を信じる民としての「我ら」、即ち、「教会」のこととして受け取ることが出来ます。ユダの民が強大な列強の前で弱い民に過ぎないように、主の民の「我ら」である教会も、この世にあっては、小さな弱い存在に見えるのですが、主が王であるが故に、主の救いに与ることが出来るというのであります。
 
23節の「お前の船」というのは、敵のアッシリアの船とも、エルサレムの船とも読むことが出来ますが、敵の船とすると、それがまともに航行出来なくなって、せっかくの分捕り品を持ち帰ることが出来なくなる状態を言っていると理解することが出来ます。
 
23節には、病を癒されることと罪を赦されることが一つのこととして語られています。主が王となってくださるとき、エルサレムに住む者、即ち、主を信じる者は、もはや肉体の病に悩まされることがなくなると共に、魂の病である罪からも解放されるというのであります。
 
以上のようなイザヤの預言は、単に頭で思い描いた理想や幻のような夢を述べたものに過ぎないのでしょうか。確かに、目の前の現実は、悲惨な状態が続いているのであります。しかし、イザヤは信仰において、主が「我ら」の王であることを見ているのであります。
 私たちは、イザヤの時代とは違って、地上を歩まれた神の子イエス・キリストの救いの御業を既に見ているのであります。この主を信じ、王として迎えることによって、罪の結果である苦難から解放されることが保証されているのであります。私たちの地上における現実は、なお罪が顔を出し、それ故に苦難が続くのかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる者には、終わりの日に、王なるキリストの前に進み出る幸いが約束されているのであります。それゆえ、今日、私たちは、心からの悔い改めをし、主による罪の赦しを願い、苦難からの救いを信じる者とされたいと思います。

結.小羊が都の明かり

最後に、先ほど朗読していただきました、新約聖書のヨハネ黙示録の言葉のうち、2122節から27節の部分を、もう一度聴きましょう。ここには、終わりの日の光景が描かれています。
 
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
 
お祈りいたします。

祈  り

我らの王なるイエス・キリストの父なる神様!
 
預言者イザヤを通して、あなたの約束の言葉を聴くことを許されて感謝いたします。
 
私たちはなお、悔い改めが不足のため、罪の結果の苦難に喘いでおりますが、そのような私たちを、どうか憐れんでください。
 
どうか、主イエス・キリストを、あなたが遣わされた王として、喜んで迎え入れ、その前にぬかずく者とならせてください。
 
そして、どうか、終わりの日の救いの恵みの一部でも、この地上において、先取りさせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年7月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 33:1−24
 説教題:「
主は我らの王」         説教リストに戻る