キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。            (ペトロの手紙一3:18

 私たちは、心身の病、人間関係の亀裂、仕事の行き詰まり、異教社会での軋轢など、様々な形でサタンの攻撃を受け、信仰を揺るがされ、霊的な命の危機にさらされる。どうすれば、そのような危機から脱することが出来るのだろうか。ペトロは標記のように、キリストも苦しまれたと言う。私たちが苦難や危険に遭遇する前に、既にキリスト御自身が苦難の道を歩まれたことに目を向けさせる。ペトロは先に、「キリストもあなたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(221)とも語っていた。「足跡に続く」とか「模範」といっても、「ただ一度苦しまれた」とあるように、キリストの苦しみと私たちの苦難は同じではない。私たちは罪があるので苦しむのが当たり前だが、キリストは罪がないのに、十字架という最大の苦難を受けられた。だからこそ、罪ある者たちの身代わりとなることが出来たのである。そして、キリストは人間が犯した罪を越えて、死の世界から復活されたのでした。私たちは、自分の苦しみを通して、キリストの十字架の苦難によって自分たちの罪が赦された恵みを知り、自らの苦しみに耐える力が与えられ、復活の命に生かされるのである。
 ペトロは標記のように語ったあと、「霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました」と述べ、ノアの箱舟に乗った人たちが大水の中で救われたことに触れ、洗礼のことに話を進めている。ここでペトロが言おうとしたのは、キリストは死の危険に捕われている人たちのところにも訪れられて、滅びから救い出されたように、私たちも洗礼という水の儀式によって、ノアの家族たちと同様に、滅びの中から救い出される、ということであろう。洗礼を受けるということは、箱舟が予示している教会の一員に加わることによって、神の救いの懐の中に入れられることなのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年7月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 3:18−22 説教題:「洗礼によって救われる」   説教リストに戻る