序.死と向き合う苦しみの中で

月に一度、ペトロの手紙から御言葉を聴いております。そのたびに申し上げていることですが、この手紙の宛先は異教世界にあって厳しい現実の中にある小アジアの諸教会であります。キリストを主であると信じて生きることによって、時には命の危険に晒されるようなこともあったと思われます。そういう教会の人々を力づけ励ますために、この手紙は書かれました。私たちも異教社会の中で生活していますが、キリストを主と信じることで、命の危険に晒されるようなことはまずありませんから、この手紙が書かれた状況は、現代の私たちの状況にはぴったり当てはまるわけではありません。しかし、私たちがこの世にあって、キリスト者として真剣に生きて行こうとする時に、その生き方が問われるようなことは、しばしば起こるのであります。
 
例えば、身近な事柄としては、日曜日に教会の礼拝に行くか行かないか、という問題がそうであります。キリスト者として生きるということは、具体的には、主の日ごとに礼拝に連なるということです。もちろん、この世に生きている限り、どうしても礼拝に出席出来ない事情が発生することはあります。そういう時は、礼拝出席ということを律法主義的に捉えるのではなく、祈って神様にお詫びした上で、欠席することがあっても止むを得ないと思います。欠席することが神様に対して申し訳ないと思えば、代わりに、その週は水曜日の集会に出席するという方法もあるでしょう。そもそも礼拝というのは御言葉を聴き、賛美を捧げ、祈りをすることによって、神様との人格的な関係を保つということであります。礼拝を欠席するということは、その関係が疎遠になるということであります。それは、神様を中心とした生き方にひびが入るということになります。神様の大きな恵みを蔑ろにして、その恵みに応えていないということです。これは、霊的な命が危険に晒されるということになります。そういう意味で、小アジアの教会の人が命の危険に晒されるのと同様のことが起こるのであります。
 
命の危険に晒されるということでは、心や体が病魔に侵されるという場合も同じです。この場合は、直接的には肉体的・精神的な命が危険に晒されるということですが、キリスト者であれば、病気の痛みや苦しみに襲われる中で、不安になって、霊的な命も危険に晒されるのであります。もちろん、そのような時にこそ、一層、祈りが篤くされ、神様との人格的な交流が深まる絶好の機会でもありますが、人間は弱い者ですから、キリスト者であっても、不安に耐え得なくなって、信仰が揺るがされ、霊的な命さえ危うくされることがあります。
 
では、礼拝には欠かさず来ていて、肉体的にも健康な人は、霊的な命の危険に晒されることがないのかというと、そうではありません。そういう人は、自信と高慢という霊的な命の危険に襲われます。他人を裁いて、自分を正しいとする罪に陥る危険です。これは自覚症状が乏しいだけに、最も危険な状態であると言えるかもしれません。
 
今、三つの例だけを挙げましたが、キリスト者は、絶えず色々な形でサタンの攻撃を受け、信仰を揺るがされ、知らず知らずの間に、霊的な命の危険に晒されているのであります。そういうわけで、このペトロの手紙は、決して私たちと無縁なものではありません。この手紙は現代の私たちにも、自らの霊的な死の危険に気付かせてくれるとともに、その中で、その危険をどのようにして乗り越えることが出来るのか、神様は、どのようにして私たちを霊的な死から救い出して下さるのか、ということを語ってくれるのであります。
 
先月は、この手紙の38節から17節を学びましたが、その中の9節で、このように述べられていました。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」――ここで「悪」とか「侮辱」と言われているのは、直接的には、異教徒たちがキリスト者を攻撃したり、誹謗して苦しめることを指していて、そうしたことをする者たちに仕返しをするのでなくて、祝福を祈りなさいと勧められているのであります。先月にも学びましたように、祝福を祈るということは、相手の罪の赦しを祈るということであります。そのことを大切な勧めとして聴きました。しかし、考えてみると、相手の罪の赦しを祈るということは、自分の側にある、相手の罪を赦せないという大きな罪を克服しないと出来ないことであります。そう考えると、異教世界の中に生きるキリスト者の問題というのは、結局、自分の罪の問題に帰って来るのであります。
 先ほど、霊的な命が危険に晒される例として、礼拝欠席の問題と病気の問題と高慢の問題の三つを挙げました。これらについても、私たちは、問題の原因を外部に求めがちでありますが、結局は、自分の罪の問題であります。自分と神様との間の関係の問題であります。
 
今日の箇所のすぐ前の17節では、こう言われています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」――ここで、「善を行う」とは、先ほど申した「祝福を祈る」ということであり、相手の罪の赦しを祈るということであります。それは、相手を裁いたり、懲らしめたりするよりも苦しみが伴うことかもしれないけれども、その方が幸いだと言われているのであります。それは、自分の中にある罪を克服することであります。
 
では、どうすれば、私たちの中にある罪を克服することが出来るのか。どうすれば、霊的な命の危機を回避することが出来るのか。どうすれば、私たちに襲いかかる苦難や死の恐れを克服することが出来るのか。――そのことを、今日の18節以下の箇所から聴き取って参りたいと思います。

1.キリストも苦しまれた

今日の箇所の冒頭の18節には、このように書かれています。
 
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
 
原文では冒頭に、「なぜなら」という言葉が付いています。17節で、「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」と述べたことの根拠が18節で語られているということです。ここには、キリストが私たちの罪のために、十字架の苦しみを受けられたことが語られています。これと同様のことは、この手紙の221節以下(p431)でも語られていました。そこを読んでみます。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らをその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(22124)――ここにも、罪のないキリストが私たちの罪を担って十字架の苦しみを受けられたことが語られていますが、それだけではなくて、そのキリストの苦しみの足跡が、キリスト者の模範として残されたということが書かれているのであります。キリスト者が苦しみを味わう前に、既にキリスト御自身が苦難の道を歩まれたということです。
 
今日の318節でも、「キリストも」と書かれています。この「も」が大切です。キリスト者が初めて経験するのではなくて、既にキリストが先行して歩んで下さったのであります。それなら、キリストの苦しみとキリスト者の苦しみは同じなのかというと、そうではありません。18節では、「キリストも」と言ったすぐ後で、「罪のためにただ一度苦しまれました」とあります。キリストの苦しみは、「ただ一度」のもので、二度も三度も繰り返されるものではない、ということです。だから、キリスト者の苦しみと同じ苦しみではないということです。どこが違うのでしょうか。その答えはその次に述べられています。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しめられたのです」とあります。キリストは罪のないお方でした。それなのに、十字架という最大の苦難を受けられたのです。だからこそ、罪ある者たちの身代わりとなることが出来たのです。それに対して、私たちキリスト者は、自らに罪がありますから、苦しむのが当たり前で、まして、人の罪を贖うことなど全く出来ません。ですから、キリスト者の苦しみというのは、キリストの「足跡に続く」とか「模範」だとか言われても、全く中身が違うわけであります。そうではありますが、キリスト者が「善を行って苦しむ方がよい」と言われるのは、自分が苦しむことを通して、キリストの十字架の苦難を思い起こして、自分たちの罪がそのことによって赦されたという大きな恵みを覚えることが出来るし、そのことでキリスト者が苦しみに耐える力も与えられるし、更には、キリスト者が苦しみに耐えている姿によって、周りの人々に力を分かつことも出来るからであります。
 
今、読書会で井上良雄という方の「山上の説教」という本を読んでいます。「山上の説教」の最初に、「心の貧しい人々は、幸いである」とか、「柔和な人々は、幸いである」、「憐み深い人々は、幸いである」、「義のために迫害される人々は、幸いである」といったことが弟子たちに語られているわけですが、先日の読書会でこの本から学んだことは、「心の貧しい人々」とか、「柔和な人々」、「憐み深い人々」、「義のために迫害されている人々」ということで私たちが思い浮かべるのは、他の誰よりも先に主イエス御自身のことであって、弟子たちも私たちも、決してそのような者ではないのだけれども、ただ、主イエスと出会うことによって、主イエスの光の照り返しの中を歩む者とされる、ということでした。私たちは決して、主イエスと同じような道を歩むことは出来ないし、その足跡に続くことは出来ないのだけれども、主イエスの光を照り返すことは出来る。そういう意味で、「心の貧しい人」や「柔和な人」や「憐み深い人」や「義のために迫害される人」にだってなることが出来る、ということを学んだのであります。私たち自身は光を発することなど出来ません。しかし、主イエスの御業の光を、言葉や行ないを通じて、照り返すことが出来るのであります。

2.霊では生きる者とされる

18節の中で、もう一つ聴き取らなければならない言葉があります。18節の最後に、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」とあります。これはどういう意味でしょうか。加藤常昭先生が説教集の中で、この言葉についてのある人の解釈を紹介しながら、次のような主旨のことを述べておられます。この言葉は、主イエスが肉体においては死なれたが、霊だけは殺されないですんだ、というような意味ではありません。主イエスの復活ということをそのように理解することは、全くの間違いで、主イエスは確かに肉体において復活されたのです。ここで「肉では」というのは、「人間としては」と言い換えればよい。「肉」というのは、罪ある人間を言い表す言葉であります。神に逆らう罪のある人間たちが主イエスを殺したのです。ところが、その主イエスは復活なさいました。「霊において」というのは、霊魂だけが甦ったという意味ではなくて、「神が生かした」という意味だと言うのです。人間が犯した罪を越えて、神様が主イエスを生かされた、ということです。人間の罪深い働きを、神様が無効にしてしまわれた、ということであります。そして、罪に支配されていた人々を解放されたのであります。
 
そこで、19節にはこう書かれています。そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。――この19節以下は、大変難解な箇所だと言われています。けれども、「霊」とか「肉」ということを今述べたように理解すると、こういう解釈が出来ます。「霊において」つまり、神様によって復活させられたキリストは、「捕われていた霊たち」、即ち、罪に支配されていた人たち、直接的には弟子たちのところに現れて、罪に対する勝利と罪からの解放を告げられたのでありました。そして、主イエスを裏切ってしまった罪深い弟子たちをはじめ、多くの人たちを、もう一度、悔い改めさせ、立ち上がらせられた、と解釈することが出来のであります。 

3.水の中を通って救われた

しかし、ここでは、キリストが行かれたのは弟子たちのところとは言っておりません。20節ではいきなりノアの箱舟のことが出てくるので戸惑うのですが、こう書かれています。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
 先ほど、創世記のノアの箱舟の物語の一部を朗読していただきました。箱舟に乗ったのは神に従ったノアと、ノアの妻と三人の息子とその嫁の8人だけでした。彼らは大水になっても、救われましたが、この8人以外は、皆、神様が忍耐して悔い改めることを待っておられたにも拘わらず、神様の言葉に背いたために滅ぼされて、彼らは死の世界に追いやられてしまったのであります。その死の世界にいる人たちのところまでキリストは出かけて行って、宣教されたと言うのです。このことで筆者のペトロが何を言おうとしたのか、非常に難解で、決定的な解釈はありません。
 しかし、21節に進みますと、こう言われています。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。――ここでは、ノアの物語における洪水の水が洗礼のことを前もって表していると言うのであります。洪水の水は、8人以外のすべての人々を滅ぼしました。しかし、その中で、ノアたち8人は救われました。そのことが、洗礼を指し示しているということでしょう。洗礼は私たちの教会では、水の中にどっぷりと浸ける「浸礼」は行わず、頭に水をつける「滴礼」を行いますが、意味としては、水によって一旦死ぬのであります。そうして清められて新しい命に生き始めるのであります。ノアの物語では、その恵みを受けたのは8人だけであったのですが、ペトロはその物語とキリストの十字架と復活の御業を重ね合わせながら、ノアの時代を含め、死の世界に移された多くの人々のところにも、復活のキリストが行かれて、救いを宣教され、もう一度救いの機会を与えられるということを言いたかったのかもしれません。罪のゆえに死の裁きを受けるしかない者たちにも、イエス・キリストによって滅びから救われる道が開かれた、それが、洗礼なのだということを言いたいのでしょう。
 
「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」と言われています。洗礼で注がれる水自体に人の汚れを取り除く魔術のような力があるわけではありません。復活のイエス・キリストがその人を訪れて下さって、罪深い私たちのためにも御自分の命を注いで下さる、そして、神様に赦しを願って下さる、そこで、私たちもまた、神様の前に出ても恥ずかしくない良心を与えられることを願うようになる、――それが洗礼によって起こる事柄であります。洗礼を受けるかどうかということには、本人の決心が伴うのは事実です。誰か尊敬する人の勧めがあったからとか、もう礼拝生活が長いから受けてもよいのではないか、クリスチャンになっておいた方が好都合である、というような成り行きで受けるものではなくて、本人が信仰によって決断するものであります。しかし、その決断を導くのは、本人の決心の固さとか思い切りの良さといったものではなくて、神様の導きによることであります。色々な人の働きが関わるかもしれませんが、それを導かれるのは、聖霊なる神の働きであります。そして、罪にまみれている私たちが、主イエス・キリストの贖いの故に、罪赦されて、霊的な死の危険から解放されて、「正しい良心を願い求める」心を与えられるということ、それが洗礼であります。
 では、一旦洗礼を受けたら、もはや、迷いなく「正しい良心を願い求める」思いを持ち続けることが出来るのでしょうか。残念ながら、私たちは弱い心を持っています。様々な困難に出遭ったりすると、サタンは私たちの霊的な命を断とうと、絶えず狙っています。しかし、洗礼を受けるということは、神様の救いの懐に入れられたということです。箱舟の中に入れられたということです。箱舟とは、現代で言えば教会です。その教会という箱舟の中にいて、礼拝において、キリストの御言葉を聴き続けているなら、霊の命を落とすことはありません。救いから漏れることはありません。

結.キリストの支配に服して

最後に、22節の御言葉を聴きましょう。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。――ここには、キリストの御支配のことが述べられています。洗礼を受けるということは、このキリストの御支配の内に入れられるということです。様々な出来事や様々な人が、そしてサタンが私たちを脅かそうとするかもしれません。しかし、私たちは洗礼を受ければキリストの御支配のもとに入ったのですから、どんな脅かしからも守られているということです。私たちは、そのような御支配のことも忘れて、さ迷い出て行くことが出来るとか、さ迷い出てしまおうとさえ思うことがあるかもしれませんが、どのような権威も勢力も、どのような苦難や洪水も、私たちをキリストの御支配から引き離すことは出来ないのであります。そのような、恵みの中に招かれていること、導き入れられていることを感謝いたしたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 あなたの恵みを受けつつも、あなたを裏切ったり、御心に反することを行なったりして、あなたを悲しませることの多いものであります。
 
しかしながら、あなたはそんな私たちのために、罪なき主イエスを十字架につけることによって、私たちを赦し、あくまでもあなたの恵みと権威の御支配の内に止めようとして下さっています幸いを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、様々な困難や、恐れに見舞われることがあっても、あなたが私たちを洗礼へと導いて下さったので、あなたの救いから漏れることがなく、困難や恐れから自由にされていることを信じさせて下さい。
 
どうか、まだ洗礼を受けるに至っていない方々を、どうか私たちと同じ救いの恵みの御支配の内に引き入れて下さいますように。
 
どうか、この米子伝道所という小さな箱舟に乗り込んで、霊の命に生かされる者たちを、一人でも多くしてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年7月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 3:18−22
 説教題:「
洗礼によって救われる」         説教リストに戻る