「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
                            (ルカによる福音書119 

 主イエスは、祈りの姿勢について、一つの譬えを用いて教えられた。旅行中の友達が真夜中に立ち寄ったが、何も出すものがないので、近所の友達のところへ行って、パンを三つ貸してくれるように頼んだ。するとその友達は家の中から、「面倒をかけないでくれ、もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています」と言って断った。ここで、パンを貸してもらいに行った人は、祈っている私たちのことであり、断った友達は祈りの相手である神を表しているのだが、どちらも、ぴったりとしないように感じられる。第一、私たちなら、旅の友達のために、近所の友達に迷惑をかけてまで、パンを貸してもらいに行くだろうか。だが、この人の姿を通して、主イエスは祈りにおける私たちの愛の乏しさを問いかけておられるのではないか。また、「面倒をかけないでくれ」という友達の姿は、神らしくないと感じられるのだが、私たちの祈りにおいて、神がいつの間にか友達関係になってしまっていて、私たちの願いを叶える召使のように扱っていないか、と問いかけておられるのではないか。
 ざて、主イエスはここまでの譬えに続いて、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」と語られる。この「しつように」という語は、「恥知らず」という意味を持つ。これによって主は、諦めずに、恥知らずと言えるほどに頼めば、神は応えて下さる」ということを教えておられることは間違いない。だが、もう一つの解釈がある。それは、頼まれた方が断れば、恥知らずになるので要求に応えるという解釈で、神は御自分の名誉のために、私たちの求めに応えて下さる、と言っておられると受け散ることが出来るのだ。そして神は、私たちの祈りに応えて、「必要なものは何でも」与えて下さるのだ。
 こう語られた上で、主イエスは標記のように、だから神に「求めなさい」と言われ、自らも「探す」という行動を起こし、門をたたけば、必ず開かれる、と約束される。もちろん、門は外から力づくで開くのではなく、神の方から開いて下さるのだ。更に、「魚を求める子供に、蛇を与える父親はいるだろうか」と述べられる。神は私たちに最も必要で最適なものを与えて下さるのだ。それだけではない。神は最終的には聖霊を与えて下さると言われる。聖霊が与えられるとは、聖霊なる神が私たちと一緒にいて下さることに他ならない。これほど大きな恵みはない。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年7月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書11:1−13 説教題:「求めなさい」   説教リストに戻る