序.本気で求めているか

今日与えられております聖書の箇所の中の9節に、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉があります。これは有名な言葉ですから、おそらくクリスチャンでなくても、聖書を読んだことがない人でも、知っている言葉ではないかと思います。しかし、よく知られているだけに、陳腐化してしまっていると言えるかもしれません。あまり本気でこの言葉に耳を傾けなくなっているかもしれません。
 
人の欲望や願いは止まるところを知りません。誰でも、与えられたいと思うものは無限にあります。しかし、私たちが手にできるものは限られています。私たちはそういう現実を知り過ぎています。ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう」という主イエスの言葉も初めから割り引いて聞いてしまうのではないでしょうか。
 
人は時に、野望を抱いたり、大志を抱くこともありますが、多くは自分の身の丈に合った、自分の能力や環境に合った望みを抱きます。入学にしろ、就職にしろ、結婚にしろ、私たちは自分を量った上で目標を定めます。それでもなかなか思うようにはいかないのが普通です。ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われても、初めから当てにしなくなっているのかもしれません。
 
しかし、病気になったり、不幸に見舞われたり、困難に遭遇したり、大きな壁にぶち当たったような場合には、何とかそこから脱出したいと真剣に求めます。平生は遠慮がちなクリスチャンでも、そういう時には熱心に祈り求めることをするかもしれません。「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉が、急に身近なものに感じられるかもしれません。私たちを励ましてくれる言葉として、甦って来るかもしれません。「そうだ!もっと求めればよいのだ。不幸や困難に負けてしまってはいけない。熱心に求め続ければよいのだ。」――この言葉は、そのような元気を与えてくれる言葉だからこそ、今まで多くの人に親しまれて来たと言えるでしょう。
 
東日本大震災以降、「諦めないで」という励ましの言葉を聞くことが多いように思います。被災地を訪問した人たちがよく使う言葉であります。また、有名なスポーツ選手が学校を訪れて後輩たちによく言うのも、「諦めないで、目標に向かって進め」という言葉であります。では、今日の「求めなさい。そうすれば、与えられる」という主イエスの言葉も、そういう言葉と同じように、ただ、諦めずに熱心に求め続けることを勧めている言葉なのでしょうか。――今日は、そのことを問いながら、与えられた聖書の箇所を見て行きたいと思います。
 
今日の箇所は、1節にあるように、弟子の一人が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったことに対して、主イエスが、普通「主の祈り」と呼ばれているものを教えられたことが書かれていて、その後に、一つの譬えを用いて、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という、祈り求めることの大切さを教えられたことが書かれています。前半の「主の祈り」で示された祈りの内容も、もちろん大切なのですが、今日は、先ほど申しましたように、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という主の御言葉は、ただ、諦めずに求め続けることを勧めておられるだけなのかということを問いたいと思いますので、後半の譬えを中心に学んで行きたいと思います。

1.面倒をかけないでくれ

5節から8節までが譬えですが、その冒頭で主イエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたのうちのだれかに」と語りかけておられます。これから話す譬えは「あなたがた」のことであって、他人事ではないということです。自分たちにも起こっていることとして想像しながら聞くように求めておられるのであります。譬えはこうです。
 ある人のところへ真夜中に旅行中の友人が訪ねて来ます。それも、どういうわけか、腹をすかせてやって来たのです。ところが、そこの家には食べるものは何も残っていなかったようです。遅い時間ですから、お店も閉まっています。そこで彼は、近所の友達の家に行って、客が来たのに何も出すものがない、という困った事情を説明して、パンを三つ貸してくれるように頼みます。
 
しかし、時は真夜中です。子供たちは寝静まっています。「そばで寝ています」と言っていますから、一部屋しかない小さな家なのでしょう。「戸は閉めたし」と言っているのは、錠前とかんぬきで閉められた戸を開けるには厄介だし、おまけに大きな音を立てるので、寝ている子供を起こしてしまう、ということなのでしょう。そこで、「面倒をかけないでください。・・・起きてあなたに何かあげるわけにはいきません」という返事が返って来ました。
 
皆さんはこの友達の態度をどう思われるでしょうか。<いくら親しい友達だと言っても、こんな夜中に面倒をかけられたくないと思うのは当然だ。頼む方が非常識だ>と思われるでしょうか。それとも、<友達は困り果てて、迷惑を承知で頼みに来ているのだから、子供が目を覚ますくらいで断るのは、冷たすぎる>とお考えになるでしょうか。実は、この態度をどう受け取るかによって、8節で主イエスが言っておられることの聞き方が変わって来ます。
 この譬えで、急に旅行中の友人がやって来たので、パンを貸してもらいに行った人は、祈っている私たちのことであり、「面倒をかけないでください」と言って拒否しているのは、私たちの祈りの相手である神様のことを表わしていることは明らかであります。でも、何だかどちらも、ぴったりしていないように感じられるのではないでしょうか。第一に、私たちはこの人のように、近所の友人の迷惑も考えずに真夜中に頼みに行ったりするでしょうか。むしろ遠慮するのではないでしょうか。そして、旅行中の友人に、朝まで辛抱して待ってくれるように言うのではないでしょうか。この新共同訳聖書の訳では、5節の言葉は「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう」となっているのですが、原文は違う読み方も出来るのです。それは、疑問文の形で、「あなたがたのうちのだれが、友達をもっていて、真夜中にその人のところに行って、次のように言うだろうか」とも読めるのです。これだと、その言葉の裏には、「あなたがたのうちには、そんなことをする者はいない」という思いが込められていることになります。つまり、<あなたがたは、真夜中にやって来て腹をへらして友人のために、近所の友人に迷惑をかけてまで、パンを貸してもらいに行くだろうか>と問うておられることになります。更に言うならば、<あなたがたは困っている友人のために、この譬えの人ほどに、神様に祈ることをしているだろうか>と問われているということであります。私たちは自分のことについては、ある程度、熱心に求め、祈ることをするかもしれませんが、自分の周りの人が困っている時に、どれほど真剣な祈りを捧げているのかが問われるのであります。――このように5節の言葉を疑問形として読まないとしても、真夜中にもかわらず近所の友達のところに出かけて行った人の行動は、私たちの祈りにおける愛の乏しさに対する厳しい問いかけとして読むことが出来るのではないでしょうか。
 
もう一つぴったりしないのは、「面倒をかけないでください」と言って断った友達の方であります。これが神様を表しているとしたら、後から態度を変えるのではなくて最初からもう少し親切な応答の仕方でもよいのではないか、神様らしくない、と思ってしまうのであります。しかし、主イエスが敢えてこんな対応の仕方の神様を描いておられるのですから、その意図を読み取る必要があります。では、「面倒をかけないでください」と言う友達の姿から、どのような神様を見るべきなのでしょうか。ここでは神様が友達関係で描かれています。けれども本当は、神様と私たちの関係というのは、友達関係なんかではありません。創造者と被造物の関係であり、私たちは自分の方の都合で勝手なお願いが出来るような者ではない筈であります。ところが私たちは神様に、あたかも友達であるかのように、自分の方の都合で、勝手なお願いをしていることが多いのではないかということを、主イエスはこの譬えでお示しになっているのではないでしょうか。私たちの神様に対する信仰が、いつの間にか友達関係になってしまっていないか、ひょっとすると神様を私たちの願いを叶えさせる召使のように使っていないか、ということが問われるのであります。吉村和雄という牧師は「説教黙想」の中で、「面倒をかけないでください」という言葉に心を留めるべきだとして、「祈るということは、神に面倒をかけることなのだ。もちろん、神は、どのような面倒をかけることであろうと、それが御心に適うのであれば、聞き入れてくださる。しかし、だからといってわたしたちが、パン三つくらい、神様にはどうということもないでしょう、と言うわけにはいかない。祈ることは、神に立ち上がっていただくことであり、行動していただくことである。そのことを考慮に入れないで、安易な祈りをすることは許されないであろう」と述べておられます。私たちの祈りが安易な祈りになっていないか、吟味する必要があるということを教えられます。

2.しつように頼めば

さて、この譬えで特に心に留めて聞かなければならないのは8節にある言葉です。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と言っておられます。ここでキーワードは「しつように頼めば」という言葉です。この言葉は「恥知らず」という意味を持っています。ですから、「恥も外聞もなく求め続ける」とか、「厚顔無恥な願いを続ける」ということを意味します。頼まれた人は、親しい友達だから求めに応じるのではなくて、相手の頼み方が恥知らずと言えるほど厚かましいので、与えるであろう、というのです。ですから、<一旦は断ったけれど、何度も執拗に頼むので与えるであろう>ということであるよりも、<そもそも頼み方が恥知らずで厚かましいと思えるほどなので、相手が相当困っているだろうと、事情を察して与えるだろう>ということであります。ここで私たちが問われることは、私たちの祈りが、「恥知らず」と言えるほどに切実な祈りになっているか、ということであります。私たちは、初めはそれなりに熱心に祈っていても、ちょっと聞いて貰えそうにないと思うと、祈るのをやめてしまうことがあります。諦めてしまうのであります。しかし、ここで教えられるのは、祈りはお上品であってはいけないということです。なりふり構わず、恥や外聞を気にせず祈ってよいということです。ですから、この箇所で教えられていることは、「諦めないで祈ること」だと受け取って間違いではありません。
 
しかしながら、「しつように頼めば」という言葉にはもう一つの解釈があります。それは、助けを求めた側の「しつこさ」や「恥知らず」と理解するのではなく、求めを受けた側の友達が、もし断ったら「恥知らず」になるので、そうは思われないために必要なものは何でも与えた、という理解であります。求めを受けた友達が必要なものを与えたのは、親しい友達という特別な関係だからでなく、こんなことで断ったら「恥知らず」と言われかねないので、応えた、ということです。
 
先の解釈では、「恥知らず」という言葉を頼んだ側のここと理解するのに対して、後の解釈では、頼まれた方が「恥知らず」と思われないために、要求に応えたと理解するわけです。
 
この譬えの主人公は、厚かましくも執拗に頼んだ「恥知らず」の人でしょうか、それとも少々面倒な求めを受けて、相手の事情を察して、あるいは自らが「恥知らず」と思われないために応じた人でしょうか。主イエスはこの譬えによって、断られても執拗に頼む熱心さが大事ということを教えておられるのは間違いありませんが、同時に、「恥知らず」とも言える切羽詰まった求めを受けた人が、友達という人間関係の有無によらず、自らが「恥知らず」と思われないために、要求に応えたことを強調しておられるのではないでしょうか。ここで、必要なものを与えてくれる友達とは神様のことであります。私たち人間が困った挙句に「しつように願う」のに対して、もし神様が応えなければ、「恥知らず」の神様になってしまうので、御自分の名誉のために、私たちの求めに応えてくださる、ということであります。確かに、この譬えから、「恥知らず」とも思える行動を起こさせる人間の熱心さが大事だ、ということも読み取ることは出来ますが、それよりもこの譬えで主イエスがおっしゃりたいのは、<あなたがたのうちの誰でも、このような「恥知らず」とも言える求めを受けたら応じざるを得ないとすれば、まして天の神様は、私たちの「恥知らず」な求めにも必ず応えてくださる>ということではないでしょうか。
 
 私たちの神様への求めは、いつも「恥知らず」の「厚かましい」求めであります。それは、この譬えで描かれているように、必ずしも自分自身の欲望から出ものではなくて、家族や友人のためであるにしても、神様の御都合やお考えを無視した、手前勝手な求めであります。しかし、そのような私たちの求めにも耳を貸し、確実に応えてくださるのであります。それは、神様が私たちの求めに応じないのは、まるで御自身の恥だと思っておられるかのように、であります。
 
先日の黙想ワークショップで、ルカ18章の「やもめと裁判官」の譬えについて、皆で考えました。その譬えでも、主人公はうるさいやもめなのか、不正な裁判官なのかが問題になります。ひっきりなしにやってくるやもめの熱心さを見習えという譬えなのか、裁判官がうるささから逃れるために裁判をしたことに注目すべきなのかが問題になります。私たちは、不正な裁判官に目を向けるよりは、気の毒なやもめの熱心さを学びたいと思ってしまいます。けれども、主イエスは、「この不正な裁判官のいいぐさを聞きなさい」と言われております。主イエスがその譬えでおっしゃりたいのは、人を人とも思わない不正な裁判官でさえ、やもめの訴えを取り上げたのだから、まして、神様は昼も夜も叫び求めている人の訴えをほうっておかれることはない、ということであります。今日の譬えで主イエスがおっしゃりたいことも同じであります。ここで言わんとされているのは、<執拗に頼めば功を奏する>ということであるよりも、<人は誰でも「恥知らず」と思えるほどの切羽詰まった要求を受けたら、それには応えるとすれば、まして神様は私たちの切実な、切羽詰まった求めには必ず応えてくださる>というメッセージであります。
 ですから、困ったときには求めればよいのです。切羽詰まった時は執拗に祈ればよいのです。神様は必ず応えて下さいます。しかし、神様は執拗に祈らないと応えて下さらないお方ではありません。神様は私たちに何が必要であるかを初めから知っておられます。足りないのは私たちの信仰であります。確かに聞いて下さるという信仰が足りないのです。

 8節の最後を見ますと、「起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と語られています。頼んだのは遠慮がちにパンを三つだけでした。しかし、頼まれた人は、必要なものはどんなものでも与える、というのです。驚くべきことです。神様は、私たちに必要と思われるものは何でも備えて下さるお方であります。私たちは遠慮をする必要がないということです。もちろん、神様が必要ないと判断されたものは、与えられないでしょう。しかし、神様が出し渋られることはない、ということです。必要十分なものを与えて下さるということです。そのことを信じたいと思います。

3.求めなさい/探しなさい/門をたたきなさい

そこで、良く知られた9節の言葉につながります。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」――今日の譬えを通して、神様は、私たちの恥知らずの求めに対して、必要なものは何でも与えて下さるお方であることを知らされました。だから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」のであります。主イエスは、それだけでなく、「探しなさい。そうすれば、見つかる」とも言われます。ここでは、口先で求めたり、心の中で希望するだけではなく、出かけて行って探すことが求められています。旅行中の友達を迎えた人も、自分の家から出て近所の友達のところへ行きました。行動が必要なのです。そうしたら、見つかるのです。更に、主イエスは「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われます。私たちの行く先には門があって、それは閉じられているのであります。譬えの場合でも、戸は閉められていて、すぐには開いてくれませんでした。私たちの祈りも、簡単には聞き入れられないのです。熱心に祈っても、門は閉ざされたままのように思えるのであります。錠前とかんぬきはこちら側からはずすことは出来ません。向こう側から、即ち、神様の側から開いていただかなくてはならないのです。そのためには、たたかなくてはなりません。そうすれば、閉まっていた門も、開かれるのであります。神様が開いて下さるのです。
 ここで間違ってはならないのは、私たちの求めの熱心の度合いによって与えられたり、与えられなかったりするということではありませんし、探し回る距離や時間の大きさが発見につながるということではありませんし、門をたたく力の大きさで門が開かれるということではありません。むしろ、私たちの求めは、諦めに陥りやすいですし、探し回る労力も惜しみがちでありますし、門が閉まっているとあっさりと引き返してしまうことが多いのであります。神様はそんな私たちに、それでも、「求めよ、探せ、門をたたけ」と言って下さいます。しかし、私たちの諦めやすさ、飽きっぽさ、執念のなさを知っておられて、先ほど学んだように、神様の方から、御自身が「恥知らず」にならないために、御自身の名誉のために、御自身の栄光を現わすために、私たちに必要なものを与えられ、見つけ出せるようにして下さり、門を開いて下さるのであります。そして、10節にあるように、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」のであります。

結.良い物を与える父

更に、主イエスが11,12節でこう言われます。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」――そんな父親はいません。主イエスは続けておっしゃいます。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」と。そうであれば、天の神様は尚更、私たちに最も必要なもの、最も適したものを与えて下さるはずであります。もし、私たちが、求めたものが与えられなかったとか、悪い物ばかりが自分に回って来たと思って嘆いているとしたら、私たちの方が見当違いのものを求めていたのではないかと、考え直してみる必要があるのかもしれません。
 最後に、主イエスはこう言っておられます。「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」――主イエスの御命令に従って、求め、探し、門をたたく者には、最終的には聖霊が与えられる、とおっしゃるのであります。聖霊が与えられるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられるとは、神様が私たちと一緒にいて下さり、私たちと共に働いて下さる、ということであります。これほど有難いことはありません。私たちが主イエスの約束を信じて本気で祈って求め、探し、門をたたくときに、神様は聖霊において、私たちと共にいて下さり、私たちに最も必要なものを備えて下さり、私たちにおいて、神様の御心(御計画)を成就して下さるということであります。
 
祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちはあなたに祈ること少なく、祈っても自分勝手な願いばかりする者でありますが、そのような者にも、「求めなさい。そうすれば、与えられる」との御言葉を与えて下さいまして、有り難うございます。どうか、臆せず祈り求める者とならせて下さい。あなたは私たちに何が必要であるかを、私たち以上に知っておられます。どうか、私たちの祈りを清め、求めるべきものを求める者とならせて下さい。どうか、あなたが最も良い物を備えて下さることを、信じる者とならせて下さい。どうか、あなたが聖霊において私たちと共にいて下さることを信じる者とならせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年7月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書11:1−13
 説教題:「
求めなさい」         説教リストに戻る