序.キリスト者の生き方を示される

 今日与えられておりますルカによる福音書101節から20節は、主イエスが72人の弟子たちを伝道のために派遣されたことと、彼らが帰って来た時のことが書かれている箇所であります。72人を派遣される前に、12人の弟子たちを派遣されたことが9章に書かれています。両方を比べると、派遣に当たって主イエスが言われたことなどは大きく違っていないのですが、なぜ、人数を拡大して改めて派遣されたのかというと、この二つの派遣の間に、主イエスは御自分の死と復活のことを予告し始めておられることから、切迫感が高まってくる状況があったと考えられます。951節を見ますと、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。十字架にお架かりになる決意を固められたということであります。更に、直前の段落(5762節)を見ますと、主イエスの弟子になることを志願する三人が現れるのですが、一人は弟子になる覚悟が乏しいでしたし、他の二人に「わたしに従いなさい」と言われると色んな理由を言ってすぐには従おうとしません。要するに緊迫感に欠けていたのであります。そうした中で、宣教の御業を急ぐ必要があって、72人の派遣ということになったと思われます。
 
72人という数字については、写本によっては70人となっているものがあって、日本語聖書でも70人となっているものもありますが、その数字の意味については、世界全体の民族の数を表しているのではないかとか、ユダヤの民の指導者の数ではないかと言われますが、要は、福音を世界全体に行き渡らせるという意味が込められているのではないかと考えられています。
 72人の派遣ということについては、以上に述べたような背景があるのですが、ルカがこのことを取り上げて書いているのは、この福音書が書かれた紀元1世紀末の状況の中で、これを昔話として捉えるのではなくて、自分たちに重ねて受け止めていたからだと考えられます。私たちもこれを読む時に、2000年前の特殊な事情の中でのこととしてだけでなく、現代の状況の中で、私たちも主イエスによって、伝道のためにこの世へと派遣されているのであり、ここで主イエスが語っておられることは、今の私たちへの伝道の心得であると受け止める必要があると思うのであります。
 
今、私は「伝道の心得」と申しましたが、キリスト者にとって伝道とは、人生の中の一部の営みではありません。キリスト者というのは、主イエスの弟子になった者のことであり、弟子の使命はイエス・キリストの福音を宣べ伝えることであります。弟子は、そのことのためにこそ選ばれたのであります。ですから、ここに書かれていることは、私たちキリスト者の生き方が示されているということであります。更には、キリスト者個人のあり方だけでなく、キリスト者集団、即ち、教会の姿が先取りして描かれているとして受け止めることもできるのであります。今日は、そういう思いでこの箇所の御言葉を聴いて参りたいと思います。

1.収穫のための働き手として

まず、1節には、その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた、とあります。ここから二つのことを聴き取ることが出来ると思います。一つは、私たちが遣わされるのは、主イエスが行くおつもりの場所であるということです。私たちは、家庭や地域や職場などで福音について証しをする機会が与えられることがあります。それは、主がそこに派遣して下さっているのだと受け止めるべきですが、そこへ私たちだけが行くのでなくて、主がそこへ行くおつもりで私たちを派遣しておられるということです。自分だけでは福音を伝えきれないし、自分には証しをするだけの資格がないという思いに捉われることも多いと思います。しかし、心配しなくてよいのです。主が後から来て下さるのであります。今一つ教えられることは、二人ずつ遣わされたということであります。これは伝道のために訪問する時は、二人ずつの方が証言としての確かさがあるとか、説得力が高まるという意味があると思われますが、それと同時に、伝道は個人プレーではないということを示しておられると受け止めることが出来ます。伝道は個人が行うものではなくて、教会の業であります。牧師であっても一人で伝道は出来ません。仮に、一人の人の強い影響力で教会に来るようになった人があったとしても、その一人にしか繋がっていなかったら、往々にして破綻してしまいます。教会につながり、イエス・キリストに繋がっていなければ、本物ではありません。そういう意味でも複数のチャンネルが必要です。
 次に、2節で主はこう言っておられます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」――私たちは現代の我が国のキリスト教の状況や、この米子伝道所の状況を、<収穫が少ない>と言って嘆いているのではないでしょうか。しかし、主イエスの見方は違います。収穫は多いと見ておられるのであります。私たちの期待が大きすぎるということでしょうか。そうではありません。主イエスの目には収穫が見えているのであります。豊かな実りが用意されているのです。しかし、足りないのは収穫のための働き手であるとおっしゃいます。私たちは「収穫は多い」と言われる主のお言葉を信じて、収穫に出かける必要があります。出かけないから、収穫が少なく見えるのであります。
 
主イエスは、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とも言っておられます。自分で収穫に出かけることも必要ですが、働き手を送ってもらうようにとの祈りが足りないのです。私たちの祈りの中で、献身する人が起こされることを願う祈りがどれだけ祈られているでしょうか。日本キリスト教会の牧師不足は極めて深刻であります。「働き手を送ってください」ではなく、「働き手を起こしてください」との祈りを篤くしなければなりません。

2.狼の中に送り込まれる小羊として

主イエスは次に34節でこう言われます。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」――主イエスは、私たちが遣わされて生きていく姿を、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われます。羊は弱い動物です。狼に襲いかかられたらひとたまりもありません。小羊であれば尚更です。私たちが遣わされる所はそれほど恐ろしい所なのでしょうか。伝道が困難だということは、良く分かります。しかし、襲いかかられ、命を落とすような所なのかしら、と思われるかもしれません。今の日本ではキリスト者が目に見える迫害を受けるということはありません。しかし、この世は私たちのキリスト者としての命を奪う危険を持っています。この世の楽しみや、この世における生き甲斐や、仕事の忙しさや、この世の習わし、等々、迫害を受けているという意識がないまま、この世に同化してしまったり、夢中になってしまって、信仰に生きるという本来の命を失ってしまうのであります。私たちはそのようなこの世の力にあっさりと負けてしまう小羊のようなものであります。主イエスはそのことを御存知でありつつ、敢えて私たちを狼の群れに送り込まれるのであります。それも、「財布も袋も履物も持って行くな」とおっしゃいます。私たちは、この世がそれほど恐ろしいのであれば、もう少し準備を整えて、自分に力をつけてから、と思います。もう少し聖書のことや信仰のことが分かってから、と思うかもしれません。しかし、主は何も持たずに、弱い私たちを最前線に送り出されるのであります。なぜでしょうか。それは、必要なものは主が備えてくださるし、いざとなれば主御自身が来てくださるからであります。また、「途中でだれにも挨拶をするな」と言っておられます。これは挨拶がいっさい必要ないという意味ではなくて、余分なことに手間取るな、ということです。救いを告げ知らせるのは急を要するのであります。

3.平和(神の国の現実)を告げる者として

主イエスは更に56節でこう言われます。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」――「どこかの家に入ったら」と言われています。ここでは、どこかの町や村を訪れて、家を訪問して伝道することを念頭に話しておられるのでしょうが、訪問伝道のことだけを考える必要はありません。私たちの家庭や地域や職場といった生活の場においても、キリスト者がどのような立場の者としてそこにあるかということが教えられているのであります。「まず『この家に平和があるように』と言いなさい」と命じておられます。先週のイザヤ書の説教でも、「平和」のことが出て来ました。ユダヤ人にとって「平和(シャローム)」は日常の挨拶の言葉でありましたが、挨拶以上の意味を持っていました。平和(シャローム)とは、単に戦争がないということではありません。人と人との間に平和があるだけでなく、神と人との間の本来の関係が回復し、和解が成立することがシャロームだということを申しました。つまり、罪からの救いが実現することが本当の平和であります。ですから、私たちが家庭や地域や職場で、まず成すべきことは、そこに神との和解が実現し、救いが訪れることを祈るということであります。
 「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」と言われています。「平和の子」とは平和の福音を受け入れる人のことです。私たちがキリストによってもたらされる和解の福音を伝えて、それが受け入れられるなら、そこには平和が実現すると約束しておられるのであります。私たちは、ただ単に平和を指し示すだけではありません。<聖書にはこんなことが書いてありますよ>とか、<教会に行けば、こんな平安が与えられますよ>と言って平和を紹介するだけでなくて、そこに平和をもたらすことが出来ると言っておられるのです。主イエスが復活された後、弟子たちが家の中に集まって隠れていましたが、主イエスが入って来られて、「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われました。この挨拶によって、弟子たちは実際に平和を受けることが出来ました。主の赦しと和解が実現して、弟子たちは証人として立ち上がることが出来るようにされました。そのように、私たちも主イエスが派遣してくださるのですから、人々の中に罪の赦しの平和を持ち込むことが出来るのであります。
 7,8節を飛ばして9節に入ります。その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と教えておられます。先程の5節では、遣わされた者の使命は、そこに平和をもたらすことだと教えられましたが、ここでは、「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と言われています。これは同じ使命を別の言い方で述べられたと受け止めてよいでしょう。「神の国が近づいた」とは、主イエスのメッセージの要点でありました。「神の国」とは神の支配のことであります。神の支配とは、サタンが力を揮えなくされ、罪が滅ぼされるということであります。それは罪が赦され、救いが成就し、平和が実現することと同じであります。主イエスが来られたことによって、そのような神の支配、即ち、平和が地上に始まったということであります。その神の国が近づいたしるしとして、病人がいやされるのであります。主イエスは神の国が近づいたしるしとして、多くの病人をいやされました。それと同じように、遣わされた弟子たちも、病人をいやすという使命が与えられるのであります。現に、17節以下を見ますと、遣わされた弟子たちは、悪霊を追い出すことが出来たのであります。神の国の御支配に与ると、人間を縛り付けていた諸々のものから解放されるのであります。
 しかしながら、私たち自身や、私たちキリスト者の身の回りの現実や教会の実状を見ても、本当にそんなことが可能なのだろうか、と問わざるを得ません。サタンからの解放の実現が見えて来ません。

4.悔い改めない不幸

1012節を見ますと、こう書かれています。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」――いくら伝道しても、弟子たちの言葉を受け入れない人がいます。神の国の支配を信じない人がいます。その場合は、足についた町の埃を払い落とすという仕草をして、町から出て行ったらよい、とおっしゃるのであります。12節に出てくるソドムという町は、先ほど朗読していただいた創世記19章に出て来ましたが、その重い罪のために神の裁きを受けて、滅ぼされたのでありますが、神の国を受け入れない町は、そのソドムよりも大きな罰を受けると言われるのです。13節以下にも、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤ地方の町の名前が出て来ますが、これらは主イエスが伝道された町々であります。一方、ティルスやシドンというのは異教の町であります。ガリラヤの町々は主イエスの福音を受け入れなかったのに、異教の町々の方が悔い改めて軽い罰で済む、と言われるのであります。厳しい裁きのお言葉であります。
 けれども、そう言われながら、11節の後半では、「しかし、神の国が近づいていることを知れ」と語っておられます。神の国が近づいているという現実には変わりがない、神様の御支配が始まっているという現実は厳然とそこにある、と告げておられます。ですから、<なお、悔い改めの可能性は残されている>ということであります。神様は、なお忍耐をもって、悔い改めを待っておられ、神様の愛の御支配は変わらないということであります。12節から16節にかけて主イエスが言われている言葉は、福音を受け入れない町々に対する厳しいお叱りの言葉ではありますが、主イエスの嘆きの叫びであり、深い悲しみと痛みの叫びなのであります。

5.主の名の権威による勝利にあずかる

17節以下には、遣わされた弟子たちが喜んで帰って来たことが記されています。喜んで帰って来た弟子たちはこう言っております。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」――弟子たちは何を喜んでいるのでしょうか。もちろん、悪霊さえも屈服したということです。自分たちでは手に負えないと思っていた悪霊を打ち負かすことが出来たことが、驚きであり、喜びなのです。しかし、彼らは自分たちの力が、思ったよりも大きかったことを喜んでいるのではありません。「お名前を使うと」と言っております。主イエスのお名前に力があったことに驚き、喜んでいるのであります。「お名前を使う」というのは、水戸黄門が印籠を出すように、「イエス・キリストの名を知らぬか」というと、悪霊が驚いて退散したということではありません。名前というのは、その人の全人格を表します。つまり、弟子たちと一緒にイエス・キリストが働いておられるということを弟子たちは実感したということです。弟子たちは、二人ずつ遣わされましたが、主イエスと別れて、自分たちだけで行くことは心細かったに違いありません。ところが、行ってみると、あたかも主イエスが一緒におられるのと同じように、悪霊が屈服するのを体験したのであります。
 
この弟子たちの喜びの報告に対して、主イエスはこう言われます。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」――主イエスは、「サタンが天から落ちるのを見ていた」と言っておられます。もちろん、肉眼でみておられたわけではありません。しかし、主イエスには、そこで行われることが全部見通されていたのであります。主イエスは更に、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」とも言っておられます。サタンを打ち負かす主イエスの権威が、弟子たちを通して働いた、ということです。
 
このことは、私たちが遣わされている場所で働く場合も、同様のことが起こるということであります。先程も申しましたように、私たちは自分を取り巻いている現状の中で不安を拭いきれません。悪霊やサタンの大きな力の前で、私たちの力は極めて微力であるとしか思えないのであります。それは、その通りであるかもしれません。しかし、私たちは主イエスの名によって遣わされているのであります。主イエスは目に見える形では一緒におられないようではありますが、全てを見ておられるのであります。主イエスは「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を私たちにも与えてくださらないことはありません。主イエスは勝利を見通して私たちを遣わしておられるのであります。そうであるのに、悪霊がなかなか屈服せず、相変わらずサタンが力を発揮しているとしたら、何処が間違っているのでしょうか。――それは、私たちが、主イエスが目に見えない姿ではあるが私たちと共にいてくださって、そのお名前をもって働いていてくださり、その霊の目でもってすべてを見ておられ、その権威をもって敵を打ち負かしてくださることを信じていないからであります。神の国が近づいていること、否、主イエスの御支配が始まっていることを、本気で信じていないからであります。主イエスが今も共に働いていてくださることを信じること、そこに私たちの伝道活動の原点があります。
 私たちは、今週も、それぞれが遣わされる家庭や地域や職場に出かけて行きます。主イエスは今日も、3節にあったように、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」と言って、私たちをこの礼拝の場から送り出してくださいます。それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と主イエスには分かっています。だから、主イエスの名において私たちを遣わしてくださるのです。目には見ないが私たちと一緒に働いていてくださるということですし、私たちがサタンと戦うのを見守っていてくださり、その権威をもって、敵に打ち勝たしてくださるのであります。
 

結.名が天に記されることを喜ぶ

しかし、ここで今日の説教を終わるわけには参りません。最後に20節で主イエスが付け加えておられることに耳を傾けなければなりません。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」――弟子たちは、思いがけない成果を収めたことを喜んで帰って来ました。主イエスもそのことを喜ばれたに違いありません。しかし、主イエスはここでもう一度、本来何を喜ぶべきかを問い直されます。悪霊が屈服したことを喜んでいてよいのか、あなたがたが本来喜ぶべきことは何なのか、と問うておられます。そして言われます。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」これは、このような大きな働きをしたことによって天に名が記されるというのではありません。既に、神の子とされ、神の民の一員とされていること、つまり、罪を贖われて、義とされ、救われて、神の国の一員とされ、天に名が書き記されていることを喜びなさい、と言っておられるのであります。私たちがこの地上でそれぞれの場に派遣されて、そこで戦いながら、喜びをもって確認すべきことは、私たちは救いに入れられたものであり、国籍は天にあって、主がいつも共にいてくださるということであります。 祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
御許に凱旋することを約束された者として、今日も礼拝に招いてくださり、主の御言葉をもって、再びこの世に遣わしてくださる恵みを感謝いたします。どうか、目の前の大きな壁や、悪霊やサタンの姿に怯えることなく、主のみ名と権威を信じ、また私たちの名が天に記されていることを信じさせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年7月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書10:1−20
 説教題:「
神の国は近づいた」         説教リストに戻る