ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。
 荒れ野は園となり/園は森と見なされる。
(イザヤ書3215

 エルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まるという厳しい状況の中で、主はイザヤを通して、三つのメセージを告げられた。
 第一3218は、正義と公平をもって支配する指導者が出現し、人々を災いから守るだけでなく、サタンの攻撃からも守り、潤いのある命と平安を与え、人々の目は曇らされず、神の言葉を良く聞き分けるので、信仰者として、御心に適った生き方が出来るようになる、と告げている。その指導者とは、救い主キリストを指し示している。
 第二33914は、「憂いなき女たち」「安んじている女たち」、即ち、危機感を抱かずに、安逸を貪っている人たちに呼びかけられており、自分たちの不信仰に気づき、「胸を打って嘆け」と、悔い改めることを求めている。そして、私たちの生活の場である「ぶどう畑」や「喜びの家」に豊かな実りが得られず、野ろばや家畜だけが住むような荒れ野になる、と警告している。
 第三331520は、一転して、平和で安らぎに満ちた将来について語られている。それは、救い主キリストが来られる「救いの時代」のことであり、更には、終末に完成する神の国のことを語っていると受け取ることも出来る。その時は、標記のように、天から聖霊が注がれ、荒れ野がぶどう畑に戻るだけでなく、森と見なされるほどに繁茂する。そして、正義と公平がもたらされ、安らかな信頼と平和が生み出されると言う。それは、キリストによってもたらされる救いの実現を指し示しており、そこでの平和とは、単に戦争がないというだけではなく、神と人との本来の関係が回復されるということである。こうした状態は、理想や夢の世界のことではなく、「わが民は平和の住みか」と言われているように、神の民が現実の世界の中で、「とこしえの安らかな信頼」に生き始めるのである。
 最後に20「すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか」と、信仰者が、神から注がれる霊を受けて、荒れ野であったところも豊かな実りを約束された園に変えられて、平和に自由に生きる幸いが述べられている。教会はそのような場所なのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2013年7月30日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 32:1−20 説教題:「荒れ野は園となる」   説教リストに戻る