序.厳しい裁きの中で

月の最後の主日にはイザヤ書を1章ずつ取り上げて、御言葉を聴いております。今日は32章でありますが、4月に聴いた30章と5月に聴いた31章の背景を振り返っておきましょう。北王国イスラエルは既にアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダにも圧力を強める中で、ユダの王や指導者たちは、エジプトと同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしておりました。そんな中で、預言者イザヤは、エジプトに頼ることの愚かさを述べ、神をこそ信頼すべきことを語っていたのであります。イザヤの語った印象深い言葉を思い出しておきたいと思います。30章の153行目からのカギの中)です。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」――しかし、ユダの指導者たちはイザヤの言葉に耳を傾けず、アッシリアに抵抗したため、結局、紀元前701年にエルサレムはアッシリアに包囲されて、重い貢物を支払わねばならなくなります。更に、紀元前597年には、台頭したバビロンによってエルサレムは占領され、その後バビロン捕囚も始まります。神の裁きを受けるのであります。
 今日の32章は、そのような厳しい状況を背景として語られたものだと思われるのですが、預言者イザヤの目は、そのような裁きの現実の向こうにあるものに注がれているようであります。32章の冒頭は、「見よ」という言葉で始まっております。現実から目を上げて、神が備えて下さる将来に目を向けるように促しているのであります。
 
私たちを取り巻く状況はどうでしょうか。イザヤの時代のユダの民のように、国の存亡の危機に見舞われるような状況に置かれているわけではありません。しかし、我が国が向かっている方向は、神様の御心に適っているのでしょうか。国の指導者たちが向かおうとしている道は正しいのでしょうか。近く国政選挙が行われようとしています。私たちは目先のことに惑わされることなく、何が神様の御心に適うのかということを、信仰に立って判断することが求められているのではないでしょうか。国の政治の事柄だけでなく、教会の歩みや個人の生活においても同様に、近視眼的にならずに、目を上げて、神様が備えて下さる将来に目を向ける必要があります。では、今日与えられている聖書の御言葉は私たちにどのような将来を語っているのでしょうか。
 
与えられているイザヤ書32章は、小見出しがついた3つの段落から成っています。最初の1節から8節までの段落は「正しい王の支配」となっていて、正しい指導者とそうでない愚かな指導者について述べられています。二つ目の9節から14節の段落は、「憂いなき女たち」という小見出しがつけられています。92行目では「安んじている娘たちよ」と呼びかけられています。危機感をもたず、安逸を貪っている女や娘ということですが、女性だけのことを言っているのではなくて、エルサレムの市民たちのことでしょう。三つ目の15節から20節までの段落は「神の霊の働き」という小見出しになっています。ここには、裁きによって荒れ野になったエルサレムの回復が述べられています。今日は、これらの語りかけを私たちの現実に対する神様からの御言葉として聴き取って参りたいと思います。

1.曇らない目、聴き分ける耳

最初の段落から見て参りましょう。1節。見よ、正義によって一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する。ここには、「王」と「高官」が登場します。彼らは国の指導者たちであります。彼らの統治と支配の原理は「正義」と「公平」だと言っております。この二つの言葉は一般的な政治や司法や倫理の世界でも重要な概念でありますが、聖書においては非常に重要な言葉で、「正義」は「義」とも訳されますし、「公平」は「公正」とか「審判」とも訳されます。これらの言葉は法律や神が定められた律法(掟)に従って善悪を裁くという冷たいイメージがあるかもしれませんが、そのような厳しさを持ちつつ、同時に正義が犯されて弱い者や貧しい者が苦しい目に遭うことから保護するという「恵み」や「救い」という意味が含まれています。新約聖書では更に意味が広がっています。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っております。「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ32124)。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦されることをさえ「神の義」と言うのであります。イザヤはもちろん、イエス・キリストのことを知らないのですが、ここでイザヤが言っていることは、単に優れた政治的指導者のことを言っているのではなくて、救い主(メシヤ)のことを指し示しているのでしょう。
 2節には、彼らはそれぞれ、風を遮り、雨を避ける所のように、また、水のない地を流れる水路のように、乾ききった地の大きな岩陰のようになる、とあります。理想的な指導者というのは、人々を暴風雨から守り、砂漠に水をもたらせ、暑い日射しを遮る大きな岩陰のような役割を果たすと言います。これも単に災害から国民を守り、治山治水を行う指導者というだけではなくて、人々をサタンの攻撃から守り、潤いのある命と平安を与える救い主を指し示しているのでしょう。
 
3節から5節は指導者自身のことではなくて、指導者の働きによって人々がどう変わるかが語られています。見る者の目は曇らされず、聞く者の耳は良く聞き分ける。軽率な心も知ることを学び、どもる舌も速やかに語る。もはや、愚かな者が高貴な人とは呼ばれず、ならず者が貴い人と言われることもない。――人々の目が曇らされず、現実をしっかりと見ると共に、神様が与えて下さる幻をも望み見ることが出来るし、神様の言葉を聞き分けて、それに従うことが出来るようになる。更に、心が開かれて物事を深く知る、即ち主の御心を知ることが出来る、そして、聞いたことを自分が理解し受け止めるだけでなく、人々に向けて証しするようになる、ということであります。ひと言で言えば、信仰者として、御心に適った生き方が出来るようになる、ということです。そのような信仰者が育った社会では、「もはや、愚かな者が高貴な人とは呼ばれず、ならず者が貴い人と言われることもない」と言います。「愚かな者」とは神を知らない者のことを言い(詩141)、「高貴な人」とは困っている者のために気前よく与える者のことを言います(箴言196)。神を知らない者が、富や悪巧みや権力をもって人々を支配する世の中が終わって、冒頭にあった「正義」と「公平」をもって、困った者のために尽くす指導者、即ち、救い主キリストが支配する世界に変わるということであります。
 6節、7節は、「愚かな者」や「ならず者」と言われる悪党どもが幅を利かせている社会のことが書かれていますが、これが現実の世の中であるかもしれません。しかし、そのような社会がいつまでも続くのではありません。8節で、高貴な人は高貴なことをはかり、高貴なことを擁護すると言われているように、救い主の御支配が行われる時が来る、というのがイザヤの語る第一のメッセージであります。

2.胸を打って嘆け

二つ目の9節以下の段落に進みます。憂いなき女たちよ/安んじている娘たちよ、と呼びかけられています。先ほども申しましたように、危機感を抱かずに、安逸を貪っている人たちのことであります。「愚かな者たち」が支配している現状の中で、その危うさに気付いていないのであります。身辺には危険が及んでいないので、安心してこれまでの生活を続けているのですが、アッシリアによってエルサレムが包囲される時は迫っているのです。バビロンによってエルサレムが陥落する時は近づいているのであります。
 
このような状態は、我が国の多くの人たちの有様を物語っていると言っては言い過ぎでしょうか。少子高齢化、経済力など国力の低下が顕著になる中で、我が国の将来を憂える識者はいます。その中で、国の指導者たちは、国民を安心させ将来に希望を持たせる政策を掲げています。被災地の人々に向かっては、多くの人々が「諦めないで」という言葉を語っています。そうした政策や呼びかけは必要であります。しかし、それでもって本当に安心出来るのだろうか、ということが、この「憂いなき女たちよ」「安んじている娘たちよ」というイザヤの呼びかけによって問われているのではないでしょうか。
 イザヤは、わが声を聞け、/わが言葉に耳を傾けよ、と言って、10節以下で、やがて襲ってくる災いについて語ります。安んじている女たちよ、一年余りの時を経て、お前たちは慌てふためく。ぶどうの収穫が無に帰し、取り入れの時が来ないからだ。敵の攻撃が激しくなって、ぶどうの収穫が出来なくなるのであります。それだけではありません。11節には、憂いなき女たちはおののく、安んじている女たちは慌てふためく。衣を脱ぎ、裸になって、腰に粗布をまとえ、とあります。「衣を脱ぎ」「腰に粗布をまとう」とは、日常の衣服を脱いで、喪服に着替えるということであります。戦いによって死者が出るということであります。1213節では、ぶどう畑のために、胸を打って嘆け、美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために、茨といらくさに覆われたわが民の畑のために、喜びの家、陽気な町のために、と言われています。豊かな耕作地は茨や雑草に覆われて荒廃し、喜びの声が聞こえた陽気な町が、嘆きに包まれるのであります。陥落した町は占領軍によって火に焼かれてしまいます。14節に至ると、宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ、見張りの塔のある砦の丘は、とこしえに裸の山となり、野ろばが喜び、家畜の群れが草をはむ所となる、と言われています。王の住む宮殿も破壊され、町には人の気配もなくなり、賑やかだった町は廃墟となって、草だけが生い茂る荒れ地となって、野ろばや残された家畜だけが住む所となると言うのです。
 
なぜ、エルサレムの人々は安逸を貪っていたのでしょうか。なぜ、憂いなく、安んじていたのでしょうか。それは、神を信じていたので安心していたのではありません。逆に、自分たちの不信仰に気付いておらず、神の裁きを受けなければならない罪の中にある自分たちに思いが至っていなかったのであります。目の前にある美しいぶどう畑の豊かな実りや、賑やかな町の様子、立派な宮殿など、目に見える表面的なものだけを見て、霊的に乏しくなっている状態が見過ごされていたのであります。12節で「胸を打って嘆け」と言われています。これは破壊された町や畑について嘆けと言っているだけではありません。自らの不信仰、罪について目覚めて、嘆き悔い改めることを求めているのであります。
 
これは、私たちの状態に対する警告であり、呼びかけであります。私たちが「憂いなき女」ではないか、「安んじている娘」ではないかと自らを顧みることを促されています。我が国の憂うべき状態に気付いていないということがあるかもしれません。国が進もうとしている方向で、自分に直接の被害が及ばないということで、安んじてしまっているかもしれません。そういう国家レベルのことについても「胸を打って嘆け」と言われているのではないかと思いますが、もっと身近な日常生活において、信仰生活においても、「胸を打って嘆く」べきことがあるのではないかと問われているのではないでしょうか。自らの罪に気付かず、自分は神と人に対して、間違いないことをしている、後ろ指を指されないことをしている、だから神様の裁きを受けることはない、と安んじているかもしれません。――しかし、イザヤは私たちにも、「起きて、わが声を聞け」「わが言葉に耳を傾けよ」と呼びかけ、「ぶどう畑のために、胸を打って嘆け」と警告いたします。私たちが安んじている日常生活の場である「ぶどう畑」や「喜びの家」、それは家庭生活や教会生活の場でありますが、そこが豊かな実りが得られず、野ろばや家畜だけが住む所になる、と警告しているのであります。

3.荒れ野は園となる

ところが、15節からの第三の段落に入ると、イザヤは一転して、平和で安らぎに満ちた将来について語り始めるのであります。ここは、最初の段落で述べられていた「正義と公平をもって支配する王」、即ち、救い主メシアが来られることによってもたらされる<救いの時代>のことを語っていると受け取ることが出来ますし、更には、終末に完成する神の国のことを語っているとも受け取ることが出来ます。
 
15節の前半では、ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる、と語られています。裁きによって荒廃した地が、創り変えられるのですが、その手段は、「高い天から注がれる霊」であります。人間の知恵や技術や政治が世界を創り直すのではありません。神から注がれる聖霊が創り変えるのであります。
 
15節後半では、荒れ野は園となり、園は森と見なされる、と述べています。裁きを受けて、ぶどうの収穫が無に帰して荒れ野となってしまったぶどう園が、もう一度かつてのぶどう園に戻るだけでなく、森と見なされるほどに繁茂するのであります。
 
16節では、そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう、と言われています。単に、ぶどうの実りが回復し、豊かな生活に戻れるということではありません。ここは1節で、「正義によって、一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する」と言われていたことに対応します。「正義」と「公平」がもたらされるのです。それは、優れた指導者が復活するということではないでしょう。主イエス・キリストによってもたらされる救いが実現することを指し示しているのでしょう。
 17節を読むと、正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である、と述べられています。正義がもたらすものは、平和と永遠の安らぎに対する信頼であります。平和(シャローム)とは、単に戦争がないということではありません。人と人との間の平和の以前に、神と人との本来の関係が回復され、和解が成立するのがシャロームであります。つまり、罪からの救いが実現することであります。そこにもたらされるのは、「とこしえに安らかな信頼」であります。「憂いなき女たち」が安んじていた壊れやすい平安ではなくて、キリストの十字架によって打ち立てられた完全な平安であり、神への揺るぎない信頼であります。そこから、人と人との間の和解と信頼も産み出されます。
 
このような状態というのは、理想や夢の世界のことではありません。18節を見ると、わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう、と言っております。「わが民」が「平和の住みかに住まう」のです。理想的な架空の集団ではなくて、現実のユダの民が平和の住みかに住まう、つまり、神の国の民として生きるということです。救いが完成するのは終末の時であるにしても、イエス・キリストによる救いの御業が行われた今は、神の民とされたキリスト者は、現実の社会の中で、平和の住まいに住み始めるのであります。神に対する「とこしえに安らかな信頼」に生き始めるのであります。
 
次の19節では、こう言われています。しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。これは前後の文脈に合わないように思われるので、研究者は後代に挿入されたと考えたりいたします。しかし、そう考える必要はありません。森に雹が降るとか町が辱められるというのは、ユダの民を脅かす敵の攻撃、あるいは、再び不信仰に陥って神の裁きを受けること、と見ることが出来ます。私たちも、イエス・キリストによって救いが実現したといっても、まだサタンの攻撃は絶え間なく続いています。私たちも不信仰に陥ります。平和が乱されることがあります。主イエス・キリストが再び来て下さる終末の時までは、まだ、森であっても雹が降り、平和の住みかである筈のところに戦いがあるのであります。しかし、イエス・キリストによる救いの御業は既に行われ、勝利は確定し、シャロームは確実なのであります。

結.水のほとりに

最後に、20節の言葉を聴きましょう。すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか。
 
ここには、天から霊を注がれ、荒れ野が園とされた「平和の住みか」の幸いが語られています。これは信仰者が教会で生かされることの幸いが語られていると言ってよいでしょう。「すべての水のほとりに種を蒔き」ということは、蒔かれた種が、十分な水を与えられて豊かな実を実らせることが期待されます。詩編第1編の最初にも、同じように、信仰者の幸いを歌った有名な句があります。そこでは、こう歌われています。「いかに幸いなことか、・・・主の教えを昼も夜もくちずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」(詩編113)。主イエスは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ737)。私たちは、キリストが与えてくださる命の水を飲んで、渇くことなく、豊かな実を実らせるのであります。最後に、「牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか」と言われています。水のほとりに種が蒔かれて、ぶどうの実ばかりでなく牛やろばが食べる草も豊かに成長するので、牛や馬に家畜小屋で飼料を与えなくとも、野原に自由に放し飼いが出来る幸いを述べています。以上のように、信仰者は神から注がれる霊を受けて、荒れ野であったところも豊かな実りを約束された園に変えられて、平和に自由に生きることが出来るのであります。
 15節の言葉は、日本最初のプロテスタント教会である日本キリスト教会横浜海岸教会の中庭の記念碑に刻まれているそうです。教会はこの世の荒れ野の中に建てられて、天から注がれる霊によって、荒れ野を園とし、森とも見なされる豊かで平和で自由な世界を創る拠点であります。私たちはそのような園を住みかとし、安らかな宿とし、休息の場所としていることを喜び、感謝したいと思います。 

祈  り

正義と公平をもって支配される父なる神様!
 
目先の平安に安んじて、あなたを忘れ、ぶどう園が荒れ野に変わってしまう危機が迫っていることに気付いていない私たちであります。そのような者に、今日は「わが言葉に耳を傾けよ」と呼びかけて下さり、聖霊を注いで下さって、正義と公平が宿る豊かで平和な園へと招き入れて下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、自らの罪を覚えて、胸を打って嘆く者とならせて下さい。
 
どうか、あなたの御声を聞き分け、あなたに固い信頼を寄せる者とならせて下さい。
 
どうか、この豊かなぶどう園に住み続ける者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年7月30日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 32:1−20
 説教題:「
荒れ野は園となる」         説教リストに戻る