序.困難の中でこそ

今日与えられておりますペトロの手紙の宛先は、小アジアの地域にあって異教社会の中で迫害や弾圧を受けている教会のキリスト者たちでありまして、彼らを励ますために書かれた手紙であります。異教社会の中で生活しているキリスト者という点では、私たちとこの手紙の宛先の人たちとは同じでありますが、私たちは目に見える迫害や弾圧を受けることのない、幸いな時代に生きております。しかしながら、この国にあっては、仏教や神道の伝統や習慣が生活の中に入り込んでいて、お隣の韓国などと違って、キリスト教徒の比率が1%を越えられない状態が長く続いております。キリスト教に対して目に見える形での強い反発があるわけではなく、むしろ好感を持たれていて、教会を訪れる人は決して少なくないのですが、洗礼を受けて、教会の中に入り込み、キリスト者としての生活へと進む人が少ないのであります。この伝道所の教勢が進まないのも、そのような異教社会の壁があることに原因を求めることも出来るかもしれません。あるいは、若い人たちが、溢れる情報の中で、何のために生きるとか、真理を求めるということに関心が向かず、楽しみや豊かさだけを求めて、聖書や教会には見向きもしないという現代の風潮があって、それがキリスト教の進展を妨げているということもあるかもしれません。
 しかし、キリスト教が伸びない原因を、そのような異教社会や現代の風潮だけに求めてよいのでしょうか。第一、私たち自身が、異教的な伝統や習慣の中に嵌まり込んでいますし、現代の風潮に流されてしまっているところがあるのではないでしょうか。私たち自身がキリスト教の福音にしっかりと根ざした生き方をする必要があります。このペトロの手紙が宛てられたキリスト者の状況と、私たちの状況とはずいぶん違いがありますが、今日与えられている聖書の箇所で勧められていることは、はるか昔の遠い世界にしか当て嵌まらないことではなくて、現代の日本のキリスト者にも当て嵌まることであると思います。
 
私たちの米子伝道所のことを考えた場合、伝道という面では、先程述べたような日本の伝統や習慣が大きな制約になっていることがありますし、現代の若者がキリスト教に興味を示さないということもあります。そのような状況をどのようにして乗り越えていけるのか、ということが大きな課題であります。また、教会の内部にあっても、礼拝生活から離れてしまっている方々がいらっしゃいます。どうすれば礼拝に喜びをもって来ていただけるのかという深刻な課題があります。また、教会員や求道者の一人一人が置かれている状況の中で、それぞれに色々な形で重荷を担いつつ、そこからなかなか抜け出せず、先に希望が見えて来ないという現実もあります。心や体の重荷を背負っておられる方、人間関係に苦しんでおられる方、仕事のことで不安を抱えておられる方もおられます。そのような様々な問題や課題や重荷がある中で、教会は何を出来るのか、教会に連なる私たちはどうすればよいのか、何が大切なのか、といったことを、今日の箇所からも教えられ、希望を与えられ、力を与えられたいと思うのであります。

1.皆心を一つにして

8節の初めに、終わりに、とあります。これは、<ここまで述べられて来たことの総括をすれば>、という意味ですが、特に2章の11節から3章の7節では、政治的な統治者に対して、仕事の上での主人に対して、家庭における夫や妻に対して、どうあるべきかが語られて来たのですが、ここでは、キリスト者の生活の中心である教会生活における兄弟姉妹との関係、及び敵対する者たちとの関係において、何を大切にすればよいのか、ということを語ろうとするのであります。
 まず8節では、兄弟姉妹との関係についてこう勧められています。皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。ここには5つの勧告が述べられています。一つずつ見て参りましょう。第一は「皆心を一つにせよ」ということです。これは異教社会の中で戦わなければならないキリスト者への勧告としては当然の勧めであると言えるでしょう。しかし、このように勧められなければならないということは、教会の中が必ずしも一つになっていなかったということかもしれません。私たちの教会にも、残念ながら一つになれない現実があります。では、この勧めはそういう中で、仲直りして、よく話し合って、一つになれるように努力しなさい、という勧めなのでしょうか。それだけのことで一つになれるのでしょうか。聖書の他の箇所で、キリスト者が一つになることについてどのように語られているかを聞いてみましょう。ヨハネ福音書1016で主イエスはこう語っておられます。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」――つまり、キリスト者の群れを一つにするのは、羊飼いである主イエスだということであります。羊飼いがいない群れは表面的には仲良くなったように見えても一つではありません。主イエスが一つにして下さるとき、様々な不一致を越えて一つになることが出来ます。また主イエスはヨハネ福音書1721節では、父なる神さまにこう祈っておられます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」――つまり、父なる神と主イエスが一つであられることが、私たち主イエスを信じる者が一つになるモデルであり根拠なのだということであります。また、ローマの信徒への手紙155節では、「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリストに倣って互いに同じ思いを抱かせ・・・」とあります。つまり、キリストが御自分の満足を求められるのではなく、隣人を喜ばせることを求められたのと同じ思いを抱くことによって、一つになることが出来るということであります。このように、私たち同志が仲良くすることによって一つになることは、崩れやすいのでありますが、キリストと神様との関係、キリストと隣人の関係に倣うとき、一つになることが出来るということであります。
 次に、第二の勧告は、「同情し合い」であります。これは第一の「心を一つにする」ことの内容であります。これも他の聖書を参照します。ローマの信徒への手紙1215節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉があります。これが「同情」ということの内容をよく説明しているのではないでしょうか。
 
第三の勧告は、「兄弟を愛し」ということです。ここで「兄弟」というのは、キリスト者の仲間ということです。このペトロの手紙の122節ではこう書かれていました。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」――ここで「真理」というのは、キリストによって差し出された犠牲的な愛の真理のことであります。そのキリストの愛の真理を受け入れた者は、当然、仲間の兄弟たちをも愛すべきだし、愛することが出来るようになる、ということです。
 第四の勧告は、「憐み深く」です。この「憐み深く」という言葉はいつも申しますように、<内臓をえぐるように>という意味を持つ言葉です。単に気持ちの上のことではなくて、内臓までえぐりだすように相手のことを思って尽くすことで、主イエスについてよく使われている言葉であります。このペトロの手紙の224節にこう書かれていました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」――このキリストの十字架の犠牲の愛を兄弟姉妹の間でも生かし合うということが勧められているのであります。
 
最後の第五の勧告は、「謙虚になりなさい」であります。これも、単なる謙譲の美徳の教えではありません。主イエスはマタイ福音書の202628節でこう教えておられます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上に立ちたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(主イエス御自身)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」――謙虚とは、このように、単に出しゃばらないというだけでなく、兄弟のために仕えるということであります。

2.祝福を祈る

以上が教会内におけるキリスト者相互の交わりについての勧告でありますが、続く9節の勧告は、教会の中においても当て嵌まりますが、むしろ教会の外からの攻撃に対して、どのような態度で臨むべきかが教えられています。こう教えられています。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。――この世では、悪に対しては悪をもって、侮辱されたら侮辱をもって対抗する、悪口を言われたら悪口を言い返すというのが当然のように行われます。そうしておかないと、ますます相手を増長させてしまい、こちらの立場が弱くなってしまうからであります。相手が強すぎて仕返しが出来ないと、相手に対して恨みを抱いてしまって、それは深い傷として心に長く残ってしまうのであります。
 
しかし、ペトロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と勧めます。主イエスも「山上の説教」の中でこう教えておられます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ54445)。パウロもローマの信徒への手紙の中で、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ1214)と述べ、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ1227)と勧めています。これらの勧めを聞いて、私たちは自分にはとても出来ない、自分はそんな聖人ではない、と思ってしまうかもしれません。しかし、ここで大切なことは、「かえって、祝福を祈りなさい」と言われていることであります。「祝福を祈る」とはどういうことでしょうか。その相手が神様の祝福(恵み)を受けることを祈ることです。神様の祝福(恵み)とは、あれこれの幸せというより、神様の最大の贈り物である罪の赦しの恵みを受けることであります。主イエスは十字架に架けられたとき、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ2334)と祈られました。これは主イエスにしか出来ない祈りでしょうか。考えてみると、私たち自身も、主イエスを十字架に架けるに等しい罪を犯して来た者たちであります。そして、その罪を赦された者たちであります。9節の後半に「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と言われています。キリスト者は、罪の赦しという最大の祝福を受けた者たちでありますから、その祝福を受け継いで、他の人にも引き渡すために召されているのであります。もし、相手の人のために祝福を祈れないということがあるとすれば、自分が受けている筈の祝福をまだ受け取っていないということになります。罪を赦されるという大きな祝福を受けた者は、相手の祝福を祈ることが出来るようにされるのであります。

3.主の目は正しい者に注がれる

10節から12節までは、先ほど旧約聖書の朗読で読んでいただいた詩編34編の13節から17節までの引用であります。原文では冒頭に「なぜなら」という言葉がついています。9節で、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と述べられたことを受けて、その勧めの根拠を、詩編を引用して述べているのであります。
 
10節の前半に「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、」とあります。<生きていることの幸いを覚えて毎日を過ごす人は>ということです。ここで「幸せな」と訳されている言葉は、原文では「善い」という言葉で、この後、11節で「善」と訳され、13節で「善いこと」と訳されているのと同じ言葉です。ですから、単にこの世的な幸せ(幸福)のことではありません。9節の言葉で言えば、神様の祝福を受けて日々を過ごすということであり、それは罪の赦しを受けて、そのことを感謝し喜びながら生きるということであります。その具体的な生活が10節の後半から11節にかけて述べられています。「舌を制して、悪を行わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」――これは、先程の9節の勧めに対応しています。これは先程も申しましたように、生まれながらの私たちには出来ないことであります。しかし、自分に与えられた神様の祝福(赦しの恵み)を覚えつつ、相手のために祝福を祈るならば、このことが出来ようになる、ということであります。ここに「平和を願って」という言葉もあります。私たちは神様に背いて神様との間の平和を失ったものでありましたが、そのような私たちをイエス・キリストの故に赦して下さって、平和を回復して下さいました。だから、私たちに敵対する人たちとも争うのではなく、その人たちとの間の平和を願うことが出来るようになるのであります。
 
12節には、「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に傾けられる」とあります。これは、ここまで語られた勧めを受け入れて実行する者たちへの神様の約束と受け取って良いでしょう。「正しい者」というのは、一般的な善い行いをする者というよりも、自分に対して悪を行う者に対して悪をもって返すのではなくて、その人たちのために祝福を祈る者のことでありましょう。そして、神様は必ずそのような人に目を注がれて、お見捨てになることはないし、その人の祝福を求める祈りに神様は耳を傾けられるのであります。一方、悪事を働く者に対して神様はどう対応されるのでしょうか。ここでは「主の顔は悪事を働く者に対して傾けられる」という言葉で終わっています。詩編ではこの後に「その名の記念を地上から絶たれる」との厳しい裁きの言葉があるのです。しかし、ここではそれが省かれています。旧約の時代とは異なって主イエスの赦しが実現したので、そのような人も執り成しの祈りによって、祝福を受け継ぐ可能性があるという含みが残されているのかもしれません。

4.善いことに熱心

さて、13節に参ります。もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。――「善いこと」とは、11節で「善」と言われていたことであり、その中身はここまでに述べて参りましたように、悪に対しても祝福を祈るということであります。「善いことに熱心であるなら」と言っております。この「熱心」という言葉は、「嫉妬する」とか「熱中する」といった意味を持つ強い言葉です。私たちは自分の身内や親しい仲間のために祝福を祈ることには熱心になれても、自分に敵対したり反抗する者、気の合わない者については、祝福を祈ることは疎かになってしまいます。むしろ悪口を言ったり嘆いたりすることの方が多くなってしまいます。しかし、ここでは、「善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」と言っております。「害を加える」とは、「悪を行う」という意味の言葉です。つまり、祝福を熱心に祈っておれば、悪がそれを揺るがすことが出来ないということです。<祝福を祈っている者にどんな悪も手を出すことは出来ない>と断言しているのであります。
 続けて14節後半では、しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです、と言っております。これは、13節で「だれがあなたに害を加えるでしょう」と言ったけれども、万一苦しめられるようなことがあっても、義のための苦しみであれば幸いなことです、という意味にとれます。けれども、現実には日々の生活の中で苦しめられることが多かったのではないかと思います。ですから、そんな中で、<たとえ、義のために苦しみに遭わされることがあったとしても、その苦しみの中で、あなたは幸いであると覚えることが出来ます>という意味に解釈した方が良いのではないかと思われます。つまり、苦しみの中でも、苦しみを与える人のために祝福を祈ることが出来るのは幸いだということです。14節後半から15節前半は、原文では続いた文章になっているのですが、人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい、と訳されています。続けて訳すと、「人々を恐れたり、心を乱したりせずに、心の中でキリストを主とあがめなさい」となります。ここでのキーワードは「心の中でキリストを主とあがめなさい」ということであります。「あがめる」とは礼拝することであります。どれほど迫害があり、悪意に囲まれていても、キリストの十字架による赦しの事実は確かだし、救いの御業は成し遂げられたのであります。その確信に立ってキリストを心の中で礼拝しておれば、何も恐れることはないし、心が乱されることもない、ということであります。これは自己満足するとか、戦いを避けて精神世界に逃げ込むということではありません。キリストの確かな救いの御業があるので、必ずキリストの祝福が勝利するから、そのことに心を向ければ、動揺することはないということです。
 
教会の外にも、内側にも、困難があり、解決しない問題があります。キリスト者個人の生活の中でも、葛藤があり、いざこざがあり、癒えない病との苦しい戦いがあります。その中で、不安になったり、意気消沈しそうになります。先が見えなくなります。そこで大切なことは、神様の祝福を祈るということ、そしてキリストを主とあがめ、礼拝するということであります。そこに確かな幸いな生活があります。

結.希望についての弁明

今日の箇所では、キリスト教に対して無理解な人たちに囲まれている中で、キリスト者はどうあるべきかということについての勧めを聴いて参りました。その答えは、ひと言で言えば、9節にあったように、その人たちのために「祝福を祈る」ということでありました。
 
ところで、キリスト者がそのような「祝福を祈る」生き方をしていますと、周囲の人は、なぜそのような生き方が出来るのかと驚いたり疑問を持ったりいたします。15節の後半から16節は、そのような場合にどう対処したらよいのかということを教えています。
 あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。――「あなたがたの抱いている希望について」とあります。人々はキリスト者が困難な中で希望を抱いていることを不思議に思うのであります。キリスト者はその希望の根拠について明確に弁明しなければなりません。それは信仰の中身を語るということになります。自分の言葉で信仰告白をするということです。私たちにはその用意が必要であります。
 
その場合に、弁明する態度が大切です。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」と教えています。問う人は、敵対的に、或いは人を馬鹿にしたような調子で問いかけて来るかもしれません。逆に、何か善いものを見つけ出そうと必死で問いかけて来るかもしれません。いずれにしても、私たちは偉そうな態度ではなく、謙遜に、相手に対して敬意を払いながら語ることが必要だと言うのです。更に「正しい良心で」と言っています。建前や形だけではなく、本当に信じていること、行っていることを飾りなく語るということであります。そうすれば、たとえキリスト者のことを悪く言っていた者も「恥じ入るようになる」と言っています。
 
最後に17節で、神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい、と言っております。「善を行う」とは、「祝福を祈る」ことでした。そこには、苦しみが伴うことがあるとしても、神様の御心によるのであれば、幸いなことであります。人のため、敵のため、気に入らない人のために「祝福を祈る」ならば、必ず、本当の幸いが与えられる、祝福が帰ってくる、ということであります。祈りましょう。

祈  り

祝福の源である父なる神様!
 
大きな困難や不安や恐れがある中で、キリスト者に与えられた恵みと約束を聴くことを許され、感謝いたします。
 どうか、キリストを主とあがめて礼拝し続けることによって、あなたの祝福に生きる者とならせて下さい。祝福を祈る者とならせて下さい。そしてどうか、周囲の人たちにも、主にある希望について弁明し、あなたの祝福を分かつことが出来る者にしてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年6月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 3:8−17
 説教題:「
希望についての弁明」         説教リストに戻る