序.墓に向かうしかない人生か

先週に引き続き、「共通聖書日課」で取り上げられているルカ福音書711節以下の箇所から御言葉を聴きたいと思います。先週はすぐ前の百人隊長の僕の癒しの出来事でありました。そこでは主イエスが百人隊長の言ったことに感心されて、「イスラエルの民の中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたことが記されていました。しかしながら、先週の出来事の主役はこの百人隊長ではなくて主イエスであり、主イエスの権威ある御言葉が働いた出来事であるということをお話ししました。今日はそれに続く箇所ですが、時間は少し経過していて、出来事のあった場所もカファルナウムからナインという町に移っています。しかし、この福音書の編集者はある意図をもって、この二つの出来事を並べています。その意図とは、この後の18節以下で、洗礼者ヨハネが主イエスのもとに使いを送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか」と質問したことに対する主イエスの答えにつなげることであります。そのことは後程、もう一度触れることにしますが、先週の箇所では病気で死にかかっていた僕(しもべ)が主イエスの権威ある御言葉によって癒されたという出来事であったのに対し、今日の箇所では、主イエスの権威ある御言葉によって死んでいた若者が生き返ったという出来事であります。
 ここで注意しなければならないことは、これらの出来事が書かれているのは、主イエスに奇跡を行なう特別な力があることを誇示するためではないし、御言葉の権威というキリスト教の一つの思想や理念を物語のかたちで記したのでもなく、あくまでも実際に病気で苦しみ、死を悲しんでいる人たちの前で起こされた現実の出来事であるということであります。今日の箇所で言えば、あるやもめの一人息子が死んでしまって、どうすることも出来なくて、墓場に向かうしかないという現実、町の人々もやもめに同情して葬列に加わっているが、それでもってやもめの悲しみを和らげることも慰めることも出来ないという現実、そのような死に支配された人間の現実に対して、主イエスが向き合って、その現実を打ち破られ、若者に命を取り戻されたという出来事であります。
 
この出来事は2000年前の特定の状況の中で起こされた特別な出来事であって、同じようなことが何度も起こるわけではありません。現に聖書の中でも、主イエスの復活以外に、死んだ人が生き返ったという例は三人しか書かれていません。極めて例外的な出来事であります。この若者もその後ずっと生き続けたわけではなくて、結局は死ぬのであります。私たちの人生というのは、結局、ここで最初に描かれている墓に向かう葬列のように、死の力に支配されているのではないでしょうか。そうであれば、ここに記されている若者の甦りは、私たちの現実とはかけはなれた出来事であって、私たちには関係のない、意味のない出来事なのでしょうか。私たちは諦めるしかないのでしょうか。そうとすれば、なぜこのように聖書に書きとめられ、2000年の間、読み続けられ、多くの人がここから慰めや力を受け取って来たのでしょうか。――今日は、この問いを抱きつつ、ここで起こっている出来事の本質に迫りたいと思います。そして私たちに出会ってくださる命の主なるイエス・キリストの御言葉を聴きたいと思うのであります。

1.イエスと弟子・群衆の一行11節)

もう一度、出来事そのものを最初から1節ずつ見て行きたいと思います。まず11節です。それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。一つ前の6章では主イエスが弟子たちをはじめ多くの民衆に説教をされたことが記されています。おそらくその一行が7章に至ってカファルナウムに来て、更に今日の箇所でナインの町にやってきたのであります。これは主イエスの地上における活動で繰り返される一シーンであります。主イエスによる出来事というのは、架空の物語ではありません。このように地上を歩まれ、街々を訪れられる中で実際に起こった出来事であります。主イエスはこの世の中で起こっている様々な現実にぶつかり合いながら、御言葉を語られ、出来事を起こされたのであります。この箇所の出来事もその一つであります。この主イエスに弟子たちと大勢の群衆が一緒でありました。主イエスを取り巻く一つの集団が形成されていました。この集団は主イエスの御言葉を聴き、御業を見て、後に証人として出来事を語り継ぐのであります。この集団は現代で言えば、私たち教会に集う者たちになぞらえることが出来ます。主イエスは、今は見える姿では地上にはおられません。しかし、今も、私たちを引き連れて、この地上を歩まれ、地上に起こっている様々な問題にかかわって下さり、そこで御言葉において出来事が引き起こされるのであります。そして、私たちはその出来事の証人とされるのであります。――そのことがこれから起ころうとしているということです。

2.母親と町の人――悲しみの葬列12節)

12節に参ります。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主イエスの一行が町の外から門のところに近づくと、町の中から外へ向かって出てくる行列に出会いました。それはあるやもめの一人息子が若くして死んで、その遺体が町の外の墓場に向けて運び出されるところでした。このやもめは何年か前に主人も亡くしておりましたから、唯一頼りとすべき息子も失って、その悲しみはどれほど大きかったかを想像することが出来ます。町の人たちはこのやもめに同情して大勢が葬列に加わっていました。彼らはこのやもめに慰めの言葉をかけたり、当時の習慣に従って、笛やシンバルを鳴らして賑やかにして、悲しみを紛らそうとしたのでしょうが、一人息子の死という現実をどうすることもできません。誰もやもめの悲しみを消し去ることは出来ません。そこには死の力が支配しています。人間に出来ることと言えば、遺体を町の外に担ぎ出して、墓に葬るしかないのであります。
 
私たちはこのような不幸な出来事にしょっちゅう出会っているわけではありません。時々、ご近所や親戚にこのような出来事が起こっても、葬儀などの一定の儀式が終われば、日常の生活に戻って、普段どおりの仕事や楽しみに帰るのであります。私たちはこのような出来事が私たちの身近で起こったり、自分自身に起こる可能性があることを知っています。そういうことは、起こってしまえば運命として諦めるより仕方ないことなのでしょうか。私たちはそうしたことが出来るだけ起こらないように、健康に留意したり、災害や事故に遭わないような対策を行なったりいたしますが、誰も死から逃れることは出来ませんし、死がもたらす不幸を避けることは出来ません。周りの人も、悲しみの中にある人を慰める言葉を失うのであります。このナインの町の葬列はそのことを私たちに思い起こさせます。その悲しみの葬列と主イエスを先頭にする一行が鉢合わせしたのであります。それと同じことが主の日ごとに行われる礼拝においても起こります。死に支配された行列と命に満ちた行列が礼拝の場でぶつかり合うのであります。

3.「もう泣かなくてよい」――憐みの言葉13節)

二つの行列が出会って何が起こるのでしょうか。13節に進みます。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。主イエスはこのやもめを見て、憐れに思われました。この「憐れに思い」という言葉については何度も説明しましたように、「はらわたがちぎれるほどの痛み」という意味を持った言葉です。単なる心の中に湧き上がる感情ではなくて、はらわたを引き裂くような肉体を傷つけるほどの思いを持たれたということであります。主イエスは不幸な人と向き合われたとき、ただ可哀想だと同情されるだけでなくて、御自身を痛めるほどに、その人と深く関わろうとされるのであります。御自身の力を振り絞って、その人と向き合われるのであります。死という、人間の力ではどうすることも出来ない現実を前にしても、主イエスはそれを動かしがたいこととして受け止められるのではなくて、御自身の力を振り絞って、場合によっては御自身の体を痛めたり、御自身の命をかけてでも、死の力と向き合おうとされるのであります。――主イエスは、私たちの不幸にも、そのようにして向き合って下さるということです。私たちの命が損なわれないために、御自身の身の安全を顧みずに、死の力と戦って下さるお方であります。
 母親を見て、憐れに思われた主イエスは、「もう泣かなくともよい」と言われました。この訳は、この母親に対する労りを感じさせる良い訳だとは思いますが、原文は「泣くな」であります。悲嘆に暮れているこのやもめに対する言い方としては場違いで失礼とも思える言葉ですが、死に立ち向かわれる主イエスの御意志から出た力強い命令なのであります。<死の力になんか負けてはならない>、ということです。

4.「起きなさい」――命の御言葉1415節)

母親に言葉をかけられただけではありません。14節では行動に移られます。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。律法の規定では死体に触れてはならないとされていて、触れるとその人自身が汚れることを意味しました。主イエスはその律法を越えて、躊躇することなく棺に手を触れられました。墓へと向かう棺を押しとどめる行為であります。その迫力に、担いでいる人たちは立ち止ります。すると主イエスは、今度は死んだ若者に向かって命令されます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」死んで横たわるしかなく墓に運ばれるしかない者に向かって、呼びかけられるのであります。――すると、死人は起き上がってものを言い始めたのであります。詩編339節にはこんな言葉があります。「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」(詩編33:9)。まさにこの詩編が語る通りのことが起こりました。主イエスの言葉が死に打ち勝つ命をもたらせたのであります。そればかりでなく、ものを言い始めることも出来ました。人は死ぬことによって、言葉を交わすことが出来なくなります。神様に語ること、即ち祈ることも出来なくなります。しかし今、この若者は、人と人との間、神様と人との間の、言葉による生きた命の関係をも回復されたのであります。生きるということは、単に心臓が動いているということではありません。神と語り合い、人と話し合うことが出来る関係にあるということであります。この若者は、そのような命の関係を取り戻すことが出来たのであります。
 15節の後半に、イエスは息子をその母親にお返しになった、とあります。やもめの母親にとって、この一人息子は唯一の頼りであり、生き甲斐でもあったことでしょう。死はそのような大切な関係をも断ち切ってしまいます。しかし、主イエスによって命が回復されることによって、二人の間の大切な関係をも取り返すことが出来たのであります。けれどもそれは、前と同じ関係ではありません。以前は自然的な血のつながりによる親子の関係、人間的な愛情で結ばれた関係でした。そのような関係は、たとえ死によって裂かれなくとも、何らかのきっかけで亀裂が生じてもおかしくない脆い関係であったのであります。しかし今、主イエスが母親にお返しになった関係は恵みによって結ばれた関係であります。その関係の下では、息子のこれからの人生は母のために尽くす生涯となるはずであります。それは二人の間にどんなことがあっても切れることのない深い愛で結ばれた歩みとなったのではないでしょうか。
 
私たちの生まれつきのままにおける神様との関係、また人との関係というのは、罪の中にあります。神をも恐れず、自分中心に生きる中での脆く崩れやすい関係であります。そのような関係は、死と共に断ち切られてしまいます。しかし、そこに主イエスが関わられ、死すべき者が新しい命に甦らされたならば、神様との関係も人との関係も新しくされます。そこでは、神様に仕える新しい生き方が始まりますし、人のために尽くす新しい人間関係が創られます。それは親子であれ、夫婦であれ、友人関係であれ、どのような人間関係についても言えることであります。主イエスは私たちの壊れやすい人間関係、壊れてしまった人間関係をも新しく創り直して下さるのであります。

5.「大預言者が我々の間に現れた」16節)

16節には、この出来事を見た人々の驚きの反応が記されています。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
 ここで人々が「大預言者が現れた」と言ったのはどういう意味でしょうか。旧約聖書の列王記上17章に、預言者エリヤがサレプタというところに滞在中、そこの女主人の息子が病気にかかって息を引き取ったのですが、エリヤが息子のために祈ると生き返って、母親に返したという出来事が書かれています(列王上17:1724)。また、列王記下4章には、預言者エリシャがシュネムというところに行ったとき、そこの婦人の息子が死んだのですが、神様に祈ると生き返って、婦人のもとに返したという出来事が書かれています(列王下4:1837)。人々はそれらのこと思い出して、大預言者と言われたエリヤやエリシャが再来したと思ったのであります。ここで「現れた」と訳されている言葉は、主イエスが若者に対して「起きなさい」と言われ、「死人は起き上がって」と書かれている語と同じく、復活を表わす言葉が使われているのであります。だから、人々の言った言葉は、「大預言者が我々の間に起き上がった(復活した)」と言っているのと同じなわけです。だからこそ人々は、「神はその民(自分たち)を心にかけてくださった」と言って賛美したのであります。
 
ところで、福音書を書いたルカがここで人々のこのような反応のことを記しているのは、冒頭で少し触れましたが、実は18節以下に書いていることの伏線なのであります。18節以下には、ヘロデによって捕えられていた洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちからナインの町での出来事の報告を聞いて、弟子たちを主イエスのところに遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」と問わせたことが書かれています。その問いに対して、主イエスは22節でこうお答えになっています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」――これはイザヤの預言を組み合せたもの(イザヤ35:542:726:19)でありますが、この主イエスのお答えの中に「死者は生き返り」という言葉が含まれています。つまりルカが伝えたいのは、<この主イエスこそ、イスラエルの民が待ち望んでいた預言者であり、旧約の時代以来約束されていた救い主であるお方こそ、主イエスである>というメッセージであります。

結.心にかけられた人生

ところで、これらのメッセージは、現代の私たちにも当てはまるのでしょうか。私たちも当時の人たちと同じように死の力に支配されています。あの時以来、人が死ななくなったわけではなくて、相変わらず人は誰でも死にます。誰も死を押し止めることはできないと諦めています。親しい者の死に遭遇すれば、泣かざるを得ないし、自分に死の時が近づけば恐れざるを得ないのであります。ナインの町の出来事のように、主が憐みをもって死者に近づいて、手を触れてくださることはないのでしょうか。死に瀕している者に手を触れて癒してくださるということはないのでしょうか。
 確かに、目に見える形で肉体をとった主イエスが私たちのところに来て下さるわけではありません。けれども、礼拝において、復活の主イエスが聖霊において、御言葉をもって近づいて下さり、私たちを支配している死の力に立ち向かって下さるのであります。そして、「もう泣かなくともよい」と言って、死が私たちに対して力を振るえないようにして下さるのであります。私たちは死ななくなるわけではありません。罪を犯したので死の時は必ず訪れます。しかし、主イエスと出会った者は、もはや死に支配されることはありません。なぜなら、主イエスが罪と死に囚われている私たちを憐れに思って、御自身の命を惜しまずに十字架にお架かりになることによって、既に贖われているからであります。残されていることは、私たちが、悔い改めて、主イエスを救い主として信じて委ねるだけであります。そうすれば、「起きなさい」との御言葉によって、私たちも死の力に抗して、新しい生き方、新しい人生の歩みへと甦らされるのであります。そして、ナインの町で若者の甦りに接した人々に声を合わせて、「神はその民を心にかけてくださった」と言って、主を賛美する者とされるのであります。そして更に、終わりの日が来れば、主が私たちの体をも復活させてくださることを、喜んで待ちつつ、残された地上の人生を力強く歩むことが出来るのであります。
 
最後に17節を見ていただくと、こう書かれています。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。――主イエスによって死を命に変える御業が行われたことを知った者は、そのことを自分たちの周りに話さざるを得ないのであります。私たちも、礼拝で聴いた御言葉、礼拝で行われた死から命へと変えられた主の救いの御業を、人々に伝えないではおれないのであります。主イエスはそのような形で、今も、この山陰の地においても、救いの御業を続けておられます。
 
お祈りいたします。

祈  り

命の主なるイエス・キリストの父なる神様!
 
私たち自身は、死の力に屈服するしかない者であります。しかし、主イエスが私たちの罪の結果である死を担って下さり、復活して下さることによって、死を命に変えて下さいましたことを賛美いたします。
 
私たちは、なお自分の死に怯えたり、身近な者の死に直面すると悲しまざるを得ない者でありますが、命の主であるイエス・キリストとの関係は断たれることがなく、救いが約束されていることを信じさせて下さい。どうか、絶えず命の御言葉を聴くことによって、あなたとの命の関係を保たせて下さるとともに、兄弟姉妹や身の回りの人間関係においても、命の関係に生きることが出来るようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年6月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書7:11−17
 説教題:「
死を命に変える」         説教リストに戻る