序.主が感心された信仰とは

6月に入りましたが、今月の3回の主日には「共通聖書日課」と呼ばれるものに従った聖書の箇所を取り上げることにしています。その「共通聖書日課」は3年サイクルになっていて、福音書ではマタイ、マルコ、ルカが各年で集中的に取り上げられていて、今年は「ルカ年」になっております。そういうわけで、今月だけでなく、今年は時々ルカ福音書を取り上げて参ります。
 さて、今日の箇所では、主イエスが百人隊長の言葉を聞いて感心され、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」(9)と言われたということが書かれています。この百人隊長というのは、イスラエル人ではなくて異邦人であったと考えられます。イスラエルの人々からすれば、信仰の世界の外にいる人であります。けれども、3節から5節の辺りを見ると、ユダヤ人の長老たちと親しい関係にあったらしいし、会堂の建設にも貢献するような人でありましたが、ユダヤ人と同じように割礼を受けてユダヤ教徒になるところまではいっていなかったと思われます。いわば、求道者として礼拝にも参加していたのでしょう。そのような人に対して主イエスは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われたのですから、驚きです。私たちの伝道所の礼拝に来られている求道者の一人に向って、教会員の方々を差し置いてこのように言われたようなものです。ですから、この主イエスのお言葉を聞いて、先に信仰を与えられている筈の教会員は、自分の信仰を顧みる必要があります。私たちはこの百人隊長以上の信仰を持っているとは言えないのではないでしょうか。少なくとも主イエスに感心していただけるような立派な信仰でないことは確かです。日常生活の中で問題に直面した時に、この百人隊長のような対応が出来るのでしょうか。では、主イエスも感心された百人隊長の信仰とはどのような信仰なのでしょうか。今日は、そのことをこの箇所から学びたいと思います。
 
ところが、ある神学者(日本ルーテル神学校徳善義和教授)は、この箇所の主役は、この百人隊長ではなくて、主イエスであると言っておられて、ここでは「百人隊長の信仰」を見るのでなくて、「百人隊長の内に働く神の働き」、言い換えると、主イエス働きをこそ注目すべきだと言っておられます。また、私たちは立派な信仰のことを頭で学んだだけでは、そのような信仰に至ることが出来ません。そこに聖霊による主イエスの働きがなければ、小さな信仰さえ持つことが出来ないのであります。ですから、この礼拝において、主イエスが働いて下さることを祈りつつ、御言葉に耳を傾けたいと思います。

1.カファルナウムに

さて、1節をご覧いただきますと、こう書かれています。イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。この前の6章では、主イエスが語られた説教が記されています。これはマタイ福音書に記されている有名な「山上の説教」の抜粋版のようなもので、山から下りて平らな所でお話になったというので、「平地の説教」と呼ばれていますが、それが終わって、カファルナウムに入られたのであります。この町はガリラヤ湖の北西の岸辺にある町で、主イエスが宣教を開始された場所であり、ガリラヤ伝道の中心となる町であります。ではなぜ、主イエスは一連の説教を終えると、ガリラヤ地方のカファルナウムに来られたのでしょうか。ガリラヤ地方は紀元前8世紀ごろから、外国の支配を受けて異民族が移住してきたために、ユダヤ人からは「異邦人の地」と呼ばれて軽蔑されてきました。しかし、イザヤ書には、こういう預言が記されています。「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:239:1)主イエスはこのように預言されていたガリラヤに光を射し込ませるために、カファルナウムに入られたのであります。そしてそこで何をされたかというと、福音書の前後の流れで見ますと、一つには、ここまでは説教を通して高い理想を語られたのですが、ここではそれが現実の御業として行われて、主イエスが語られた御言葉の権威が弟子たちにはっきりと示されることになります。今一つは、救いがイスラエルの民だけではなくて、異邦人にも及ぶのだということを示すということであります。このような実際の体験を通して弟子たちを訓練することを目的として、カファルナウムに入られたと考えられるのであります。今日の箇所の百人隊長の僕の癒しの出来事も、そのような目的に沿った主イエスの働きの一つとして理解できるのであります。

2.百人隊長の願い

では、今日の箇所の出来事を見て参りましょう。まず23節です。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるよう頼んだ。――百人隊長というのは、ローマの軍隊で百人の兵卒を指揮する隊長のことであります。カファルナウムはガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスの軍隊の駐屯地がありましたから、この百人隊長はヘロデ王に仕える隊長で、異邦人であったと考えられます。その異邦人の隊長の部下が、病気で死にかかっていました。部下思いの隊長で、何とか助けたいと思う中で、主イエスがこの町に来られたことを聞くのであります。この「部下」と訳されている言葉は普通「奴隷」とも訳されるものです。一介の奴隷でありながら、平素から信頼を寄せて重んじて用いていたところに、この百人隊長の人柄が偲ばれます。また、この百人隊長は冒頭にも触れましたように、異邦人でありながら、ユダヤ教の会堂に出入りしていて主イエスの癒しの力について聞き及んでいて、ユダヤ人の長老たちと懇意にしていたようで、彼らを通して主イエスにお願いすれば、部下を助けに来てもらえるのではないかと考えたのであります。自分で直接、主イエスの許に行かなかったのは、自分が異邦人であるということで、遠慮したのと、ユダヤ人の長老の力を借りた方が、話が通り易いと思ったのでしょう。
 45節を見ると、長老たちは彼の要請に応えて主イエスの許に来て、こう言って熱心にお願いしました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」――ここには、百人隊長が異邦人でありながらユダヤの社会に溶け込んでいて、自分でお金を出して会堂を建てるというような功績もある人なのだから、この人のためにご尽力いただいてもよいのではないか、との思いが込められています。
 
ここまで読んで参りますと、この百人隊長の部下思いの高潔な人柄が伝わって来ますし、信仰生活の面でも立派な働きをしていて、半端な信仰の持ち主ではないことが分かります。では、主イエスがこの後、「これほどの信仰を見たことがない」と言われたのは、このような彼の人柄や教会生活のあり方のことを評価されたということなのでしょうか。それは間違いありませんが、どうしてそのような信仰に導かれたのか、そこには主イエスの行動があります。更に先を見て参りましょう。

3.イエスは出かけられた

6節を見ますと、そこで、イエスは一緒に出かけられた、とあります。ユダヤ人の長老たちの言葉を聞いて、彼らと一緒に出かけられたということです。ここはマタイ福音書の併行箇所を見ると、少し違っていて、そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた、と書かれています。この場合の原文は「わたしが」が強調されていて、主イエスが強い御意志をもって出かけられたことが分かるのであります。と言うのも、当時のユダヤ社会では、異邦人というのは罪人の扱いで、そのような罪人と交わって、その家に入るなどということは、その人自身も罪人と見做されたからであります。そのような律法の枠を超えて、行動を起こされたということであります。
 けれどもそれは、主イエスが百人隊長の人柄や功績について長老たちから聞いて感心されたから、枠を越えた行動をされたと見るべきではないでしょう。そうではなくて、百人隊長の部下が病気の力に屈して死にかかっているのを何とか助けたい、そして、部下のことを心配している百人隊長の切なる願いに応えてあげたい、という思いが主イエスを動かしているのでありましょう。そういう主イエスの思いの中では異邦人であることとか、部下の者の身分が奴隷であることは関係ありませんし、逆に、百人隊長の人柄や功績が優れていることも関係ありません。ただ、闇の力によって支配されている人々に光を輝かせたいという思いだけで、行動を開始されたのであります。
 

4.ひと言おっしゃってください

続けて6節の後半から読みます。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」6b−8
 ここを読むと、百人隊長の考えが途中で変わったことが分かります。最初は主イエスに来てもらおうと考えておりました。それしか部下が助かる道はないと考えていました。しかし、主イエスが家に近づかれると考えが変わったのです。考えが変わったというよりも、大切なことに気付いたのであります。そもそも自分には主イエスをお迎えするような資格はないし、自分の方からお迎えに行くことさえも出来ないような者であるということに気付かされたのであります。
 
そのように気付いた理由が述べられています。彼はローマ軍の権威の下にあって、百人の部下に命令し、従わせる権威を与えられています。彼が命令すれば、部下たちはその言葉に従います。隊長の言葉には権威があります。戦場では、隊長が「行け」と命じられれば、危険を感じても行かざるを得ません。隊長の言葉には人の命が懸っています。それだけに部下の命を左右する権威があるのであります。だから、部下はその通り従います。主イエスはそれとは比較にならない大きな権威を持っておられるのだということに百人隊長は気付いたのであります。自分がローマ軍の権威の下に置かれているように、主イエスは神様の権威の下にあって、主イエスがその権威の下に命じられれば、その言葉が実行される筈ではないか、ということに気付いたのであります。そうであれば、主イエスがわざわざ自分の家まで来られなくても、ひと言「病気よ、治れ」と命じて下されば、その言葉は実現する筈ではないか。百人隊長はそういう信仰に導かれたのであります。
 百人隊長は、最初は、主イエスに来てもらって、病人に出会ってもらわないと癒しが実現しないと考えていました。それも主イエスに対する信頼に基づく考えではあります。けれども、主イエスが自分の家に向かって出かけられたという知らせを聞いて、そのようなお願いをすることが間違いであることに気付くのであります。主イエスの行動によって気付かされたと言った方がよいかもしれません。信仰が成長させられたのであります。最初は、ユダヤ人の長老たちが言ったように、百人隊長自身も、自分は会堂のことで一定の貢献もしているので、主イエスに足を運んでいただくことをお願いすることは許されるだろうと、ひそかに思っていたのかもしれません。しかし、いざ、主イエスが異邦人である自分のところへ向かっておられるということを知って、自分が神の権威をもっておられるお方をお招き出来るような者ではないということに気付くとともに、主イエスの御言葉の内に込められている権威に気付かされたのであります。
 漁師であったペトロが主イエスの弟子にされた時、最初主イエスが「網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃった言葉には、半信半疑で「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて、そのとおりにすると、おびただしい魚がかかったので、驚いたペトロは主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びました。それと同じように、百人隊長も最初は主イエスに対して一定の期待を持っていたかもしれませんが、主イエスのお言葉に対する確信までは持っていなかったのでしょう。けれども主イエスが自分の方に向かって来られるという現実を前にして、自分の間違いに気づくと共に、主イエスの言葉の権威に目覚めさせられたのであります。
 先ほど詩編107編の御言葉を朗読していただきました。そのうちの20,21節をもう一度ご覧ください(p旧948)
 主は御言葉を遣わして彼らを赦し/破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
 
この言葉の通り、主イエスは御言葉によって、私たちを破滅から救い出して下さる慈しみ深いお方であります。そのように主イエスの御言葉には権威があるのであります。

結.これほどの信仰を見たことがない

最後に、福音書の方の910節を読みましょう。イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。――主イエスが百人隊長の言葉に感心されました。「感心された」と訳されていることばは、「驚かれた」と訳されることが多い言葉であります。主イエスが百人隊長の家の方に向かわれたという行動が、百人隊長の信仰を導いたとすれば、主イエスが感心したり驚かれるというのは不思議な気がいたしますが、「これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃっているように、イスラエルの民の中にさえこれほどの信仰が見られなかったのが現実であったので、それが今、異邦人の中に見出すことが出来たことに、喜びをもって驚かれたということではないでしょうか。
 
主イエスを感心させた信仰とは、信仰を持っているとされるユダヤ人と親しい交わりを持ちつつ礼拝に参加している信仰ではありません。ユダヤ人たちを愛して立派な会堂を建てるような貢献をした信仰でもありません。主イエスが目の前に来て癒して下さることを願う信仰でもありません。主イエスを感心させた信仰とは、主イエスのお姿を目で見ることはなくとも、主イエスの語られる御言葉を信じる信仰であります。
 
私たちには、この百人隊長のような信仰があるのでしょうか。神様の権威をもって語られる御言葉は、その通りになるという信仰を持っているでしょうか。私たちの信仰は、ただ自分の悩みや問題の解決を求める信仰です。しかし、私たちはそのために主イエスの登場を求める資格などありません。教会のため、人のためにどれだけ尽くしたかというようなことは、資格になりません。
 しかし、主イエスは、私たちが御言葉への信仰を持つことを望んでおられます。礼拝は主イエスの御言葉に出会う場であります。そして主イエスは、そのお姿を見ることは出来ませんが、聖霊において礼拝の場に向かって出かけて下さるお方であります。そして、百人隊長の中に信仰を創り出して下さったように、私たちの中にも信仰を産み出して下さるお方であります。そして、信仰のあるところでは、主イエスのお姿はそこになくても、御心ならば、百人隊長の部下が元気になったように、体の癒しも行われるでしょう。そして、主イエスは、私たちの信仰の成長に感心し、驚いて下さるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

全ての権威の源である父なる神様!
 
今日も主イエスの御言葉を通して、あなたの権威に向き合うことが許されましたことを感謝いたします。
 
私たちはあなたの恵みを受ける資格のないものでありますが、私たちが苦しみ悩みの中から発する地上的な願いにも耳を傾け、私たちに御言葉を信じる信仰を与え、本物の喜びへと導こうとしておられることを覚えて、重ねて感謝いたします。
 
うか、あやふやな私たちの信仰を正して下さい。どうか、様々な思い煩いの中で、本物の信仰へ進むことにためらいを覚えている者に、権威ある御言葉に聴き従う信仰をお与え下さい。
 
この所における礼拝が、いつも、あなたの御言葉と出会う喜びの場となるようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年6月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書7:1−10
 説教題:「
主が感心された信仰」         説教リストに戻る