序.裁きか、救いか

今年は原則として毎月最後の主日にイザヤ書の御言葉を1章ずつ聴いて行く予定にしております。先月は30章でありましたが、その中心的なメッセージは3015節の言葉で、「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」というものでした。イザヤがこのように語った背景は、既に北王国イスラエルが北方の大国アッシリアによって滅ぼされていて、更にアッシリアは南王国ユダに対しても圧力を強めて来ている状況の中で、ユダの王ヒゼキヤをはじめ指導者たちが西方の大国エジプトと同盟を結んで、アッシリアに抵抗しようとしていた、ということがありました。その中でイザヤはエジプトに頼ることの愚かさを語り、神を信頼すべきことを説いたのでありました。
 今日の31章も同様の背景の中で語られたイザヤの言葉で、30章の続きと言ってもよいのであります。けれども、一つの特色があります。それは、裁きの言葉と救いの約束の言葉が混然としているのと、解釈によって裁きとも約束とも受け取る言葉があるので、メッセージとして受け取りにくいという点です。しかし、今日の箇所を単にイザヤの時代にユダの人々に語られた言葉として聞くのでなく、今の私たちに語られた御言葉として受け取ろうとするときに、決してどうでもよい問題ではありません。私たちは個人の生活においても、教会の活動においても、問題に直面する中で、今行っていることが御心に適っているのか間違っているのか、またどう対処すべきか判断を迫られます。けれども現実の問題というのは、色々な要素がからまって、答えが見えにくいのであります。イザヤの言葉もそうした現実を反映しているのかもしれません。しかし、そうした中で、神様の御心が曖昧である筈はありません。祈りつつ、聖霊の導きを受けながら、何とか神様の深い御心を、はっきりと聴き取りたいものであります。

1.エジプトに頼る愚かさ

まず、1節から3節までの段落ですが、ここは冒頭に、災いだ、という言葉がありますので、裁きを告げている箇所だと受け取れます。30章では、<主を信頼して静まっているところにこそ主の力が働く>と告げられたのでありましたが、ユダの王や国民は、それとは反対の道を選んでいました。彼らはエジプトの馬を支えとし、戦車騎兵の数がおびただしいことに頼りとして、聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしないのであります。その結果、災いを受けても当然であります。こうした不信仰に対して、主御自身による裁きが語られます。2節をご覧ください。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。――ここでは人間の知恵と神の知恵が対比されています。主は知恵に富む方ですから、主がお語りになった御言葉を信頼して静まっているべきでした。「災いをもたらす者」と「悪を行う者」というのはユダの人々のことで、「味方する者」とはエジプト軍のことです。どちらも、災いをもたらされ、攻められるのであります。具体的にはアッシリアによって攻撃を受けることになりましたが、そこには神の御心が働いています。30章で語られていた「御言葉は無に帰されることはない」のであります。更に3節ではこう語られます。エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると/助けを与える者はつまずき/助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。――ここにはユダの指導者たちの政策が過ちであったことの理由が語られています。ユダが頼ったエジプトは神なんかではなく、人に過ぎません。馬は肉なるものに過ぎず、霊ではありません。霊なる主に信頼せずに肉なるエジプトに頼ったことが間違いの原因であります。結局、助けるエジプトも、助けを受けるユダの民も共に滅びる以外にないという、徹底的な裁きの言葉が語られているのであります。
 私たちが直面する身の回りの問題の解決策を考える時も、つい人間の知恵や力に頼ろうといたしますが、御言葉に耳を傾け、主の知恵に委ねるべきであります。そうでないと、裁きを受けざるを得ないことになり、災いがもたらされます。私たちは身の回りの問題に対して、人間の浅はかな知恵や自分の感覚や感情で対応していないでしょうか。まず、祈って、主の御心を尋ねるべきであります。

2.翼を広げた鳥のように――主が戦われる

次に4節から5節の段落に進みます。4節ではこう言っております。まことに、主はわたしにこう言われた。獅子や若獅子が獲物を捕らえて、うなるとき/多くの羊飼いがそれに対して/呼び集められても/獅子はその声を恐れず/喚声にたじろぐことはない。万軍の主は、そのように/シオンの山とその丘の上に降って戦われる。――この獅子の譬は少々分かりにくいものです。二重の意味が含まれているようです。獅子は獲物の羊を捕らえると、たとえ多くの羊飼いが呼び集められてもたじろぐことがありません。そのような獅子のように、神がユダの民に裁きを行われるとき、強力な援軍を求めても、神はたじろぐことなく、裁きを行われるという意味が一つです。もう一つは、逆の意味で、神が獅子のようにエルサレムを捕えられると、どのような敵の勢力が喚声をあげて攻めようとしても神はたじろぐことがないのでエルサレムを奪うことは出来ないという意味です。次の「万軍の主は、そのように/シオンの山とその丘の上に降って戦われる」という言葉は後者の意味に合っていて、エルサレムの民のために主が戦ってくださるので守られるという意味にとった方がつながります。しかし、「丘の上に」という箇所は「丘に対して」とも訳せますので、そう訳すと、前者のように、主がエルサレムの民に対して戦って滅ぼされるという意味になります。3節までで語られたこととの関係では、この方がよくつながります。しかし、5節にはつながりません。では、ここをどう解釈すればよいのでしょうか。私は二重の意味が込められているのではないかと思います。一つは神の言葉を信頼しないで人の知恵や力に頼ろうとすることに対する神様による断固とした裁きであります。現に、エルサレムは紀元前701年にアッシリアに包囲され、重い貢物を支払わなければならないことになります。更に、紀元前597年には、台頭したバビロンによってエルサレムは占領され、バビロン捕囚が始まるのであります。しかし一方、イザヤは更にその先に、選ばれた民であるイスラエルが神によって守られ救われる時をはるかに望み見ているのではないでしょうか。具体的には紀元前538年にペルシャ王クロスによって、捕囚から解放され、バビロンからエルサレムへの帰還が実現するのであります。もちろんイザヤはそのことを具体的に預言しているわけではありませんが、神が強い御意志をもって必ずエルサレムを回復して下さるとの確信を持っていたのでしょう。神様の断固たる裁きの先には、翼を広げた鳥のように主が守られ、救われることが約束されるのであります。

3.立ち帰れ――悔い改めの礼拝

67節に進みます。こう呼びかけております。イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。その日、人々はそれぞれ、かつて、自分の手で造り、それをもって罪を犯した銀の偶像と金の偶像を退ける。――これまでの箇所で、主を信頼しない者への厳しい裁きが語られるとともに、主はエルサレムを守り、救われるとの約束が述べられていたのですが、それには一つの条件があります。それは「主に立ち帰る」ということであります。このことは30章でも「立ち帰って/静かにしているならば救われる」と語られていました。「立ち帰る」とは自らの罪を認め、悔い改めることであります。悔い改めの具体的な形は、7節にあるように偶像礼拝を退けることであります。悔い改めとは、自分のしたことや言ったことに間違いがあったと反省するだけではありません。神様以外のものに頼っていたことを止めて、神様への信頼に立ち帰ることであります。神様を礼拝し、神様の御言葉に聞き従うことへと立ち帰ることであります。それは同時に他のものに頼ることを止めるのでなければ、悔い改めにはなりません。悔い改めとは、唯一の神様を信頼し、偶像を退けることです。この唯一の神様への信頼という悔い改めが中途半端であやふやであると、自らの言葉や行ないへの反省も中途半端になってしまいます。私たちの中には自分を正当化したいという気持ちがどうしてもあります。ありのままの自分を神様の前に投げ出して、自分を捨てきることが出来ません。自分を捨てるような悔い改めは、私たちの理性や努力で出来ることではなく、どうしても主の憐みによる助けが必要です。憐み深い唯一の主の前に身を投げ出して、「あなたのもとに立ち帰らせてください」と助けを求めるならば、主は「翼を広げた鳥のように」、私たちを支配している自我とかサタンの力から守って下さって、救いに入れて下さるのではないでしょうか。そして、そこに偶像に惑わされることのない本当の礼拝がもたらされるのであります。

4.人間のものではない剣によって――岩ですら逃げ去る

そのような悔い改めをもって行われる礼拝によってもたらされるところの救いの状況が、89節で幻として示されています。
 アッシリアは倒れる/人間のものではない剣によって。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす。彼らは剣を恐れて逃げ/その若者たちは労役に服す。岩ですら恐れのゆえにその場から動き/その長たちは旗を捨てて逃げ去ると/主は言われる。
 
権力を誇ったアッシリアが滅ぼされます。それは、「人間のものではない剣」すなわち神の力によって滅ぼされるのであります。実際、アッシリアはバビロンによって滅ぼされることになるのですから、人間の力が用いられるのですが、そこには神の力が働いたのであります。
 
アッシリアがユダの若者たちを労役に服させていましたが、今やアッシリアの若者たちが同じ運命を辿ることになりというのです。「岩」とは、揺らぐことがないように見えたアッシリアの神のことか、アッシリアの王のことでしょう。それが旗を捨ててエルサレムから逃げ去るのであります。
 
私たちを支配し、苦しめているアッシリア――それは、自分の悪い性格であったり、幼い時からの習慣であったり、古いしきたりであったり、生まれつきの体の弱さであったり、心や体にとりついた病であったり、家庭環境や親戚関係のしがらみであったり、職場の人間関係であったりするのでしょうが、それらの「岩」を私たちの知恵や力で撥ね退けることは出来ません。しかし、私たちが神様に立ち帰るならば、「人間のものではない剣」、即ち、神様の力によって、倒し、あるいは逃げ去らせて下さるのであります。

5.神の選びは取り消されない(秘められた計画)

今日は、新約聖書の併読で、ローマの信徒への手紙1125節以下(p291)の御言葉を読んでいただきました。これより前の部分では、筆者のパウロは異邦人の救いということを語って来たのですが、ここに来て、では、主イエスを十字架に架けたイスラエルの人たちはどうなるのか、彼らには救いがないのか、という問題を取り上げています。25節でパウロは「秘められた計画」ということを言っております。口語訳聖書では「奥義」と訳されていました。その「秘められた計画」の中身をここで解き明かしているのですが、2832節を読みます。
 
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがた(ローマの信徒の人たち)は、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル人)の不従順によって憐みを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐みによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐みを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
 
28節で「神の選び」ということを言っております。イスラエルは神によって選ばれた民であります。そのイスラエルの民が神に対する不従順から、救い主イエス・キリストを十字架に架けるという過ちを犯してしまいました。しかし、29節でパウロは、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と語っています。イスラエルの民に対する選びの賜物と招きは、彼らが主イエスを十字架に架けたことでも取り消されることはない、と言い切っているのであります。なぜなら、そのイスラエルの不従順とその結果としての主イエスの十字架が、異邦人にも救いをもたらすことになったからであります。それが神様の秘められた計画でありました。
 
今日のイザヤ書で言えば、イスラエルの民(ここではユダの民)は神様を信頼せずに、目に見える力に頼ろうとして、神様に背き続けて来ました。しかし、元々神が選んで下さったという「神の賜物と招きとは取り消されない」のであります。神様の憐みは彼らの不信仰にもかかわらず、変わることはありません。
 
ここにいる多くの方々もまた、神様の選びによって教会へ導かれ、信仰を与えられました。しかるに私たちは不従順に陥り、神様に背き続けています。しかし、「神の賜物と招きとは取り消されない」のであります。神様は背き続けている私たちを主イエス・キリストの贖ないによって、神様のもとに立ち帰らせて下さいます。私たちが自分の手で造った様々の偶像を退けて、真の神様の前にひざまずくなら、神様は私たちの罪を赦して、救い出して下さいます。そればかりでなく、私たちをも用いて、神様の憐みが更に多くの人々へと広げられて行くのであります。そこに神様の「秘められた計画」があります。

結.主はシオンに火を

最後に、9節の最後の2行の言葉を聴きましょう。
 
主はシオンに火を/エルサレムに炉を持っておられる。
 
「火」とか「炉」というのは何を指すのでしょうか。聖書を調べてみると、「火」も「炉」も、一つには、神様の怒りや裁きを表わします。例えば、詩編8947では「御怒りは永遠にと燃え続ける」という言葉があります。イザヤ書2611では「敵対する者に向けられるあなたのが彼らを焼き尽くしますように」と祈られています。イザヤ書4810では神の言葉として「わたしは苦しみのでお前を試みる」と語られています。主イエスもマタイ2541で「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠のに入れ」という厳しいお言葉を語っておられます。しかし、「火」や「炉」は、神殿の祭壇の上で燃え続ける火、祭壇の生贄のための炉のことを指して用いられることがあります。これも、神様の怒りと裁きが生贄の献げものの上に下されるということでしょうが、それによって人の罪が赦されるということですから、恵みを表わすものとして用いられていると言えます。
 
では、ここではどうでしょうか。シオンとエルサレムはイスラエルの民を代表するとともに、神殿を象徴いたします。そこに主が火や炉を持っておられるということは、イスラエルの民への神の怒りと裁きがあり、エルサレムが滅ぼされ、神殿が破壊されるという預言が語られていると受け止めることができます。現に、やがて紀元前587年にはバビロンによって破壊されることになります。しかし一方では、エルサレムの神殿には生贄の火が燃え続けるということが約束されているとも受け取ることが出来ます。一旦はバビロンによって破壊された神殿も、やがてバビロン捕囚から解放されて、神殿を再建することになります。そして、神殿の炉の火が再び燃えることになります。イスラエルの民に対する神様の赦しがあります。そして更には、エルサレムにおいて主イエスの十字架の生贄が献げられて人間の罪の赦しが実現するのであります。預言者イザヤがそこまでを含めて語っていたとすることは読み込み過ぎかもしれませんが、私たちは新約聖書によって主イエスの十字架の贖いを知っていますから、この箇所から主イエスによる罪の赦しの救いを読み取ることが許されるのではないでしょうか。シオンとエルサレムにはパウロの言う「秘められた計画」が込められています。そしてまた、シオンの火とエルサレムの炉は、私たちにとっては、このような礼拝における神様の裁きと赦しを指し示しています。
 私たちは、今日与えられている御言葉によって、私たちの有り様に対する神様の激しい怒りと厳しい裁きを聴き取らねばなりません。他人を裁くのではなく、自分自身の罪を思い知らねばなりません。しかし同時に、私たちが背き続けてきた神様の許に立ち帰り、悔い改めるならば、翼を広げた鳥のような神様の愛の故に、神様の守りがあり、罪の赦しがあって救われるのだとの、永遠の命の約束を聴き取ることが出来るのではないでしょうか。そこに私たちの希望があり、本物の喜びがあります。お祈りをいたしましょう。

祈  り

救い主なるイエス・キリストの父なる神様!
 
あなたを信頼せず、この世の知恵や力に頼って、あなたに背く、愚かで罪深い者たちでございます。そのような者たちに、今日も御言葉を賜り、あなたの翼の許に立ち帰らせようとして下さる恵みを感謝いたします。
 
どうか、心から悔い改める者とならせて下さい。どうか、イエス・キリストの故に、お赦しください。どうか、あなたの救いの約束を信じて、希望の火を燃やす者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年5月26日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書31:1−9
 説教題:「
主はシオンに火を」         説教リストに戻る