「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」・・・「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」                    (ヨハネによる福音書15511
 「あなたは普段、何に喜びを見出しておられますか。あなたの喜びは本物ですか。いつまでも続く喜びですか。」――私たちは日々の歩み・人生の中で、それぞれの立場・性格・能力に応じた様々な喜びを見出そうとする。だが、私たちの喜びは脆く、傷つきやすく、永続する保証はない。聖書においてこそ、朽ちない本物の喜びに出会うことができる。
 
預言者イザヤは「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る」と述べ、本物の喜びは神との関係においてもたらされると言う。主イエスは、標記のように、ぶどうの木であるキリストにつながってこそ豊かな実を結ぶことができ、喜びに満たされると言われた。
 では、「実を結ぶ」とはどういうことか。主イエスは、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8)と言われ、「わたしの愛にとどまりなさい」(9)と言われ、その愛については、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われ、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とまで云われた。つまり、友のために自分の命を捨てるほどに愛することが神の栄光を現わすことになり、実を結ぶことにつながると言われるのである。こうなると、「本物の喜び」はあまりにもハードルが高く、私たちには縁遠く思える。
しかし主イエスは、私たちにこのような愛を求める前に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言っておられる。罪深く、人を愛し得ない私たちのために、主がまず十字架において御自分の命を捨ててくださった。この主の愛にとどまっているとき、実を結ぶことができるし、喜びに満たされるのである。「本物の喜び」とは、罪を赦されて救われる喜びなのである。この喜びは、どのような悲しみや苦しみの中にあっても、失われることがない。主は、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」(11節)と言っておられる。主イエスの中に満ちている愛の喜びが、私たちの喜びの源泉なのだ。この喜びは、私たちの生活や人生の一部だけのものではなく、私たちの全存在を永遠に満たす「本物の喜び」なのである。

特別伝道礼拝説教<要 旨> 2013年5月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:1−17 説教題:「本物の喜び」   説教リストに戻る