序.あなたの喜びは本物ですか

今日のお話の題を「本物の喜び」とさせていただきました。私たちの日々の生活の中で、また私たちの人生の中で、「喜び」を感じることがないとすれば、毎日が大変味気ないものになってしまうだけでなくて、生きることが難しくさえなるのではないでしょうか。私たちが生きて行くに当たって、「喜び」は欠かせないものであります。ですから、私たちは普段の生活の中で、色々なことに喜びや楽しみを見出そうといたします。
 今回の伝道礼拝の案内のチラシの中で、「喜び」についての問いかけをしております。最初に、「あなたは普段、何に喜びを見出しておられますか」と問いかけています。どうでしょうか。皆さん、それぞれ考えてみてください。あれやこれと沢山のことを思いつく方もいらっしゃるでしょうし、「これがわたしにとってなくてならない喜びです」と大切な一つを挙げる方もいらっしゃるかもしれません。今はとても苦しいことが多くて、喜びを見出すことが難しい状態にあるという方がおられるかもしれません。あるいは、苦しい中で、小さなことに何とか喜びを見出そうと努力しておられる方がおられるかもしれません。
 喜びには色々な種類があります。日常生活の中で、例えば、美味しい料理が出来たとか、庭に綺麗な花が咲いたとか、可愛い孫がやって来たとか、面白いテレビを見るとか、美しい音楽を聴くとかいうようなことを楽しむ喜び〈楽〉があります。また、旅をするとか、スポーツをするとか、仲間と集まって談笑するといった快適な時を過ごす喜び〈快〉があります。あるいは、絵や音楽や小説など何か作品を創り出す喜び〈創〉があります。恋人や家族を愛し、それらのために生きようとする愛の喜び〈愛〉があります。あるいは、難局を乗り越えるとか大きな問題を解決するとか、真理を追究して新しい発見にたどり着くといった達成の喜び〈真〉があります。また、社会のために役立つとか隣人のために尽くすといった使命を果す喜び〈善〉があります。このように、日常的な小さな喜びから生涯をかけて取り組むような大きな喜びまで色々な喜びがあります。どれが上等で、どれがあまり上等でないというようなことを論じても意味がないと思います。私たちの生活や人生のそれぞれの時期や置かれた立場、その人の性格や能力によって様々な喜びがあってよいと思います。
 
しかし、こうした私たちの喜びは、いずれも「脆さ」を持っているのではないでしょうか。案内チラシで二つ目に問いかけたことは、「あなたの喜びは本物ですか。いつまでも続く喜びですか」というものでした。私たちの喜びの中には、一時的に欲望を満たすような、その場限りの儚い喜びがあります。そんな喜びは消え去っても当然かもしれません。しかし、本物で大切だと思える喜びであっても、いつまでも続くという保証はありません。日常的な喜びにしても、生涯をかけて達成するような喜びであっても、傷つきやすさと破れに取り囲まれていて、永続する保証は何もないのであります。環境や条件が少し狂えば、せっかくの喜びも手に出来なくなります。ある日、大きな災害や事故に見舞われると、これまでの喜びは吹っ飛んでしまいます。生活の経済状態が悪化すると喜びを追及している余裕がなくなってしまうかもしれません。また、健康を害すれば、意欲はあっても、創作の喜びや奉仕する喜びに取り組むことには制約が出来たり、場合によっては断念しなければならなくなります。人間関係に行き違いが生じると、愛の喜びも憎しみや怒りに変わってしまいます。私たちの持っている喜びは、どんなことがあっても失われないとは言えません。そういう意味で、いつまでも続く本物の喜びとは言えないのであります。
 
では、どんなことが起こっても尽きることがなく、いつまでも続く本物の喜びというようなものが存在するのでしょうか。聖書はそういう本物の喜びを与える書物なのであります。それは、単に本物の喜びについての知識を与えるということではありません。生きた本物の喜びに出会うことの出来る書物なのであります。

1.主において喜ぶ/キリストにつながって喜ぶ

では、聖書で出会う喜びとはどのような喜びなのでしょうか。それは本物の喜びなのでしょうか。本当に、どんなことがあっても失われない、永続的な喜びなのでしょうか。聖書を見て参りましょう。
 
聖書の中には喜びのことが無数に書かれていますが、まず、今日最初に朗読された旧約聖書のイザヤ書の言葉をもう一度御覧ください。(イザヤ6110=p旧1162)最初の10節でこう言われています。わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。ここには「主によって喜び楽しみ」また「神にあって喜び躍る」とあって、聖書における喜びというのは、神様との関係においてもたらされる喜びだということであります。もちろん、先ほど考えましたように、人間は様々なことに喜びを見出すことが出来るし、それも決して悪いことではないのですが、聖書で扱われる喜び、即ち、本物の喜びは、神様との関係において与えられるということであります。
 
次に、後で朗読された新約聖書のヨハネによる福音書の方を御覧ください。(ヨハネ151以下=p新198)ここはイエス・キリストが話されたことが書いてあるのですが、1節で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われているように、キリストは御自分のことをぶどうの木に譬えられて、神様をぶどうの木の世話をする農夫に、そして私たちをぶどうの枝に譬えて話されています。そしてここでは、キリストであるぶどうの木につながっていることによって豊かに実を結ぶことが出来るのだということが繰り返し述べられていて、11節に至って、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と言われています。つまり、イエス・キリストにつながっていることによって喜びに満たされるのであって、キリストにつながっていないと、喜びが失われてしまうということであります。
 このように、聖書の言う喜びとは、父なる神様及び御子キリストに結びついていることによって与えられる喜びだということであります。逆に言うと、その関係から離れては、実を結ぶことが出来ず、捨てられてしまうのであります。本物の喜びに与かることが出来ないということになります。聖書の中に主イエスが話された「放蕩息子の譬え」というのがあります。ある息子が父親の財産の分け前を要求して、それを貰うと、父親の許を離れて、遠くの国に旅立って、そこで放蕩の限りを尽くすのであります。そこには、楽しみや喜びがいっぱいあったことでしょう。しかし、それは本物の喜びではありませんでした。財産を使い果たしたとき、ひどい飢饉が起こって、食べるにも事欠くようになって、やっと我に返って、父の許にいた時の喜びを思い出して、父の許に帰るのであります。父は息子が帰って来たことを喜んで大歓迎するのであります。これは父なる神のところにこそ本物の喜びがあることを教えた譬えであります。 

2.豊かに実を結ぶ――愛し合う喜び

では、その本物の喜びの中身とは何なのか、ということになります。5節を御覧ください。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに身を結ぶ」と言われています。この譬えによれば、喜びの中身は「豊かに実を結ぶ」ということで表現されています。では、「実を結ぶ」とは、どういうことでしょうか。「実を結ぶ」というと、普通は目標が達成されるとか、成果が上がるという意味で用いられます。人生において描いた夢が叶うとか、大きな収穫を得るとか、世のため人のために貢献できるような良い働きをするということです。ここでも、確かにそういう意味が含まれているのですが、その場合の「目標の達成」とか「成果が上がる」とか「良い働きをする」というのは、自分なりに満足できる結果が出て、自分に利益がもたらされるとか、人から誉められるということではなさそうです。8節を御覧ください。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」――この言葉によれば、「実を結ぶ」とは、主イエスの弟子となって父なる神様が栄光をお受けになることであります。主イエスというぶどうの木にしっかりとつながって、そこから養分を受け取ることによって、良い働きをすることが出来て、結果的に神様が栄光を受けられる、即ち、神様が讃えられ誉れを受けられる、ということが「実を結ぶ」ということなのであります。ですから、「本物の喜び」の中身とは、私たちが物質的あるいは精神的な何物かを獲得して喜ぶというよりは、神様がお喜びになるということなのであります。そして、神様に喜んでいただけることが、私たちの喜びにもなるのであります。
 では、神様はどういうことをお喜びになるのでしょうか。910節を御覧ください。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」――ここには「愛」のことが取り上げられています。父なる神様と御子イエス・キリストの深い愛の関係が主イエスに従う弟子たちとの間にも及んでいるので、その愛にとどまりまさい、と勧められています。「愛にとどまる」とはどういうことでしょうか。ここに「掟」という言葉が出て来ております。それは、実は13章に既に出ているのですが、この後の12節にも繰り返されていますので、そこを御覧ください。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とおっしゃっています。主イエスは弟子たちを愛されました。その愛に倣って弟子たちが互いに愛し合うということが、主イエスの掟であります。この掟を守ることが神様の栄光を現すことになり、神様がお喜びになることにつながるのであります。これが、ぶどうの木につながっているということであり、「本物の喜び」の中身であります。
 そうなると、「互いに愛し合う」ということが「本物の喜び」につながるわけですから、「互いに愛し合う」とはどういうことか、ということを知らなければなりませんし、それを実行しなくては「本物の喜び」に与かることが出来ないということになります。
 
そこで13節を御覧ください。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」――大変なことを言い出されました。「互いに愛し合う」ということの行き着く先は、相手のために自分の命を捨てることだと言われるのであります。もっとも、「これ以上に大きな愛はない」と言っておられますから、これは最大の愛であって、これより小さな愛であっても「愛し合う」ことに含めていただけるのでしょう。でも、それでは「本物の喜び」も小さくなってしまいます。大きな喜びに至るには、命を捨てるところまでには至らなくても、自分の大事なものを捨てなければならないことになるのでしょうか。

3.救いの喜び――罪を赦される喜び

ところで、ここまで主イエスの言葉を聞いて来て、皆様はどうお感じになったでしょうか。ぶどうの木につながっているということは、とても大変なことだ、と思われたかもしれません。友のために自分の大事なものを捨てるというようなことは、自分にはなかなか出来ないから、「実を結ぶ」とか「本物の喜び」なんて縁が遠い、ハードルが高すぎると感じられたかもしれません。
 しかし、主イエスは私たちに高いハードルを示して、それを越えなければ、「実を結ぶ」ことは出来ないし、「本物の喜び」にも至らないとおっしゃっているのではありません。主イエスが言われていることにもう一度よく耳を傾けてみましょう。
 12節をもう一度御覧ください。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言っておられます。「互いに愛し合いなさい」と命じられる前に、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉がついています。私たちが「互いに愛し合う」ことの前に、主イエスが私たちを愛して下さったという事実が既にあるのであります。どのように愛して下さったのでしょうか。13節では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。これは、理想的な愛を私たちに要求しておられるのではありません。この言葉で思い起こさなければならないのは、主イエスが私たちのために命を捨てて下さったという事実であります。
 
先日のイースター(復活節)合同礼拝で「復活のイエスとペトロ」という人形劇を演じました。主イエスの一番弟子のペトロは主イエスを愛し尊敬しておりました。主イエスを憎む人たちが十字架につけるようなことがあっても、自分は主イエスに従って行こうと覚悟を決めておりました。しかし、実際に主イエスが捕えられて裁判にかけられたとき、「お前はあのイエスの仲間だろう」と言われて、「私はあの人を知らない」と言って、あっさりと主イエスを裏切ってしまったのであります。人間の愛というのは、一番弟子のペトロでもそのようなものであります。そして、主イエスは十字架によって命を捨てられるのであります。それは、主イエス御自身には何の罪もないのに、弱いペトロをはじめ私たちの犯した罪のために身代わりとなって死んで下さったのであります。そこに主イエスの愛があります。そして、主イエスは復活された後、ペトロや弟子たちのところに現われます。そして弟子たちを責めるのではなくて、彼らの罪を赦して、彼らがもう一度弟子としての働きが出来るように立ち上がらせなさったのであります。
 この愛が私たちの上にも注がれているということです。この主イエスというぶどうの木につながっており、この主イエスの愛にとどまっているときに、私たちは「実を結ぶ」と言われ、「喜びに満たされる」と約束しておられるのであります。主イエスは私たちの精進努力や犠牲的な愛の行いによって、愛の実を結べ、と言っておられるのではありません。私たちは人を愛するどころか憎んだり、裏切ったりする者であります。自分のことが第一で他人のことは二の次であります。神様から数々の恵みを受けているにも拘わらず、神様を蔑ろにする罪人であります。そんな私たちの罪が神様から赦されるために、主イエスが命を捨てて下さいました、その愛から離れないで、そこにとどまっていなさい、そうすれば必ず「実を結ぶ」ことが出来るし、「喜びに満たされる」と言っておられるのであります。そこに「本物の喜び」があるということであります。
 
先ほど、放蕩息子の譬えのお話をしました。放蕩の末、父親の許にこそ本物の喜びがあったことに気づいた放蕩息子は、父親の許に帰ってきます。その日を待ち望んでいた父親は、はるか遠くから帰って来る息子を見つけると、大喜びで異常なほどの歓待の準備をするのであります。神様は罪を犯した者が再び戻って来ることを、大喜びで迎えて下さるお方であることが、この譬えで表わされています。聖書の「本物の喜び」というのは、この父親のような赦しの愛を受ける喜びであります。これを「救い」と言っております。「救い」とは、困難な状況から救われる、苦しみから救い出されるということももちろん含まれますが、すべての困難や苦しみの根底にあるのは人間の罪であります。神様につながっていないという罪であります。その罪が赦されて、もう一度神様との関係を取り戻すということが「救い」であります。そこに「本物の喜び」があります。

4.失われない喜び――苦しむことも喜び

そのように主イエスとつながっていることによって、「本物の喜び」を与えられている私たちなのですが、それならそこには悲しみや苦しみは縁がないのでしょうか。そうではありません。主イエスにつながっていたら、おまじないのように、或いは御利益として、悲しみや苦しみが私たちの上を通り過ぎるというのではありません。むしろ、主イエスにつながっていることによる苦しみが加わることがあります。そのような悲しみや苦しみに襲われるならば、主イエスとつながっている者でも喜んでばかりはいられません。そういう場合は「本物の喜び」にも陰りが出て来るということでしょうか。
 先ほどから読んでいる箇所には含まれていませんが、少し先の1616節以下には「悲しみが喜びに変わる」という小見出しがついています。その中の20節を御覧ください。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われています。これは、主イエスが捕えられて十字架に架けられて、主イエスを憎んでいた世の人たちは喜ぶのだけれども、あなたがた弟子たちは悲しむことになる。しかし、その悲しみは喜びに変わる、と言っておられるのであります。それは、十字架に架かられる主イエスが復活されるということを予告しておられるという意味があるのですが、その先に先ほど申しましたように、裏切った弟子たちももう一度主イエスとのつながりを取り戻すことが赦されて、主イエスのことを人々に伝えるために働くという喜びが待っているということが含まれています。
 主イエスの復活後、弟子たちによる伝道活動が始まるのですが、その中で多くの迫害を受けることになります。しかし、その苦難の中でも喜びが失われることはありませんでした。伝道者パウロが記した「フィリピの信徒への手紙」というのがあります。この手紙はパウロが獄中で記したものなのですが、「喜び」という言葉が沢山出て来ることで知られています。こう書いております。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、・・・すべての人々に知れ渡り、・・・多くの者が、わたしの捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。・・・とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。」(フィリピ11218)ここにはキリストに仕えることによって受ける苦難をも喜ぶ姿があります。また、コロサイの信徒への手紙では、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(124)とも言っております。ここに「本物の喜び」があります。
 

結.主の喜びで満たされる

最後に、もういちどヨハネ福音書1511節の言葉を聴きましょう。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」――「わたしの喜び」と言っておられます。主イエス・キリストの中には喜びが満ちています。そこに喜びの源泉があります。そのイエス・キリストの喜びが私たちの中に入って来て、私たちの喜びとなって満たされる、とおっしゃるのであります。信仰に生きるということは、主イエスが喜んでくださること、神様が喜んでくださることをして生きるということもありますが、そのことが私たちの喜びとなって、私たちに満ち溢れるのであります。それは、喜びが私たちの心の奥底にあるとか、生活の一部にあるとか、人生の一時期だけ喜びとなるということではありません。私たちの全存在、私たちの一生、否、永遠にわたって私たちを喜びで満たすのだとおっしゃっているのであります。主が与えて下さる喜びは朽ちることのない「本物の喜び」だからであります。
 今日、聖書に残された主イエス・キリストの言葉を通して、「本物の喜び」に出会うことが出来ました。この喜びは永遠のものでありますが、私たちが地上の歩みを進めていて、様々な悲しみや苦しみに心を奪われているうちに、忘れがちになります。だから、絶えず教会に来て、聖書によって喜びの御言葉を聴く必要があります。どうか、続けて礼拝に来て、「本物の喜び」に満ちた生涯を歩んでいただきたいと思います。お祈りいたします。

祈  り

喜びの源である父なる神様!
 
あなたは喜びに満ちた世界を創造されましたが、人間の罪がその喜びを覆い隠す場面が多くあります。そのような状況の中にあって、あなたは御子イエス・キリストによって人間の罪の問題を解決し、信じる者に本物の喜びを回復してくださいました。感謝いたします。
 どうか、主イエスにつながることによって、絶えず喜びに満たされる者とならせて下さい。どうか、その喜びに押し出されて、互いに愛し合い赦しあう喜びに生きることが出来るようにさせてください。
 どうか、悲しみや苦しみの中に沈んでいる方々、不安の中にある方を、主にある本物の喜びへとお招きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 特別伝道礼拝説教<全原稿> 2013年5月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:1−17
 説教題:「
本物の喜び」         説教リストに戻る