序.光が見えない中で

この米子伝道所は1992426日に開設されました。昨年20周年を迎えて、以前、無牧の期間にお世話になった西橋先生をお招きして開設記念礼拝をいたしました。今年は21周年ということでは特別な行事は致しませんが、今日の主日礼拝を開設21周年記念礼拝として持ち、与えられております預言者イザヤの言葉を通して、この時に当たって私たちが聞くべき御言葉に耳を傾けたいと思います。
 
ところで、米子伝道所の現状を見ますと、教勢の上では開設当初から大きく伸びているとは言えません。何度も申し上げましたように、かつては伝道所開設後20年経てば独立教会になるというのが目標とされ、戦後、多くの教会がその目標を達成して、独立教会になったのであります。しかし、今、伝道所としてあるところの多くは20年以上経っても、独立できないままのところが多いのであります。今、日本のキリスト教会が全体として、なかなか伝道が進まないどころか、教勢の低下が続いている中で、独立教会であっても自立することが困難な状況になって苦戦している教会も出始めている状況の中にあって、伝道所が現状維持できているだけでも感謝しなければならないとも言えるのであります。とは言っても、このような伝道が困難な時代にあっても、教勢を伸ばしている伝道所や教会もないわけではなくて、決して時代の所為にして諦めていてはならないと思うのであります。私たちの伝道所もこれまでに多くの求道者を与えられて参りましたし、会員が他に移ったりして減った後には、不思議に他から移って来る人がいたりして、補われて来たのであります。そこには、私たちの働きを越えた神様の御配慮があったことを思わざるを得ないのであります。
 
しかしながら、最近の米子伝道所の状況を見ますと、受洗者が遠藤真理子姉以来5年間与えられていません。求道者として長く礼拝に連なっておられる方々も、なかなか受洗にまで至らないという実状があります。しばらく礼拝に続けて出ておられたけれども、来られなくなった方もたくさんあります。教会員の中にも、残念ながら礼拝から遠ざかっておられる方々が何人かいらっしゃいます。そうした方々のことを皆さんも覚えて祈って下さっていると思うのですけれど、明るい光はなかなか見えて来ません。どこの教会でも、求道者がそう簡単に受洗に結びつくわけではないし、教会員が高齢化や色々な理由で礼拝に来られなくなることはよくあることでありますが、だからと言って現状に甘んじているわけには参りません。私たちの伝道所のどこに問題があるのか、何が足りないのか、礼拝や説教や牧会のあり方に問題はないのか、どう改善すればよいのかを真剣に考える必要があります。委員会でも色々なことが話し合われ、実際の伝道・牧会活動も行って下さっているのですが、先に光が見えるところまでには至っていないのが現状であります。
 
今日は、開設記念礼拝ということで、米子伝道所の現状について振り返ってみたのでありますが、問題改善の見通しや将来の希望の光が見えないということは、個人の生活の中でも経験することであります。体や心に背負った重荷がなかなか軽くならないで、生涯負い続けなければならないのではないか、という重苦しい思いに捉われることがあります。夫婦や親子、兄弟といった人間関係においても、長年の間に積み重なった深い傷がなかなか癒えないで、円満な関係を取り戻す光がなかなか見えて来ないということもあります。そのような人間関係の問題は、残念ながら教会内においてもあります。そうした様々の問題を背負ったり、引きずったりしながら、私たちは教会につながっています。しかし、教会に来て礼拝生活をしていても、そうした問題の解決の光が見えて来なければ、本人はもちろん周囲の人々も、<教会に行っても何もならない>と思ってしまうのではないでしょうか。それでは伝道も進展いたしません。暗いところに光を照らすべき教会においても、光を見出すことが出来ないという現状があります。今日は、こうした問題について、御言葉から光を受けたいと思っています。

1.エジプトの陰に身を寄せる

イザヤ書30章の全部を朗読していただきました。大変長いので、そこに記されている言葉の意味を一つ一つ説明しているだけでも時間が過ぎてしまいますから、今日は特に心に留まる言葉を拾い上げながら、預言者イザヤが言いたかったこと、そして今の私たちが聴かなければならない神様の御心を、お伝えしたいと思います。
 
まず、このイザヤの預言が語られた背景ですが、既に北王国イスラエルは北方の大国アッシリアによって滅ぼされています(BC722年にサマリア陥落)。更にアッシリアは南王国ユダに対しても圧力を強めております。そうした中で、ユダの王ヒゼキヤを初め指導者たちは、小見出しにあるように西方の大国エジプトと同盟を結んで、アッシリアに抵抗しようといたします。しかし、イザヤはエジプトに頼ることの愚かさを語り、神を信頼すべきことを説くのであります。13節を読んでみましょう。
 
災いだ、背く子ら(ユダに指導者たち)は、と主は言われる。彼らは謀(はかりごと)(エジプトとの同盟)を立てるが、わたし(神)によるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊(御心)によるのではない。こうして罪を重ねている。彼らはわたしの託宣(御言葉)を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオ(エジプトの王)の砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる。しかし、ファラオの砦はお前たちの恥となり、エジプトの陰に身を寄せることは辱めとなる。以下、7節まで同様の主旨のことが語られているので省略いたしますが、ユダの指導者たちの間違いは、主の託宣(御言葉)に耳を傾けようとせずに、大国の力に頼ろうとしたことであります。
 
私たちも、光が見えない閉塞状態に陥ったときに、主の前に出て御言葉を聴こうとするのではなくて、この世的な知恵や力に頼ろうとしてしまうのであります。受洗者が与えられず、礼拝から遠ざかってしまう人がいるという閉塞状態から脱出するために、私たちは現代において効果があるとみられるような手段に頼りたくなります。例えば、若い人たちの心を捉えるような音楽やパフォーマンスや画像を取り入れることによって人を集めている教会のことを見聞きして、そうしたものの力を借りればよいのではないかと安易に考えてしまいます。しかし、そうしたものが心を捉えて、人々が集まったとしても、神様の御心を聴くことを忘れてしまったのでは、本当の力にはなりません。
 
今年の米子伝道所の目標は「喜びの礼拝」ということで、礼拝が心から喜べる場となることを願っていて、そのためには、礼拝の持ち方が現状のような形でよいのか、もっと心を躍らせるような進め方や手段はないだろうか、ということも検討課題であります。そのような試みの一つとして、昨年のクリスマス礼拝と先日のイースター礼拝では、礼拝の中に劇を取り込んでみました。そうした劇を取り入れた礼拝に取り組んで一定の成果を挙げている教会もあります。しかし、礼拝はただ楽しかったり、感動を呼び起こしたりすればよいというものではありません。神様の恵みを深く覚え、御前にぬかずくことに導かれなければ礼拝とは言えません。そのためには、御言葉が伝わらなくてはなりません。従来通りのことしかしてはいけないというのでは、改革はありませんが、何か新しいものを取り入れる時に、それが御言葉を聴くことに役立つことなのかどうかがポイントであります。
 
私たちは解決困難な問題に苦しむ中で、力があるように見えるものに惑わされて心を奪われがちであります。つい、「エジプトの陰に身を寄せ」たくなるのであります。しかし、困難の中で本当に求めなければならないのは、「主の託宣」、神様の御言葉であります。
 
12節以下で、イザヤはこう警告しています。それゆえ/イスラエルの聖なる方はこう言われる。「お前たちは、この言葉を拒み/抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ/この罪は、お前たちにとって/高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。」1213節)厳しい裁きの言葉であります。

2.信頼こそ力

イザヤはこのような警告を発しつつ、ではどうすればよいのかという鍵となる救いの言葉を、15節でこう伝えています。まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
 
解決が困難な閉塞状況から救われるためにしなければならないことは、「立ち帰って、静かにする」ことだと言われています。「立ち帰る」というのは、もちろん神様の許に立ち帰るということであります。私たちは閉塞状況に陥ると、どこか新しい場所に行かなければならないと考えてしまいます。新しいアイデア、新しい手法が閉塞状況を打開してくれるのではないか、新しい土地、新しい対象を開拓すれば、可能性が開けるのではないかと期待いたします。確かに製品の開発や商業の展開では、絶えず新しいものを求めなければ可能性は開かれません。しかし、教会の閉塞状況や人生の難題から救い出されるためには、新しい場所に出て行くのではなくて、まず神様の許に立ち帰ることが必要なのであります。「立ち帰る」という言葉は悔い改めることも意味します。悔い改めるとは、自分で反省して心を入れかえることではありません。神様の許に立ち帰ることが悔い改めであります。自分の勝手な思いを捨てて、神様の御心の許に帰ることであります。「立ち帰って静かにしているならば」と言われています。「静かにする」というのは、ただ何もしないで成り行きにまかせるということではありません。まず、主の前に静まり、主への信頼の内に自分の身を完全に浸し切ることを意味します。祈りつつ主の御心に耳を傾けるということであります。私たちは動き回っていないと、何もしていないように思ってしまいがちであります。しかし、マルタのように動き回っていると、何が大切なのかを見失ってしまいます。マリアのように主の御言葉に静かに聞き入ることこそ、なくてならないことなのであります。
 
続けて、「安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われています。私たちは現状を打開する力を求めて、それに頼ろうといたします。ユダの指導者たちはそれを大国エジプトの武力に求めました。16節にこう言われています。お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。ユダの指導者たちは、エジプトの軍事力という馬に乗って、アッシリアの圧力から逃げようとしたのですが、敵の馬はもっと速く走って追いついて、結局、ユダは滅ぼされるだろう、というのであります。この場合は、最終的にはアッシリアよりも強大なバビロンという「馬」が出現して、ユダの都エルサレムは陥落することになるのであります。だから、馬に乗るよりも、神の許に立ち帰って、静かにして、「安らかに信頼していることにこそ力がある」のであります。私たちは急いで強そうに見える力に頼るのではなく、神様の助けを信頼して待つことこそが、閉塞状況の打開につながり、問題の解決に導かれるのであります。
 
ついでに、昨今の国際問題について触れておきたいと思います。北朝鮮の瀬戸際作戦の問題、中国や韓国との領土問題などが背景にあって、日本の立場が問われています。そうした中で、憲法の改正問題も今度の国政選挙の争点にされようとしています。そこでわが国の指導者たちがしようとしていることは、ユダの指導者たちがしたことと同じではないか、ということを私たちはしっかりと見ておかないといけないということであります。わが国は「速い馬に乗ろうと」としているのではありませんか。その中にあって、キリスト者がすべきことは、自らが神の許に立ち帰って、静かにして、安らかに信頼していることであり、政治についても、その立場に立って判断しなければならない、ということであります。神に「信頼していることにこそ力がある」からであります。

3.主は立ち上がられる

17節までは、ユダの不従順に対する神の警告と裁きが語られて来たのでありますが、イザヤの預言はそれだけで終わるのではありません。神様はユダを絶望的な状況に置き去りにはされません。18節を見ますと、こう語られています。それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
 
「主は恵みを与えようとして、あなたたちを待っておられる」と述べています。ユダは神様の救いを待てなくて、エジプトに助けを求めてしまいました。しかし、神様はユダが悔い改めるのを待っておられ、憐れみをお与えになる時を待っておられるのです。ルカ福音書に出てくる放蕩息子の譬えでは、放蕩息子が父親から貰った財産を使い果たして、食べることにも事欠くようになって、父親のもとに帰って来ます。その父親は、そんな放蕩息子が帰ってくるのをずっと待ち続けていて、遠くにその姿を見つけると、走り寄って首を抱いて接吻するのであります。そして、最上の衣服や食べ物で歓待するのであります。この父親こそ、私たちを待ち続けていて下さる神様であります。「主は憐れみを与えようとして立ち上がられる」のであります。主なる神様は私たちの閉塞状態や困難な状況をご存知ないのではありません。すべてを見ておられ、何とかそこから救い出したいと思っておられるのであります。そして、私たちが御許に立ち帰るのを、首を長くして待っておられるのです。そして、私たちが帰って来るのが待ちきれないように、救いのために立ち上がって下さるのであります。
 
「まことに、主は正義の神」と言われています。「正義の神」であられるお方は、私たちの悪を見逃されません。罪を放置されません。そういう意味で厳しいお方であります。厳しく裁かれるお方であります。しかし、神は同時に憐れみのお方であり赦しのお方でもあります。
 
神様は厳しい裁きをゴルゴダの十字架の主イエスの上に下されました。それが正義を貫かれる道でありました。裁きの行われた場所が憐れみの場所、救いの場所となったのであります。だからイザヤは、「主は正義の神。なんと幸いなことか」と言いました。この恵みの主を待ち望む人は、幸いなのであります。「待ち望む」ということと「信じる」ということは、同じことだと言ってもよいでしょう。私たちは困難な状況の中で、信仰なんて何の役にたつのか、と思ってしまいます。意識してそのように思わないにしても、いつの間にか、信仰がどこかに置き去りにされてしまって、力のありそうな馬にばかり目を奪われるのであります。しかし、そういう時こそ、主を待ち望む人が幸いなのであります。
 
19節を見ますと、こう語られています。まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。神様の許に立ち帰った者は、「もはや泣くことはない」のであります。困難な状況も悲しみの原因にはならないのであります。なぜなら、「主はあなたの呼ぶ声に答えて」下さるからであります。神様は私たちの祈りを必ず聞いておられ、答えて下さるからであります。主イエスは「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ119)と言われました。
 
20節以下には、イスラエルの民の叫ぶ声が主によって聞かれる結果、どうなるのかが述べられています。わが主はあなたたちに/災いのパンと苦しみの水を与えられた。これはバビロン捕囚の時代のことを言っております。物質的な苦しみがすぐには解消されないことが語られています。しかし、あなたを導かれる方は/もはや隠れておられることなく/あなたの目は常に/あなたを導かれる方を見る、と述べられています。神様はもはやイスラエルの民から隠れた存在ではなく、神様との関係は完全に回復される、ということであります。更に21節ではこう言われています。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。羊飼いが羊の群れの背後から声をかけながら導くように、神様がイスラエルの民の進むべき道を一つ一つ教えて下さる、ということであります。私たちが閉塞状態の中で進むべき道を見失いそうになるとき、祈りつつ主を呼び求めるならば、主は必ず進むべき道を示して下さる、ということであります。

結.祭を祝う夜のように

27節以下に目を向けましょう。ここには、小見出しにあるようにアッシリアに対する審判と主の民の喜びが語られています。しかし、アッシリアが悪くて、主の民は良かったという話ではありません。元々問題があったのは、主の民であります。主の民イスラエルの不信仰を戒めるためにアッシリアが用いられて、イスラエルは大きな苦難を受けたのであります。そして、イスラエルの民は苦難の中でエジプトの力に頼ろうとする過ちをも犯してしまいました。そうした苦難と罪の現場の只中で神様は預言者イザヤを通して、主の民に御言葉を語って来られたのでありました。そして、神様は御言葉によって主の民を立ち帰らせなさいました。御言葉によって、静かに神様に信頼することによって、力を得ることが出来るようになりました。そして、神様は羊飼いのように、主の民の背後から、進むべき救いの道をお示しになります。とは言え、現実には苦難が去ったわけではありません。アッシリアによる包囲があります。その後にはバビロンへの捕囚という長い苦難の歴史も待ち受けています。しかし、その中で主と共にある喜びが語られます。29節には、その喜びが「祭」として表現されています。おそらく過越しの祭でありましょう。あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い/笛に合わせて進む者のように心楽しみ/主の山に来て/イスラエルの岩なる神にまみえる。「主の山」とは神殿のことであります。神殿で礼拝を捧げているのでありましょう。
 
リュティという説教者は、この1節について短い説教を書いています。その説教では、このイザヤの語った言葉が主イエスの十字架を指し示していると捉えています。そして、こう語っています。<あなたの聖金曜日、あなたの不吉の日、あなたの恐怖の日、あなたの死の日は、私たちにとって「祭」となりました。私たちの心を喜ばせる祭となりました。聖金曜日の暗鬱な気分よ去れ。今や聖金曜日は、他のどんな日にも着ない祭の衣装を身につけて「心に喜ぶ」私たちの祭であり、また祭であり続ける。>(「小説教一日一章」より)
 私たちの身の周りにも、この教会の21周年目の歩みにも、未解決の問題が横たわっています。そこには私たちの罪があり、不信仰があります。しかし、神様はその問題の解決のためにこそ、主イエスをこの世に遣わされたのであり、その十字架によって、罪の重荷を担わされたのでありました。だから、問題の根本的な解決の道は開かれたのであります。私たちは、ただ静かに主を信頼しておれば、進むべき道を歩むことが出来るのであります。「信頼は力」であります。この恵みを覚えて、私たちは「祭を祝う夜」のように、喜んで御前に喜びの礼拝を献げることが許されているのであります。
 
最後に、少し戻って26節の言葉を聴きましょう。
 
主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる。
 
十字架の裁きの日は、全地が暗くなり、太陽は光を失いました。しかし、復活の朝が明け染めると、そこから世界中の闇を照らす光が輝いたのであります。先に光が見えない閉塞状態、問題の解決が見えて来ない暗闇のような状態の中にあっても、私たちには太陽の七倍の光、七つの光が与えられているのであります。その光は、この小さな伝道所の礼拝からも、照らし出されるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

過ち多いイスラエルの民を救い出して下さった父なる神様!
 
不信仰の故に先が見えず、光を見失いがちな私たちですが、そのような私たちをも、かつてのイスラエルの民と同じように顧みて下さり、イエス・キリストによる赦しと希望の光の中へと移し変えて下さったことを感謝いたします。
 
私たちはあなたに信頼して、御言葉による御指示に従いますので、どうか、愚かな私たちにも分かる言葉で、御心をお示し下さい。どうか、多くの人々が、この場所から新しい喜びに満ちた歩みを始めるように導いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年4月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書 30:1−33
 説教題:「
信頼こそ力」         説教リストに戻る