序.ペトロの手紙の続きを

主日礼拝の聖書の箇所は、3月までの3年間、日曜学校のカリキュラムに従って参りましたが、4月からは原則として、以前に行っておりましたように、連続講解説教という形に戻すことにしております。連続と言いましても、福音書と書簡(手紙)と旧約聖書を取り上げますから、毎週連続するわけではなくて、書簡と旧約聖書は、それぞれ月一回、福音書は以前中途まで行っておりましたヨハネ福音書を今年度中に最後まで行くのと、あとは、共通聖書日課と言って、世界の教会が主の日に同じ箇所を読むように作られたカリキュラムがあって、それを出来るだけ用いようと考えています。旧約聖書は以前にイザヤ書29章まで行っておりましたので、30章から続けます。そして書簡は、今日のテキストでありますペトロの手紙の続きを読んで行こうと思っていて、これも今年度中に第二の手紙まで読み終える予定です。
 
ペトロの手紙は2010年に2章まで進んでいたので、今日は3章からということになるのですが、いきなり「妻と夫」という小見出しが出て来て、戸惑われたのではないかと思います。実は210節までが、この手紙の基本的な教えを語ったあと、211節から、「愛する人たち、あなたがたに勧めます」という言葉で始まって、具体的な勧めに入っているのであります。そして、2章の中では具体的な二つの事柄、即ち、「人間が立てた政治制度の問題」と「召し使いと主人の関係」について取り上げられています。クリスチャンになった者が、この世の政治上のいかなる統治者にも服従すべきかどうか、と言う問題と、クリスチャンの召し使いがひどい主人にも従わなければならないか、という問題であります。
 
そこで教えられていたことの基本的な考え方は、今日の妻と夫との問題について考える場合にも大切なことが語られていますので、今日はまず、そのことの復習から始めたいと思います。

1.神の僕として、キリストを模範として生きる(復習)

まず211節を御覧ください。先程見たように冒頭で「愛する人たち、あなたがたに勧めます」と言ったあと、「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めております。キリスト者の国籍は天にあります。天にこそ本当の居場所があるのであって、地上では旅人で、仮住まいの身であるということが大前提だということです。しかし、これは、地上の生活を軽視して、良い加減に生きてよいということではありません。大事なことは、汚れた地上の旅をしつつ、主イエスとの交わり・神様との関係を大事にして生きるということです。ここで、「肉の欲」というのは、肉体的な欲望のことだけを言っているのではなくて、霊的なものに逆らうこと、つまり、神様に逆らうことが「肉の欲」であります。神様の御心に従って生きることよりも、自分の楽しみや、この世的な価値基準を優先するとか、対人関係において、自分の好みや感情、自分の面子や誇りを大事にして、相手の事情や心情を疎かにすることであります。それが、肉の欲に引きずられて神様に反抗すること、「魂に戦いを挑む」と言われていることであります。このことは、妻と夫との関係を考える場合にも当てはまることではないでしょうか。自分と夫との関係、自分と妻との関係を考える場合にも、自分の「肉の欲」即ち自分本位に考えるのではなくて、神様の御心を中心に考える時に、相手とのあるべき関係が導き出されるということであります。
 
次に、12節を見ますと、「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と言っております。この手紙は異教世界にある小アジアの教会の信徒たちに送られたものでありました。私たち日本の教会と同じような環境であります。周りの未信者の人たちは教会に行っている私たちの行いを見ています。そして、その行いがよければ、神様をあがめるようになるのであります。だから、周囲の人々に躓きを与えないかどうかを考えて行動しなければなりません。せっかく礼拝に行っていても、日常生活の中で立派でない行動をしていたのでは、礼拝に行っても何の益にもならないと受け取られるので、伝道になりません。これは非常に窮屈なことかもしれません。私たちは、「あの人は立派だ」というような評価はとても貰えないような気がいたします。けれども、求められているのは、聖人君主のような生活ではありません。物事の判断の基準が、神様中心になっているならば、私たちの日常行動も違って来ます。世間的に高く評価されるような「立派な行い」ということではなくても、主の御心を大切にする私たちの生き方が、不十分ながらも、神様の恵みを指し示すことは出来るのではないでしょうか。このことも、今日の箇所のテーマである夫と妻との関係についても適用できるのではないでしょうか。夫婦が世間で高く評価されるような「立派な行い」をすることが求められているわけではないでしょう。夫婦が共に仕え合う姿、そして共に神に仕える生き方を見て、周囲の未信者が神様をあがめるきっかけになるということであります。
 
13節から17節の段落には、人間の立てた制度に従うことが勧められています。これは、16節を見ると、「自由な人として生活しなさい」と勧めていますから、政治的な指導者や現在の制度に盲目的に従うことを勧めているのではないでしょう。しかし、パウロが言っておりますように、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」(ロ−マ1312)であります。この世の権威や秩序・制度を絶対化することは間違いですが、これを軽んじるのは我侭に過ぎません。16節後半では、「その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」と勧めています。キリスト者はこの世の制度や習慣に縛られない自由を与えられていますが、それを我侭の言い訳にしてはならないということであります。このことも夫と妻との関係についても当てはめられるでしょう。夫婦の関係も神が定められた秩序であります。自分の意に沿わないとか性格が合わないといった理由で、神が合わされたものを簡単に解消することは、我侭に過ぎません。「神の僕として行動しなさい」と言われていますから、自分の気持ちや考えではなくて、神の僕として御心に従っているかどうかが問われなくてはなりません。
 
18節から25節の部分は小見出しにありますように、主人の下で召し使いとされているキリスト者たちへの勧めであります。18節から19節にかけて、こう勧められています。「心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」これは時代錯誤の教えではないか、今のように人権が重んじられる時代とはズレた教えではないか、という印象を持たれるかもしれません。そして、不当な苦しみを受けたなら、正々堂々と反抗すべきだ、その方がキリスト者らしい、と考えたくなるかもしれません。ところが、その後の20節を読みますと、「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」と書かれています。更に21節では、「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と言っております。つまり、相手の方に問題があっても、苦しみを甘んじて受けるのが御心に適うことであって、それはキリストの模範に習うことだ、と言うのであります。もちろん、こちらに落ち度があるなら、謝って赦しを乞うべきですから、先ずは自分の側にも問題がないかということを冷静に振返ってみることが必要です。しかし、こちらに問題がなくても、反抗するよりも、耐え忍ぶことが、キリストに倣う道なのであります。このこともまた、夫と妻の関係でも言えることなのであります。

2.神を畏れ/夫に従う

ここから、ようやく本日の箇所に入るのですが、3章の初めに、同じように、と書かれています。召し使いがキリストの模範に習って、問題のある主人に従うのと同じように、問題のある夫に従いなさいと勧めるのであります。召し使いと主人との間の場合なら、もともと上下関係があるのでまだしも、妻と夫の場合は対等なのだから、同じように耐え忍ぶ必要はなく、妻には夫から自由になる権利があるのではないか、という思いもよぎります。しかし大切なのは人間の権利ではありません。神様の御心・神様の御言葉に従うかどうかということであります。夫婦は神様の御心によって結ばれたのであります。そこには神様の恵みの御計画があります。1節の続きでこう言われています。夫は御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたの純真な生活を見るからです。――「御言葉を信じない人」というのは、未信者ということもあるでしょうが、信仰を持っていても、弱さがあって、御言葉に従って行動することが出来ない場合も含まれるでしょう。いずれの場合にしても、妻の無言の行いによって信仰に入れられる、あるいは御言葉に立ち返ることが出来る、それが神様の御計画だ、というのであります。どうしてそういうことが可能になるのか。それは、「神を畏れるあなたの純真な生活を見るから」だと言います。苦痛を耐えて夫に従っている姿の中に、神様を畏れる生き方、神様を第一とする生き方が滲み出るからであります。「無言の行い」と言っても、言葉では通じないから言葉を捨てた方がよいという意味ではありません。言葉も必要ですが、たとえ言葉によって表わさなくても、行いの中に神様の言葉が表現されるということであります。日々の歩みの中に妻が聞いている神様の言葉が表わされ、そこから夫に対する神様の言葉を夫も聴き取ることが出来るようになる、ということであります。ですから、耐え忍ぶ必要があるのです。もっとも、限界というものもあります。夫のもとから離れなければ、神を畏れる生活さえ維持出来なくなってしまうような状況があるかもしれません。そうであれば、夫から離れるのも止むを得ないかもしれません。しかし、そうした限界状況にまで至っていないなら、夫が御言葉を信じる信仰に導かれるために、神を畏れる純真な生活を夫に見せ続ける必要があります。そのためには、忍耐をもって夫に従わなければなりません。それがキリストの模範に倣って、その足跡に続くということであります。

3.内面を装う

3節、4節は婦人の装いについて書かれています。こう述べています。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。――外面的な飾りよりも、内面的な人柄が大切だという教えは、女性のための一般的な道徳訓(心得)のように聞こえます。しかしここでは、今1節、2節で聴いたこととの関連で読むべきでしょう。「柔和でしとやかな気立て」とありますが、これは、一般的に女性に求められる「やさしさ」とか「おしとやかさ」ということではなくて、<どのような苦難の中にあっても他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく、謙遜にひたすら耐えて神の言葉に従う生き方>のことであります。新約聖書では、主イエス自身の人柄を表わす箇所やキリスト者の基本的な生き方の姿勢を表わすところで出てくる言葉であります。そして、そのような「柔和でしとやかな気立て」は「朽ちないもの」と言われています。この「朽ちない」という言葉は、この手紙の第1章に何度も出て来るのですが、信仰によって新たに生まれさせられた者たちに与えられる、永遠の命に結びつく性格であります。だからこそ、「神の御前でまことに価値がある」、つまり神様が高く評価して下さるということであります。
 
5節、6節には、その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちのことが記されています。「聖なる婦人たち」というのはイスラエルの歴史の中で、神にのみ望みを託して生きて来た女性たちのことであります。その代表としてアブラハムの妻サラが挙げられています。創世記18章によりますと、高齢になったアブラハムとサラに、神の使いがやって来て、男の子が生まれることを約束したのです。初めサラは信じられなくて笑いましたが、「主に不可能なことがあろうか」という神の使いの言葉によって、神を畏れたので、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従したのでありました。アブラハムを恐れたのではありませんし、世間体や人間的な思いから夫に従ったのではなくて、神を畏れ敬ったから、アブラハムを夫として重んじたのであります。このように、キリスト者の行動の判断は、神を畏れ敬い、神様の御心に従うことから導かれることが大切なのであります。私たちは人を恐れることから判断し行動してしまって、そのために結果的に、人を信仰に導き入れることが出来ないことが多いのであります。けれども、神を畏れ、神の言葉に聴き従っている姿こそが、夫を動かし、人を動かすことが出来るのだということを信じたいと思います。

4.命の恵みを受け継ぐ/妻を尊敬する

次に7節には、夫に向けての勧めが語られています。夫の方はわずかに一節だけです。これは夫に対して必要な勧めが少ないからではありません。7節の初めに、同じように、とあります。召し使いへの勧めで述べ、妻への勧めでも述べたことと同じことが、夫に対しても言えるので、短いのであります。召し使いに対して勧められ、妻に対して勧められて来たことを一言で言えば「服従」ということであります。これは夫に対しても当てはまる勧めなのだということであります。これは圧倒的に男性優位であった当時の社会では、画期的な勧めであります。現代では男女平等ということが常識ではありますが、現実には妻は夫に従って当然という意識が残っています。しかし、神を畏れ敬い、神の言葉に従って、キリストを模範とする生き方をするという原則に立てば、夫も妻に従うべきなのであります。夫が妻を支配することは許されません。夫が自分の利益や楽しみだけを考えて、我侭な行動をするとか、自分の面子から妻に対して威張り散らすことはあり得ないのであります。妻のことを考えて、自分勝手なことを控え、辛いことも耐え忍ばなければならないのであります。
 ここでは「妻に従いなさい」という言い方はされておりませんが、女の特性を踏まえた勧めがなされています。それは、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、ということです。「弱いもの」という言葉の直訳は「弱い器」であります。女性は一般に肉体的な力において弱さがありますし、精神的にも、壊れやすさや傷つきやすさがあります。その上、未だに社会的な立場の弱さも残っています。そういうことをよく弁えて(理解して)、生活を共にしなさい、と勧めるのであります。「生活を共にする」というのは、ただ一緒の家に住んでいるということではありません。夫の仕事や社会的立場が中心で、妻はそれを支えるためにいるだけのようなあり方は、共に住んでいることにはならないでしょう。ここでは、生活を共にすることの目的を、命の恵みを共に受け継ぐことにあるとしています。何のために夫婦が共同生活をするのかと言えば、神様から約束されている命の恵みを共に受け継ぐためなのであります。命の恵みとは、子供や孫が生まれるということもありますが、より重要なことは、キリストによって約束されている永遠の命の恵みを共に受け継ぐということであります。その目的があるのだから、妻を尊敬しなさいと勧めているのであります。もし夫が妻を尊敬せず、妻を自分より下にある者、あるいは自分の言いなりになるべきものであるかのように扱って、日常生活の中で横暴に振舞っているとしたら、どうして永遠の命の恵みを共に受け継ぐことができるのでしょうか。妻を自分よりも弱いものとわきまえて、優しく接すること、そして尊敬すること、それは単に円満な夫婦関係を保つために必要なことであるばかりか、永遠の命の恵みを受け継ぐことが出来るか否かにかかっているということを、私自身を含めて男性は肝に銘ずべきであります。
 
今日の箇所は結婚式の際によく読まれる聖書の箇所の一つですが、もう一箇所有名な箇所があります。それはエフェソの信徒への手紙52133節(p358)であります。そこを読みます。
 
21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
 これは、結婚式の時だけ聞く言葉ではなくて、生涯、連れ添っている間、忘れてはならない勧めであります。

結.祈りが妨げられない生活

最後に7節の終わりを御覧ください。こういう言葉で締めくくっています。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。これは夫だけでなく、妻に対しても言われた言葉でしょう。夫婦の関係がギクシャクすれば祈ることが出来なくなります。いっしょに祈ることが出来ないばかりか、一人で祈ることさえ妨げられるのであります。<そんなことはない、何とか相手が変わってほしいとの願いを持って熱心に祈るのではないか>と思うかもしれません。しかし、その場合の祈りは、相手を批難していることの裏返しであって、自分の過ちを棚に上げていて、悔い改めの祈りが忘れられているのではないでしょうか。神様と自分との関係が失われていて、本当の祈りが成立する筈がありません。神を畏れ敬うという原則に立ち返るならば、まず自分の問題性に気付いて、悔い改めの祈りが出てくる筈でありますし、自分の我侭を捨てることも出来るようになりますし、相手を尊敬し、相手をいたわる思いも出てくるでしょうし、相手に従う思いも出てくるでしょう。そこから、本当の祈りが甦ってくる筈ですし、夫婦の祈りを取り戻すことが出来て、命の恵みを共に受け継ぐことが出来るようになるのであります。
 
今日の箇所は夫婦の関係のことが語られていたのですが、ここで勧められたことは全ての人間関係についても言えることであります。親子関係や友人関係についても当てはめることが出来るでしょうし、教会における兄弟姉妹の関係についても言えることでしょう。全ての人間関係の基本は、神を畏れ敬うことであります。真剣に神様の前に跪くことです。そこから関係改善の道が開かれ、命の恵みを共に受け継ぐ道が開かれるのであります。祈りましょう。

祈  り

夫婦を結びつけ、人と人とを結びつけ給う父なる神様!
 
命の恵みを受け継ぐために結ばれた関係が、私たちの罪によって損なわれることがあります。どうか、お赦し下さい。どうかあなたの大きなお計らいに立ち返り、共に御前にぬかずき、心から祈る関係を取り戻させて下さい。どうか、共に命の恵みを受け継がせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年4月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 3:1−7
 説教題:「
神を畏れる生活」         説教リストに戻る