序.挫折から立ち直らせるもの

イースターの合同礼拝では、「復活のイエスとペトロ」という人形劇を演じて、主イエスを裏切ってしまった弟子のペトロが、復活の主イエスと出会うことによって立ち直った物語を辿ったのでありました。今日はその物語の最後の部分を記した聖書の箇所から、改めて主の御言葉を聴きたいと思っています。物語そのものは、イースターの礼拝に出席された方はよく御存知ですから、今日はペトロがどのようにして立ち直ることが出来たのか、ということに焦点を当てながら、直接、聖書の御言葉を掘り下げて聴くことによって、私たちも復活の主イエスに出会いたいと思うのであります。
 
人形劇で御存知のように、ペトロは漁師でありましたが、主イエスによって弟子に召されて、「人間を獲る漁師」となったのでありました。それは人生の大きな転換であった筈であります。それ以来3年余り、主イエスと行動を共にしながら、主の御言葉を聴き、御業を目の当たりにしながら、自分たちも神の国が近づいたことを人々に伝えて、人々を主イエスのもとに招き入れる生活を続けたのであります。しかるに、主イエスの名が広まるとともに、反感を覚える人たちの抵抗も大きくなって、遂に主イエスが十字架へと向かわれることになって行きます。しかし、ペトロをはじめ弟子たちは、意気軒昂で、「主イエスと御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ2233)とか、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ1337)との決心を表明するのであります。ところが、主イエスが逮捕されて、裁判にかけられたとき、ペトロが裁判の行われている大祭司の中庭で様子を伺っていると、門番の女に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われると、「違う」と答え、他の二人の人にも問い詰められると、主イエスの弟子であることをはっきりと否定して、主イエスを三度も裏切ってしまったのでありました。やがて主イエスは十字架に架けられることになり、そこにはペトロの姿はないのであります。
 
こうしてペトロは大きな挫折を味わうことになりました。しかしながら、主イエスが十字架に架けられて息を引き取られ、墓に納められてから三日目の朝に、女の弟子たちが墓に行って、墓が空であったこと、そして復活の主イエスが現れたことをペトロたちにも知らせたのでありますが、信じられませんでした。ところが、その日の夕方に、弟子たちが人々を恐れて家の戸の鍵をかけて潜んでいると、そこに主イエスが現れて、釘跡のある手と、槍で刺されたわき腹とをお見せになったのであります。そして「聖霊を受けなさい」と言われて、もう一度弟子としての働きを始めるよう促されたのでありました。その後、八日経ってからも、先週聞いたように、最初に現れられた時にいなくて、復活を疑っていたトマスを目指して、もう一度復活の主イエスが現れて、今度は、トマスが主張していたことに応えるように、「あなたの指をここに当てて見なさい」と言われたのであります。こうして、弟子たちは復活された主イエスが幻ではなくて、正真正銘の主イエスであることを確信することが出来るようにされたのでありました。
 
ところが、今日の箇所では、7人の弟子たちがティベリアス湖畔、即ち、ペトロたちの元の出身地であるガリラヤ湖の畔に来ているのであります。なぜガリラヤに帰って来たかというと、マタイ福音書によれば、主イエスがペトロの裏切りを予告された時に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(マタイ2632)とおっしゃっていましたし、復活された日の朝、主イエスが女の弟子たちに現れられた時にも、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(2810)と言われたことを聞いたからであります。
 
しかし、ガリラヤにやって来た弟子たちには、主イエスが復活されたことを人々に伝えようとする様子は見られません。ペトロが「わたしは漁に行く」と言い出すと、他の弟子たちも同調するのであります。なぜ、昔の生活に戻るようなことを始めたのでしょうか。それは、生きて行くのに必要な食べ物を確保するための一時的な手段であったのかもしれません。あるいは、復活の主イエスに出会っただけでは、その後の新しい生き方がすぐに分かるわけではない、ということを示しているのかもしれません。主の復活の出来事はあまりにも大きな出来事であって、そのことを自分たちの生活にどう反映させたらよいかは、直ちに分かるようなことではない、ということかもしれません。私たちが、信仰を与えられて洗礼を受けても、これまでの生活を捨てて、仙人のような生活を始めたり、皆が皆、牧師のように、伝道に専念するわけではありませんから、ペトロたちが取り敢えず、慣れた元の職場に復帰したとしてもおかしくないのかもしれません。
 
しかし、ペトロたちが直ちに前向きの活動を始めることが出来なかったのは、そのような理由だけではないと思います。ペトロたちにとっての大きな問題がまだ解決されていなかったのではないでしょうか。自分たちが主イエスを裏切ってしまったということの心の清算が出来ていなかったのではないでしょうか。確かに主イエスのお体を見て、復活されたことを確信することは出来ました。これまでとは全く違う状況がもたらされました。主イエスを亡き者にしようとした連中の抵抗が自分たちにも及ぶかもしれませんが、それに対しては、決然と対抗する勇気を持つことも出来たかもしれません。しかし、主イエスを裏切ってしまったという罪の意識からは解放されていなかったのであります。このことは、時間の経過では解決されません。主イエスとの間に大きなわだかまりが残っています。深い溝が横たわっております。その溝を、自分たちの方から埋めることは出来ません。主イエスの方から埋めてくださらなければ、解決されないまま残ってしまいます。
 
私たちも主イエスの弟子とされていながら、躓いて主の許から逃げ去ったり、自分勝手なことをしてしまったりして、主イエスを裏切ることのある者たちであります。そのような私たちが、どのようにして主の弟子として立ち直ることができるのか、そのことを今日は、ペトロの立ち直りの物語から聴き取りたいと思うのであります。

1.三度目に現れる

先程少し触れましたように、ペトロたちはガリラヤに戻って来たのは、これからの生活の当てがないので、やむを得ず故郷に戻るしかなかったということではなくて、主イエスの指示があったからです。では、なぜ主イエスは弟子たちにガリラヤへ行くように指示されたのでしょうか。それは、ペトロたちが主によって召された原点の地がガリラヤであったからではないでしょうか。ガリラヤこそ、彼らが初めて主イエスにお会いし、その御業や御言葉を見聞きした場所でありました。主イエスはその原点の地に弟子たちを導かれたのであります。
 
ガリラヤ湖畔に帰って来た弟子たちは、舟に乗り込んで漁に出かけました。しかし、その夜は何もとれなかったのであります。これはペトロが弟子になった時と同じ状況です。夜が明けたころ、主イエスが岸に立っておられました。けれども弟子たちは、それが主イエスだとは分かりませんでした。この時までに復活の主イエスが少なくとも二度弟子たちに現れていたのですが、彼らは気付きませんでした。すると主イエスは「子たちよ、何か食べ物があるか」と愛情を込めた言い方で問われます。しかし彼らは素っ気なく「ありません」と答えます。すると主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれる筈だ」と言われます。弟子たちは一晩中試みたのに何もとれなかったのに、今更やってみても無駄だ、という思いがあったかもしれませんが、主イエスの言葉に何かしら力を感じたのかもしれません。そこで彼らがもう一度網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったのであります。その瞬間、イエスの愛しておられた弟子、即ちヨハネが気付いて、ペトロに「主だ」と言いました。かつて同じガリラヤ湖で弟子に召された時のことが甦ったのでしょう。ペトロもそれを聞いて、気付いたのでしょう。裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んで、岸におられる主イエスのもとへ急ぎました。こうして、主イエスのもとへの立ち直りが始まります。
 
陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上には既に魚がのせてあり、パンもありました。主イエスは最初、「何か食べ物があるか」と問いかけられたのに、もう魚まで用意されていました。弟子たちが獲った魚がなくても食事は出来たのです。しかし、主イエスは弟子たちの働きと、彼らが獲った魚も用いられるのであります。そして、12節にあるように、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われます。こうして、主が備えて下さった喜びの食卓に弟子たちをお招きになります。
 
このことは象徴的であります。弟子たちの働きがないとこれからの宣教の業は進まないのではありません。主イエスは既に必要なものを備えておられます。しかしなお、弟子たちの働きをも用いて、共に収穫の喜びを味あわせられるのであります。
 
更に13節を見ますと、イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた、とあります。パンを取って裂くという仕草は、主イエスが最後の晩餐でなさったことの再現です。それは、十字架の上で御自分の体が裂かれることを表わすものでありました。魚は主イエスが流された血を表わすぶどう酒の代わりに用いられたのでしょう。それらのことを今繰り返されることによって、弟子たちの立ち直りが主イエスの十字架の犠牲の上に成り立っていることを思い出させられました。
 
私たちが躓きから立ち直る場合も同様だということでしょう。主はまず私たちを弟子となった原点に立ち戻らせなさいます。原点とは何でしょうか。一つは、自分たちの力や経験では何の収穫がなかったのに、主イエスの御言葉に従うと、大量の獲物があったということであります。主の御言葉に従い直すことが原点であります。今一つは、主イエスの体であるパンを裂かれたことです。つまり、主イエスが十字架の犠牲をもって備えて下さっているという恵みの原点に立ち返って、そこから再出発することであります。

2.わたしを愛するか

さて、主イエスは朝の食事を弟子たちに用意されて、弟子として召された原点に立ち戻されたのでありますが、主イエスはそれだけではまだペトロが立ち直ることが出来ないことを御存知でありました。というのは、ペトロの心の深いところには、まだ解決していない重いものが残っているからであります。まだ、裏切りの罪の重荷から解放されていません。
 
そこで、食事が終わると、その重荷から解放するために、主イエスはシモン・ペトロと向き合おうとされました。恐らく主イエスは、じっとペトロを見つめながらだと思われますが、こう問いかけられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
 
「わたしを愛しているか」という問いは、単純・直截な問いかけでありますが、この時のペトロに対する主イエスの問いかけでなくとも、大変厳しい問いかけであります。誤魔化したり繕ったりすることが出来ない厳しさがあります。自分の家族や友人や教会の兄弟姉妹の一人ひとりから、このように問われたとしたら、私たちはどの人に対してもよどみなく「はい、わたしは確かにあなたを愛しています」と言えるのでしょうか。夫婦や親子のような親しい間柄であっても、どこかでひっかかるところがあるのではないでしょうか。私たちの交わりの中には、どこかに欠けがあります。どこかで責任を放棄しているところがあります。そのことを掘り起こさせるような厳しさがあります。ペトロの場合も、こう問われて、瞬時にこの数週間の自分と主イエスとの関係を振返らなければなりませんでした。そして、自分の愛の足りなかったこと、偽りがあったことを思わざるを得なかったのではないでしょうか。主イエスがペトロの裏切りのことを予告された時には、「あなたのためには命を捨てます」と言いました。それは決して偽りの言葉ではなく、本気でそう言いました。しかし、そのすぐ後で、自分の命が危うくなりかねない場面に遭遇すると、あっさりと裏切ってしまったのであります。自分で「愛している」と思っていることが、どれほど脆いものであったかということを思い知らされました。ですから、今回の主イエスの問いかけに対して、堂々と「はい、あなたを愛しています」と答えることができません。
 
では、主イエスがこのように問いかけられたのは、裏切ったペトロを問い詰めて苦しめるためでしょうか。ペトロの罪を暴いて断罪するためでしょうか。そうではありません。主イエスはペトロを愛しておられます。苦しい心の内も十分知っておられます。そして、ペトロの弱さ、その罪を赦しておられます。それだけでなく、苦しい思いの中にあるペトロをもう一度立ち直らせようとされているのであります。ペトロにはその主イエスの愛がよく分かったのではないでしょうか。裏切る前には、ペトロは自分の強い愛の力で主イエスをお守りしようと思っていました。でもそれは、失敗に終わりました。そして今、その失敗を赦す主イエスの大きな愛が分かりました。今度は、自分の愛ではなくて、主イエスの愛が自分を守って下さることが分かりました。主イエスの大きな愛がある限り、ペトロが主イエスを愛する愛が弱まることはありません。ペトロの心の内のことは、ペトロ自身よりも主イエスがよくご存知であり、主イエスがペトロの心の内に主イエスを愛する愛を作り直して下さったのであります。
 
ところで、主イエスはここで「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問うておられます。「この人たち」とは、そこに一緒にいた6人の弟子たちのことです。他の弟子たちと愛の比較をしておられるようにも読める問いかけであります。他の弟子たちの気を悪くさせるような言い方であります。しかし、主イエスが敢えてそのような問いかけ方をされたのは、かつては他の弟子たちより自分は主イエスを愛していると自負していたかもしれないが、今や誰よりも愛しているなどとは決して言えない自分であることを思い知らせるためであり、しかも、そのような弱いペトロであっても決して私は捨てないよという、主イエスの愛のメッセージが込められているのではないでしょうか。
 
主イエスの問いかけについて、もう一つ疑問があります。それは、なぜここで主イエスは「わたしを信じているか」と言われずに「わたしを愛しているか」と問われたのか、なぜ信仰を問うのでなく愛を問われたのか、という点です。先週聞いた20章では、主イエスはトマスに対して「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。見ないで信じる信仰を求められたのでありますが、それは弟子たちに求められたというよりも、主が昇天されてから後の人々や私たちに求められたものと受け止めるべきだということを申しました。ペトロたちは既に復活の主イエスを見て信じることが出来ました。しかし、ペトロたちが更に問われなければならないことは、主イエスを愛しているかどうか、ということであります。パウロが書いたコリントの信徒への手紙の中で「愛の賛歌」と呼ばれている箇所があります。そこでパウロは「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」といったことを述べた後、最後に「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Tコリント1413)と言っております。人と人との関係においても、主イエスとの関係においても、「信じる」ことよりも上に「愛する」ということがあるということであります。愛は主イエスの十字架によって示されたように、人のために自分の命をも捨てさせるものであります。その愛を主イエスは問われたのであります。
 
この問いかけに対して、ペトロはこう答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」――ペトロは自分の愛がどれほど脆いものであったかを思い知らされました。ですから、「はい、誰よりもあなたを愛しています」とは言えません。しかし今は、そのようなペトロをもう一度立ち直らせようとしてくださる主イエスの愛を知っています。その主の愛の故に、ペトロもまた主のために命をも惜しまない愛を与えられました。その愛の確かさはペトロの気持ちの高ぶりや決心の中にあるのではなくて、主イエス御自身の中にあります。そこで、ペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるほかないのであります。

3.わたしの羊を飼いなさい

このように答えますと主イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。「わたしの小羊」とは、言うまでもなく、羊飼いである主イエスを信じて従って行く羊の群れのような人々のことです。そのような人たちを主イエスと一緒になって面倒をみなさい、とおっしゃったのであります。これは単に、信者たちの世話をするということではありません。主イエスの大切な羊たちを愛することであります。それは、主イエスが命をも惜しまず弟子たちを愛されたように、羊たちのために命を惜しまず愛することであります。主イエスを裏切ったペトロではありますけれども、そのペトロに主イエスはそのような大きな役目をもう一度お与えになるのであります。どんなにうれしかったことでしょう。主イエスはペトロを赦して、もう一度用いようとされているのであります。
 
16節を見ますと、二度目に主イエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問われます。ペトロは恐らく、自分の思いが伝わらなかったのではないかといぶかりながら、最初と同じように答えます。
 
すると17節にあるように、三度目も同じように問われたので、ペトロは悲しくなった、と書かれています。主イエスが三度も言われたのは、ペトロが主イエスを三度も知らないと言ったことと関係があります。ペトロは心が刺されるようなつらい思いがしたことでしょう。けれどもこれは、主が、<お前は私を三度も知らないと言ったではないか>と責めておられるのではありません。そうではなくて、三度も裏切ったペトロを愛して下さって、罪を赦して下さっていることを、しっかりと心に刻みつけるためでありました。それが、もう一度大切な役目に就くために必要なことでありました。ある人は、主イエスを知らないと言ってしまったペトロの唇を清める必要があったと言っております。それもあったかもしれません。――こうして、ペトロの心の傷を癒し、清めて、立ち直らせて下さったのであります。

結.わたしに従いなさい

さて、私たちも主イエスの愛を知っており、主にお従いしたい気持ちをもっている者たちであります。出来れば主イエスのお言葉に従った生活をしたいと思っています。けれども、私たちは主イエスの愛を実践できるような者ではないし、主イエスのことなど忘れて、自分のことで頭が一杯になってしまうような者だし、主イエスのことを覚えていても、心が弱いので、いつのまにかサタンが入り込んで、自分の事の方を大事にして、主イエスのことを置き去りにしてしまう者であります。とても、主イエスの弟子の一人にはなれない者であります。
 
しかし、主イエスは、裏切ったペトロを放って置かれなかったように、主イエスのことを置き去りにしてしまいそうな私たちを放って置かれません。主イエスは、私たちを引き戻すために、私たちを追っかけて来て下さり、私たちにお言葉をかけて下さるお方であります。このような礼拝は、そのような愛と赦しの主イエスに、もう一度出会う場であります。弟子たちは主イエスの復活の事実を知っただけでは、再びガリラヤの元の生活に戻ってしまいました。ペトロがもう一度出直すためには、主イエスの復活の事実を知るだけではなくて、主イエスが追っかけて来て下さって、愛と赦しのお言葉かけて下さらなければなりませんでした。主の愛が心に響いた時に、主イエスは19節の終りにあるように、「わたしに従いなさい」と言われました。そして、ペトロの新しい歩みが始まりました。
 私たちは主イエスの十字架と復活の事実を知らないわけではありません。しかし、私たちは古い生活からなかなか抜け出せません。主イエスに従って行けるような資格はないし、主の役に立てる人間であるとは思えません。かえって主の手足まといになるだけのように思えます。しかし、主イエスはこうして、私たちを追い求めるようにして、礼拝に招いて下さって、「わたしを愛するか」と言って下さるのであります。私たちはただ、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言うほかありません。こうして、主イエスの愛と赦しを再確認させて下さいます。そのとき、主は、「わたしに従いなさい」そして「わたしの羊を飼いなさい」と言って下さるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

愛と赦しの主イエス・キリストの父なる神様!
 
主のためにお仕えすること少なく、むしろご期待を裏切ることの多い私たちを今日も訪ね求めてくださり、愛に満ちた御言葉を賜ることが出来まして感謝いたします。どうか、私たちの罪をお赦し下さい。
 
私たちの信仰は弱く、愛は乏しくございますが、主イエスの大きな愛に包まれて、主の愛を映し出すことの出来る者とならせて下さい。
 
どうか、人の愛を受けることの少ない人たちが、あなたの憐れみを覚えることができますように。どうか、あなたがねんごろな愛をもって、そうした人々を救い出して下さい。
 
どうか礼拝から遠ざかって、あなたの愛を忘れている者がおりますならば、どうか、礼拝に呼び戻して、愛の御言葉に触れることが出来るようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年4月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ21:1−25
 説教題:「
わたしを愛しているか」         説教リストに戻る