「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」                       (ヨハネによる福音書2029 

 週の初めの日(日曜日)の朝、マグダラのマリアは主の遺体が納められた墓に行ったが、そこには主のお体はなく、墓の外で復活の主に出会った。彼女はそのことを弟子たちに知らせたが、彼らは復活を信じることができず、主を十字架につけた人々を恐れて、家の戸に鍵をかけて肩を寄せ合うように隠れていた。復活を信じるということは、自分の目で確認することや合理的な説明に頼らず、信仰だけを支えに生きることであり、勇気を要し、恐ろしいことである。
 そんな弟子たちを主イエスは放置されず、その日の夕方に弟子たちのところに現れて、「あなたがたに平和があるように」と言って、十字架に架けられたときの手とわき腹の傷をお見せになった。こうして彼らは復活を信じて、恐れから解放された。
 しかし、この日、その場にいなかったトマスは、彼らが「主を見た」と言っても信じることができず、自分の指を主の手の釘跡とわき腹に入れてみなければ、決して信じないと言った。物事を中途半端には出来ない彼の性格が表われている。だが主イエスは、そんなトマスを目指して、八日後に再び現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた。主は愛する弟子の疑問を解き、信じる者となるために、これほどまでに心を用いられるのである。トマスは主のお心遣いが身に浸みるように分かって、「わたしの主、わたしの神」と叫んだ。もはや、自分の目と手で確かめるよりも、主の言葉を信じることの方が、どれほど確かであるかが分かったのだ。
 この後、主は標記のように言われた。これは疑い深かったトマスを叱っておられる言葉のようにも受け取れるが、それよりも、主の昇天後、肉眼では主イエスを見ることが出来なくなる、後の世の人々、即ち私たちを見据えて語られた言葉ではないか。私たちは、この弟子たちの伝えた言葉によって、主イエスの復活を知り、見ないで信じるという幸いに招かれるのである。それは、「信じてイエスの名により命(永遠の生命)を受けるためなのである。」(31節)

礼拝説教<要 旨> 2013年4月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:19−31 説教題:「見ないのに信じる」   説教リストに戻る